前回のエンディング考察を中断する形で申し訳ないが、やはり一番重要な問題について述べておきたいと思う。それは、前にも触れた「主人公の言動・行動をいかに理解するか」というものである。これについて色々なレビューを見るかぎり、基本的な要素すら理解されていないと感じることが多いため、指摘する必要を感じるのだ。なお、内容的に君望をひたすら擁護しているように見えるかもしれないが、私自身も多くの批判・不満を抱えていると前置きしておきたい。
さて、孝之について考える場合、遥への態度は最も重要なポイントの一つだ。 遥に接する時、プレイヤーは遥の状態を「眠りから目覚めたばかりで現状がうまく認識できていない」と捉えるだけで終わってはいないだろうか?もしそうなら、状況を半分しか理解できていないことになる。なぜなら、容体がいつでも急変しうるという未来に向かっての不安を抱えながら孝之(その他)は遥に接しているからである。そこまで考えないと、例えば遥と応対する時に出てくる選択肢の意味が単に「期待に答えるか否か」という軽いものになってしまうのだ。選択の際に、自分の言葉が遥の記憶(すなわち容体にも)と密接に結び付くという意識的、無意識的な恐れ・躊躇が孝之にあることを認識しなければ、遥に対する選択肢の重みと孝之の辛さを真の意味で理解することはできない。こういった認識に加えて、孝之には水月との関係と約束、「眠っていた」遥への気持ち、彼女への罪悪感と義務感といったものまでのしかかっているのだ。孝之を「へたれ」とか優柔不断となじる意見は多いが、それは以上述べたようなしがらみや苦しみを考慮に入れた上で言われているのだろうか。少なくとも、私にはそう思えない。
誤解の無いようにいっておきたいが、私は鳴海孝之を批判するなと言うのではない。(特に遥・水月に関しては)諸々のしがらみの数々によって身を引き裂かれ、自身も血まみれになりながらもなお、「しがらみに縛られた行動が結果的に誰も幸せにできないのなら、より以上の痛みを伴ったとしても誰かを幸せにできる道をあなたは選ばなければならない」 と言えるのか?孝之を批判するのなら、そういう姿勢が必要だと私は主張しているのである。しかもそこで言うところの「幸せ」が、もしかすると鳴海孝之のいる状況以上の絶望を生み出すかもしれないという戒めも必要である。でなければ、結果を知った上で「なぜ~しないのか」と言うような、現在進行形的な苦しみを抱える孝之たちに対しては無意味な批判しかできなくなってしまうからである。エンディングを見た私たちは、遥が目覚めた事が彼女の第二の人生の始まりであることを知っているが、孝之たちにとってはその喜びがさらに深い絶望で塗り潰されるかもしれないという不安と闘っているのだから。
さて、孝之について考える場合、遥への態度は最も重要なポイントの一つだ。 遥に接する時、プレイヤーは遥の状態を「眠りから目覚めたばかりで現状がうまく認識できていない」と捉えるだけで終わってはいないだろうか?もしそうなら、状況を半分しか理解できていないことになる。なぜなら、容体がいつでも急変しうるという未来に向かっての不安を抱えながら孝之(その他)は遥に接しているからである。そこまで考えないと、例えば遥と応対する時に出てくる選択肢の意味が単に「期待に答えるか否か」という軽いものになってしまうのだ。選択の際に、自分の言葉が遥の記憶(すなわち容体にも)と密接に結び付くという意識的、無意識的な恐れ・躊躇が孝之にあることを認識しなければ、遥に対する選択肢の重みと孝之の辛さを真の意味で理解することはできない。こういった認識に加えて、孝之には水月との関係と約束、「眠っていた」遥への気持ち、彼女への罪悪感と義務感といったものまでのしかかっているのだ。孝之を「へたれ」とか優柔不断となじる意見は多いが、それは以上述べたようなしがらみや苦しみを考慮に入れた上で言われているのだろうか。少なくとも、私にはそう思えない。
誤解の無いようにいっておきたいが、私は鳴海孝之を批判するなと言うのではない。(特に遥・水月に関しては)諸々のしがらみの数々によって身を引き裂かれ、自身も血まみれになりながらもなお、「しがらみに縛られた行動が結果的に誰も幸せにできないのなら、より以上の痛みを伴ったとしても誰かを幸せにできる道をあなたは選ばなければならない」 と言えるのか?孝之を批判するのなら、そういう姿勢が必要だと私は主張しているのである。しかもそこで言うところの「幸せ」が、もしかすると鳴海孝之のいる状況以上の絶望を生み出すかもしれないという戒めも必要である。でなければ、結果を知った上で「なぜ~しないのか」と言うような、現在進行形的な苦しみを抱える孝之たちに対しては無意味な批判しかできなくなってしまうからである。エンディングを見た私たちは、遥が目覚めた事が彼女の第二の人生の始まりであることを知っているが、孝之たちにとってはその喜びがさらに深い絶望で塗り潰されるかもしれないという不安と闘っているのだから。
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