ドストエフスキー『地下室の手記』読了

2006-06-01 01:55:42 | 本関係
ちょびちょびと読んでいたが、昨日一気に読み終えた。

主人公は過剰な自意識をもって、世界を生きている。その様はまったくもって滑稽であり、冷笑を誘う。

しかしながらその言葉の多くに、私が今まで考えてきたり、あるいはここに書いてきたことと共通する部分があったのも確かだ。例えばこんな一節。


たとえば諸君は、人間を古い習慣から解放して、その意志を、科学と常識の要求に即して、叩き直そうとしておられる。しかし、どうして諸君は、人間をそのように改造することが可能であるばかりか「必要」である、と知っておられるのか?人間の恣欲を叩き直すことがどうしても「必要」だなどと、どこから結論されたのか?一言でいえば、そのような叩き直しがほんとうに人間に利益をもたらすということを、どうして諸君は知っておられるのか?いや、洗いざらいぶちまけてしまえば、理性の推論や算術によって保証された人間の正常な、真の利益に逆らわないことが、ほんとうにいつも人間にとって有利であり、全人類にとって犯すべからざる法則であるなどと、どうして諸君はそれほどまで確信しておられるのか?だって、これはまだいまのところ、諸君の仮定にすぎないではないか。かりにそれが論理の法則だとしてみたところで、人類の法則なんぞでは全然ないかもしれないのだ。諸君はもしかしたら、ぼくを狂人と思っておられるかもしれぬ。では、ひとつ弁明をさせてもらおう。ぼくとしても、人間が主として創造的な動物であり、意識的に目的に向かって突き進み、技師としての役割を果たすべき使命を負っていることを認める。つまり人間は、永遠にやむことなく、「たとえ行き先はどこであろうと」、自身の道を切りひらいていくものなのだ。しかし、ほかでもないそのためにこそ、つまり、このように道を切りひらくべき「使命を負っている」からこそ、人間は時として脇道にそれたくなるものであるらしい(50-51p、新潮文庫)。


これと全く同意見というわけではないが、オプティミズムな人間観、人道主義に対する懐疑は、私と共通している部分がある。今は細かい感想や分析を書く余裕はないが、とりあえずドストエフスキーの作品に対する下準備はこれで終わったように思う。近いうちに、『罪と罰』か『カラマーゾフの兄弟』を読み始めたいものである。

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