「タクシードライバー」とデニーロ

2006-03-08 23:07:27 | レビュー系
今ではすっかりデニーロの演技にほれ込んでいる私ですが、彼との最初の出会いは「タクシードライバー」でした。特に、主人公が鏡の前で「俺か?俺に言ってるのか?」と言って悦に入るシーンは感嘆さえした記憶があります。それまでも、「サイコ」のアンソニー・パーキンスなど演技の上手い俳優は色々見てきたつもりでした。しかし、そういう「上手い」というレベルを超えるものをデニーロの演技に感じたのです。それは「わざとらしい演技が求められているシーンを、まったく自然にやってのけたことに対する驚き」だったように思います。

あのシーンは、言ってみれば劇中劇のようなものです。しかし私の見る限り、あそこほど主人公が生き生きして見えたことはありません。人と上手く付き合えずパラノイアになっていく中で、自分の使命を見出し鏡の前でリハーサルする主人公。そこには、生きがいを見つけた人間の歓喜、躍動感、狂気が、デニーロの演技によって見事に表現されていると思いました。しかも、ここが非常に重要なところなのですが、そのように感情の奔流が出るシーンはしばしば演出過剰になりがちなのに、少なくとも私の見る限り、そういった不自然さはありませんでした。正直、このシーンの演技だけでも「タクシードライバー」は傑作だと言ってもいいとさえ思っています(デニーロのそれとは性格が違いますが、劇中劇という点で「処刑人」の刑事役[ウィレム・デフォー]が現場を演劇のように再現するシーンも一見の価値ありです)。

(内容について)
とりあえず二点だけ書きたいと思います。

◎大統領に話す、不正や腐敗への怒り。
私もかつて身近な不正について考えたとき、その原因をたどった結果、社会全体が腐っているんだという結論に到ったことが何度もありました。またそこから「そんなもんぶち壊してしまえ」と考えたりもしました。ですから、主人公の思考過程も理解できないわけではありません。もっとも、孤独によるパラノイアの醸成という原因が彼にはあるので、より過激なものになっているわけですが。これを独善的とも言えるし、あるいは純粋な正義感という見方もできるでしょう(正義感というのは、ある意味とても怖いものです)。

◎マスコミや社会
また彼を英雄視するマスコミや社会に対する警告も含まれていると思われます。なぜならマスコミや社会は、彼が少女を救うために戦ったと思っているからで、それは主人公の怒りや不満の発露の一形態ではあっても、彼を事件へと差し向けた本質とはズレているのです。この点、前述した「処刑人」ではよりはっきりとした形で描かれているので、興味がある方は是非見てはいかがでしょうか。

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