私がエヴァンゲリオンに興味を持てない理由:ガジェットと私小説

2022-08-05 12:00:00 | レビュー系

 

 

あるものが好きな理由も嫌いな理由も、多少は説明できる(少なくともそれっぽいことは言える。前者は「沙耶の唄」「ファイアパンチ」、後者はシェイクスピア作品など)。しかし、「興味がない」理由を説明するのは非常に難しい。それは全くとっかかりがないからである。

 

私にとってある時期以降のエヴァンゲリオンはそういう作品だった。具体的には、テレビ版をリアルタイムで全て見て、劇場版の「セカイの中心でアイを叫んだケモノ」も映画館まで見に行ったが、それ以降は今日に到るまで結局そのコンテンツに触れる気が起きないままきてしまった次第である(何か具体的なきっかけがあってもう見ねえよ!とブチ切れたのならわかりやすいが、別にそういうのでもない)。

 

しかし今回、山田玲司の解説動画を見てかなり解像度は上がったように思う。端的に言うと、「自分が作者と作者の私小説両者ともに興味が持てなかった」という実に身も蓋もない理由でございましたよと(・∀・)

 

まあ掘り下げればそこにも様々な理由が挙げられるだろう。一つは、自分があまりエヴァンゲリオンが参照しているようなコンテンツに詳しくなく、結果としてガジェットの元ネタを楽しむような知識がなかったこと。そしてもう一つは、作者の抱える問題意識を全く共有していなかったという点に求められそうだ。

 

もう少し説明すれば、前者は「小5から始めるメガストア」のように、同世代からすると特異なコンテンツを消費する量がそれなりに多く、結果として「はっちゃけあやよさん」「Words Worth」(ともにPC-98のエロゲー)は知っているが、例えば「らんま1/2」も「となりのトトロ」も見たことがない、みたいなかなり偏った知識をもっていたことを指摘できる。

 

また後者に関しては、自分の「問題意識」としては次のような例示が可能だろう。

1.「宗教と思索:今日的思考の原点」

これは小学時代の話だが、要約すると「宗教への懐疑と世間(社会)への懐疑の源泉」と言える。

2.「嘲笑の淵源:極限状況、日常性、『共感』」

これは中学時代のものだが、「人がいかに理性(やそれを構成する環境・日常)の脆弱性を理解していないか」という言い換えられる。それを抽象化・一般化すれば、「今の自分を構成する環境的要因という視点が弱い=自分とは違う環境の他者を理解する視点も弱い」ということで、他者の理解不可能性とその必然についての認識である。

3.「私を縛る『私』という名の檻」

これは高校時代を題材にしたものだが、「統一的自己という認識に何の必然性もないこと」=自己認識のあり方への懐疑であり、そしてまた「世界がある種の統一的な法則で成り立っている」という認識(規範意識)も、ただの信条に過ぎないという認識につながった、という話(この真逆が宗教や科学万能主義だが、それが希釈化したゆえに根拠もなく信じられている因果応報の観念もある。なお、このような発想が部分的に先鋭化したものが陰謀論だったりする)。ただ厳密にいうと、こういう認識をするようになったのは高校2年(1998年)の2学期頃の話なので、エヴァ旧劇版を見た後のことである。

 

以上のような来歴から、シンジがアスカの首を絞めそれを途中でやめる旧劇場版のラストについても、「人は理解しあえないという断念の元に生きていかなければならない痛み」を読み取ることはできたが、「理解しあえない?むしろなんでわかると思ったの?」というのが率直な感想で大して感銘も受けなかったわけである(これは「Indifference to enlightment」のような記事にもつながる)。

 

というのも、他者とのコミュニケーションにおいて、相手が求めているのは「複雑でも実態に近い真実」ではなく「理解の容易な説明」であり、後者についてはそれがどれだけ加工されているかは関係がない(むしろ、過剰なほどにノイズを削っていった方が、相手は嬉々としてそれを受け入れるだろう。こういった原初的に存在する傾向が、情報化社会と消費環境によって加速度的に進行・極端化しつつあるのが、「『コスパ』思考の全面化とその影響」で書いた今日的状況である)。まあそんなやり取りが無限に積み重なるわけだから、そらわかるわけありませんわな(・∀・)て話である。

 

とはいえ、暇ではない人間はいちいち考えてられないから、「理解の容易な説明」を求めるし自分もするようになるのは避けがたい(奴隷に仕事をさせて暇だった古代ギリシアにおいて、答えがぱっと出るわけでもないような問いにあれこれ考えをめぐらす人間が多くいて、その結果として哲学が発達したことを想起するとわかりやすい)。というわけで、理解し合えない状態は構造的・必然的に惹起する。まあせいぜい、そこから生まれた誤解が深刻な闘争に発展しないようにするのが関の山ってところだろう(だからロールズやローティが重要視してきたような「共生の作法」が必要となる)。

 

・・・といった問題意識からすれば、「何でわかんねーんだよ!」とか魂の叫びをされても、「そりゃーわかんねーやろ」で結論終わりなんだよなあ(例えば『血の轍』のように「毒親に育てられる苦しみ」といったリアリズムを元に描かれれば、「どういう社会設計をすればこういう悲劇を防遏できるか?」といった風に考えるのだけど)。

 

これが私がエヴァンゲリオンという作品に興味を持てない理由である。より正確に言えば、テレビ版の途中までわかりやすくエンターテイメントだった折は楽しんでいたが、結局作者の匙加減でしかない世界の謎やら自己の謎やらにフォーカスされ始めた時、どんどん興味を失っていった、というのが正しいだろうか(世界の謎の解明云々という点で言えば、これと対照的な作品の一つが「灰羽連盟」だろう。そこでは、「自己の存在の謎」も「世界の謎」が解けることはない。しかし、「私があなたと生きたこの記憶は確かで、私はそれとともに生きていくのだ」という態度に到る様が描かれているのである)。

 

誤解をしないでほしいが、これはエヴァンゲリオンという作品に価値がない、という話では全くない(そう間違われると思ったので、これまでこの話をあまり書いてことなかったのだが)。むしろ人気もあるし興味を持てる契機はいくらでもありそうなのに、どうして自分はこれほどまでにエヴァに興味を持てなくなったのか?ということに興味が湧いたので分析してみた次第である。

 

まあエヴァ旧劇版を見た高校時代と違い、今であれば「理解できないからこそ、その由来やそこに引き付けられる人たちに興味が湧く」という回路を持てるようになっているので、そういう視点で「エヴァに熱狂する人たちを定点観測する」みたいな楽しみ方もできたのだろうが。

 

という気付きを得たところで、この稿を終えることとしたい。

 

 

※ちなみに「Q」の解説動画も興味深いので参考までに掲載。

 


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