たとえば民族紛争に関して、真剣な考察や真摯な態度・対話が唯一の解決策だと考えるのはわかりやすい。あるいはファシズムの暴走や連合赤軍の凶行などに対して、真摯な態度で向き合うことで同じような悲劇が回避できるという考えも理解しやすいものであるように思える。
しかし、本当にそうだろうか?自分の社会や民族、郷土、家族などのことを「真摯に」思いやって変えようとしたり守ろうしたりするからこそ、むしろその外側の存在に対して攻撃的になったり、妥協を許さない態度を取ったりするのではないか?あるいは、真剣な態度で臨むからこそ、合意不可能な点がより明確に浮き彫りになってくるのではないのか?
私はそのことを「conscious looseness」という記事で書いたわけだが、そのような逆説を考える上で非常に興味深い作品が、最近日本でも公開されたチリ映画「NO」である。
簡単に背景や内容を紹介しておくと、1970年代にチリでは社会主義のアジェンデ政権が成立した。それに対し、アメリカはCIAを通じて反アジェンデ勢力に力を貸し、その代表であるピノチェトが大統領を倒して独裁政権を敷いたのであった(およそ10年前にはキューバ危機が起こり、また同時代の東南アジアではパリ協定でアメリカがヴェトナムから撤退した、と言えば多少は情勢=アメリカの共産主義への危機感が理解されやすいだろうか。またニカラグアやグレナダでも類似したことが起こっている)。しかし、その暴政に対して国際世論の非難が集中。後にチリは選挙をやらざるをえなくなった・・・という時期のお話。
ピノチェトの暴政を訴え「NO」を突きつけんとする人々は、反ピノチェトのデモがどのように弾圧されてきたか(=逮捕や虐殺のあり様)を放送すべきだと考える。真実をストレートに、真摯に訴える・・・なるほど大いに結構なことだろう。しかし主人公は大要次のように言う。「そんなやり方ではみんな弾圧されることを恐れて意見を言わず、選挙にも行かないだろう。むしろ気軽に、明るく『NO』を言えると感じるようなCMこそが必要だ」と(不安ではなく、ポジティブな感情によって動機付けをすべきだと考えた、とも言える)。その結果が、たとえば次の動画の冒頭にあるようなCMとなったわけだ。
しかし、映画にも描かれている通り、一見するとこれは不謹慎なものであるように思える。独裁者に対する真摯な戦いが、こんな「みんなでピクニックに行こうよw」みたいなノリでいいのか!と。そうして主人公の周りの人間もその手法を否定し離れていく。しかし、紆余曲折の末ではあるが、この「NO」派は結局今述べた方法を通じて勝利したのであった。
もちろん、内情をよく知らない外国の人間が、「対岸の火事」としてであれ圧政・蛮行を見て批判する目を持つようになる、という意味では先のような逮捕・虐殺のシーンは有効であろう。よって常に「NO」の主人公が描く見せ方・伝え方が最善であると言うつもりはない。また、ここで賢明なる読者諸兄の中には「これが単に大衆扇動の一種に過ぎないのではないか?」と考える人もいるだろう。実際、この作品の中ではピノチェト派が主人公のCMの手法を模倣して「YES」=ピノチェト独裁肯定のプロパガンダを流す展開になっていて、主人公の手法を無批判に肯定しているわけではないことには注意を要する。とはいえ、earnestness(真剣さ・真摯さ)がもたらしかねないある種の閉塞を見事に描いているという点は、いくら注意してもしすぎることはないように思うのである。
なお、これに関しては(記憶が曖昧だが)「Welcome to Sarajevo」という映画で、いがみ合っているはずのクロアチア人とセルビア人が他の人間に(半ば強引に)トランプに誘われるシーンを例に出すのもいいだろう。途中で同じ席についてゲームに興じている自分たちに気づき、思わず苦虫を噛み潰したような表情をする場面は、「JSA」で描かれた北朝鮮と韓国の軍人の交流とも似ているが、熟議よりもゲームなどを介していつの間にか相手と通じ合ってしまっている=いつの間にか垣根がなくなっている状況である。そしてそれらは、「真剣さや真摯さだけが問題を解決しうる」という思い込みから私たちを自由にしてくれるものであろうし、またそのことが、まさに最近の「キャラ的関係性、ノイズ排除、モナド化」で書いた「日本的想像力の可能性」にもなるのである。
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