恐山の寺へ入場という時に、瓦の支援(購入)に関する掲示が目に入った。
ふむ、サン=ピエトロ大聖堂修築のために免罪符が大々的に販売されたことなどを思えば、まあこういうのはあるあるだよね。もっとも、その案件を受けてマルティン=ルターは「神は金を受け取らない」、つまり免罪符による救いは欺瞞だして教会批判が始まり、それが宗教改革となっていったわけだが。
ただ、それに比べると、「浄財」でもなく「救済の約束」でもなく、単に「支援」を依頼するというのはある意味良心的と言えるかもしれない。まあ宗教組織ってのも経営をしなきゃいけないからね。葬式や戒名といった形も含めて金を稼がなきゃならん。霞を食って生きるわけにもいかんし・・・
ただ、今後は日本の人口が減ってきて仏式の葬式を行わない人も少しづつ出てきている状況を考えると、経営はますます厳しくなっていくだろうね。高齢者の数は増えるわけだから、そこにうまく食い込んでいくしかない。また日本政府や地域社会の財政もこれから良い方向にいくという見通しはちょっと立てにくいし、ヤバくなったら援助というのもより難しくなっていくだろう。あとは観光地として外貨獲得の拠点になるってのもあるけど、そうそう何回も来てくれるわけじゃないから、やっぱり安定した財源の供給元を確保するしかないよね。アメリカのようにdonationの文化があれば別だけど、そんなものが一朝一夕でできるわけもないし・・・つかまあ社会不安が劇的に払拭されない限り、人の金は蓄財に向かうのが普通だろうな。
あと気になるのは科学技術(VRやAI)の発達だよね。向精神薬的なものも今後発展していくだろうし。端的に言えば代替物となりうるものの質が上がってきているわけだ。そこに加えて、「輝かしい未来より今ここの安寧」という具合に人の意識がよりコンサマトリーになって現世利益的なものを求める傾向が強まれば、宗教よりも発達した技術に救いを求める動きを止めることはできないだろう。そうなると果てさてどうしたもんか・・・いや待てよ待て、AIの発達によって人が暇になったら、古代ギリシア人的生活になる人・時間は増える可能性が高い。そうなったらあれこれ「余計なこと」を考える暇も増えるから、そこに訴求力を持てばいいわけか!
・・・そんなことを考えながら、異世界への門をくぐったのであった。
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