ある人(集団)が超常的な行いをあなたに一つでもしてみせた(ように見えた)として、それはその人(集団)の思想や行動が全面的に正しいことを全く意味しない。それは喩えて言うなら、自分の知らない事を教えてくれた人物がいたからといって、その者の他の発言全てが正しいことにはならないのと同じである。
・・・という導入で始めてみたが、今回はエヴァンゲリオンに興味が持てなかった理由分析の話に続いて、「カルトを映像作品はどのように描いてきたか」についての対談を取り上げたい。旧統一教会の件があった今極めてタイムリーな話題であり、さらに言えばオウムなどの歴史も含めそれにまつわる構造を把握・分析しておくことは有益だと言えるだろう。
それぞれの作品の特徴は解説がなされているので、ここであれこれ書くよりも、興味の沸いた映画を実見し考えていただくのが一番いいだろう。ただ、いくつか理解の一助となる作品の例として、『邪宗門』・「THE WAVE」・「ある朝スウプは」・「アメリカンヒストリーX」などを挙げておきたい(それぞれ、世直しのエートス、集団と先鋭化[敵ー味方]、性愛と宗教、排除と包摂と視点は違うが、得るものはあると思う)。
個人的には、二世問題を扱った「星の子」には特に興味が湧いた。私も二世ということになるが、両親ともかなり自由主義的なスタンスだったため信仰を押し付けられたという印象はなく、中学時に家族でそういう場所へ行く際に一度「脱走」してからは、かなり気を遣ってそこへ連れていこうとはしなくなったため、実質フリーダムだったと言えるように思う。
とはいえ、わざわざ他人にこういう話をすること自体が何らかの強い主張と受け取られる可能性があるため、基本誰にも話してこなかった(プラスであれマイナスであれ強い感情を自分は持っていないからこそ、言語化すること自体が実態と乖離した印象を相手に与える=誤解を招く、という非常にメンドクサイ状況になるのを懸念したのである)。そういう意味では、ある種抑制的にならざるをえない感覚も理解しているため、特に親の抑圧や家族離散の背景に宗教がある場合の当事者の苦しみを掬い上げることの難しさは、ある程度は理解できるつもりである(余談だが、毒親問題には、虐待の継承・親の発達障害・経済的苦境・宗教関係のいずれか[事によっては複数個]が絡んでいるケースが大半であるようだ)。前掲のエヴァンゲリオンに関する記事で書いた「何でそもそも他人のことがわかると思ってるの?」という考え方は、こういう背景もありますよと付言しておこう。
その他、「身体性と宗教・信仰が近似している」というテーマも非常に重要だと感じた。これは端的に言えば「臨死体験の存在は死後の世界の存在を意味しない」というテーゼとつながるが、要は神秘体験(少なくとも自分がそう思う得るもの)をしたからといって、それが神秘的世界の実在にはならない、ということである。いささか抽象的な話に感じるかもしれないが、これはカントやソシュールなど多くの人間が言ってきた人間のレセプターとしての限界、あるいは新しくは様々な認知科学の知見で、「人間はどのように世界を論理的に誤解するか」という話に関係する。また以前書いた極限状況の事例に引き付けて言えば、人間の意識はその時の感覚に大きく引っ張られ、むしろそれを正当化(後付け)するように理性は機能することも少なくない(だから現在の平時の心持ちで「極限状況で人肉を食わない」などと言ったところで、全く参考にもならないというわけだ)。
この話は突き詰めると非常に長くなるのでここまでにしておくが、もう一つだけ付け加えるならば、このような人間の意識が持つ特徴を踏まえるがゆえに、すでに情報化社会と大量消費でコスパ思考が全面化しつつある人間が、スマートサプリメントを用いた(快楽などはもちろん)承認欲求のコントロールという未来が、全く絵空事ではないとも考えるのである。もう少し書けばこういうことだ。ノイズ交じりの他者=人間と調整を図るより、ノイズの排除されたbotと予定調和的「コミュニケーション」をし、後はドラッグでメンタルコントロールすることに慣れれば、いかに後者のような行動が「非人間的」と定義されたとして、その感覚の自己肯定感に人は引きずられていくのではないか?少なくとも、そういう一派は増加していき、全体としてそれを許容する傾向は強まると予測する。となれば、それがますます社会的分断を加速化させ、さらに実りある人間関係に期待しない=そこからデタッチメントする傾向は強まり、オルタナティブとしてbot&サプリ的なものを肯定&接種する人間は増えていく、というわけである(そもそもオウムがドラッグを使った認知の変容を神秘体験と呼び肯定的に語っていたことを想起したい。それを是とする環境さえ整えば、やる人間の数は増え、それがますます社会をそのような方向に傾斜させていくのではないか)。
最後に、「PLAN75」には倫理的葛藤が欠けている、という指摘も非常に興味深いと感じた。これは人権が共生の作法として設定された擬制に過ぎないという話に深く関係するのだけれど、わかりやすく極端な話をすれば、8人いて食料が4人分しかないとすれば、人権がどうのと言おうが4人しか食べられない(生き残れない)のである。それを考えようとしないのは、己の倫理に抵触する不都合なことは考えたくないだけだ(これは先の「極限状況」で自分の行動が変わることを想定できないのと類似)。自らの足場が掘り崩されるかもしれない状況の中で、「それでも改めて共生を模索するには何ができるか?」、もしくは「誰かを生かすにはどうしたらよいか?」と思考すること・・・そういう覚悟を受け手に促すような作品たりえなかったのだという風に理解した次第である。
他にもFBIと銃撃戦を繰り広げた教団の件(こういった歴史を踏まえれば、『邪宗門』の設定やその行動が荒唐無稽でリアリティを感じないなどという反応は単なる無知に過ぎない)なども触れたかったが、今回はここまでとしたい。
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