先日「欺瞞の告発」を書いたが、その一件で身につけた考え方からすれば、そのまま「世の中バカばかりだ」という認識に繋がるのが自然である。ところがそうはならなかった。理由は単純で、個人的に話した印象から、周囲の人間が(自分より)色々考えているのを知っていたからである。この経験によってますます疑問は深まった。なぜそういう人たちが、明らかな欺瞞や不可思議な枠組みを受け入れているのだろうか?いやあるいは、理屈がわかった上であえて世間的に都合の良い、もしくは合理的な姿勢(建前と言っていいかもしれない)をとっているだけなのかもしれない、とも考えた。この見方が正しければ問題は解決だ。
ところがこれもアテが外れた。以前「理解されなかった問い」などで書いたが、例えばなぜ性的なものがタブー視されたりするのかといった問いかけは、「エロくても別にいいんじゃない?」といった全く的外れな答えを得るだけに終わった(=性的なものや性欲を肯定すべきという発言としか受け取られなかった)。この事実は、彼らがそういう問題意識で性的なものを考えてこなかったことを意味している。これほどに不可思議なことを、それだけの頭を持ちながらなぜ誰も考えようとしないのか?
あまりに問いが理解されないため、「世の中バカばかりだ」という結論になりかけたが、それよりも重要なことがあった。例えば欺瞞の告発の時は集団による隠蔽だったし、性的なものを抑圧しようとするのは(その根拠を理解していない)社会的規範であった。要するに、個人ではなくて、集団や集団を縛る枠組みにこそ欺瞞と虚構が見出される(※)。とするならば、そういうものによって構成される「普通」や「常識」という枠組みに一体どれほどの価値があるというのだろう?
このような考えが生まれた後で「狂気」を求めるようになったのはすでに述べた通りである。この反応に見られる病理は、そこまで突き詰めて考えることなしに問題を放り出し、極端へと走ったことにあると言える。例えば今の俺なら「お前はテレビゲームが動く仕組みを知った上でゲームをプレイしてんのかい?」と昔の自分に問いかけるだろう。これに対して「水物の理念や常識と科学を一緒くたにすんな」くらいの反論がくれば話しがいもありそうだが、記憶の限りではそういった思考実験はまるでできていなかった気がする。それだけではない。そもそも欺瞞や偽善をなぜそこまで嫌うのか、という最も重要な自分自身への問いかけ自体がほとんど欠落していた。結局、自分の拠って立つ枠組みを考えようとせず、それに振り回されているという点で自分が批判的に見ていた人たちと大同小異であったし、またそういった思考体型(自明と思っているものを疑えない)が一般的であることを証明していたと言えるだろう。
※
個人的には話のわかる人間が、集団の一員としてだと途端に不可思議なものを平気で受け入れたりすることがある。その最たるものの一つは戦争である。このような観点では、空気が読めないとか言うときの「空気」(及び山本七平の『空気の研究』)や筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』に出てくる「世界を統べるコンピュータ」の話などがおもしろい。
ところがこれもアテが外れた。以前「理解されなかった問い」などで書いたが、例えばなぜ性的なものがタブー視されたりするのかといった問いかけは、「エロくても別にいいんじゃない?」といった全く的外れな答えを得るだけに終わった(=性的なものや性欲を肯定すべきという発言としか受け取られなかった)。この事実は、彼らがそういう問題意識で性的なものを考えてこなかったことを意味している。これほどに不可思議なことを、それだけの頭を持ちながらなぜ誰も考えようとしないのか?
あまりに問いが理解されないため、「世の中バカばかりだ」という結論になりかけたが、それよりも重要なことがあった。例えば欺瞞の告発の時は集団による隠蔽だったし、性的なものを抑圧しようとするのは(その根拠を理解していない)社会的規範であった。要するに、個人ではなくて、集団や集団を縛る枠組みにこそ欺瞞と虚構が見出される(※)。とするならば、そういうものによって構成される「普通」や「常識」という枠組みに一体どれほどの価値があるというのだろう?
このような考えが生まれた後で「狂気」を求めるようになったのはすでに述べた通りである。この反応に見られる病理は、そこまで突き詰めて考えることなしに問題を放り出し、極端へと走ったことにあると言える。例えば今の俺なら「お前はテレビゲームが動く仕組みを知った上でゲームをプレイしてんのかい?」と昔の自分に問いかけるだろう。これに対して「水物の理念や常識と科学を一緒くたにすんな」くらいの反論がくれば話しがいもありそうだが、記憶の限りではそういった思考実験はまるでできていなかった気がする。それだけではない。そもそも欺瞞や偽善をなぜそこまで嫌うのか、という最も重要な自分自身への問いかけ自体がほとんど欠落していた。結局、自分の拠って立つ枠組みを考えようとせず、それに振り回されているという点で自分が批判的に見ていた人たちと大同小異であったし、またそういった思考体型(自明と思っているものを疑えない)が一般的であることを証明していたと言えるだろう。
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個人的には話のわかる人間が、集団の一員としてだと途端に不可思議なものを平気で受け入れたりすることがある。その最たるものの一つは戦争である。このような観点では、空気が読めないとか言うときの「空気」(及び山本七平の『空気の研究』)や筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』に出てくる「世界を統べるコンピュータ」の話などがおもしろい。
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