2011/10/08
<学校で>
全然恐くない。何つーか人情話系増えてない?いや違うな。不条理さがないんや。慣れもあるけど。追加でアレを食うシナリオが出たのはそういうわけ?
<解釈の戯れ>
笛の部屋が病院?デパート内に病院は…あれは市民病院じゃないか?セコム先生は精神科医。真っ白な部屋。いや受け付けがあるからちょい厳しい。
<O、H履歴書>
主人公は知覚が変わったとしても耕二たちを元のように扱うべきだったと言うのなら、耕二が瑶を惨殺したことはどうか?沙耶が青海を殺したように正当防衛的に説明することは可能。主観と客観、個人と全体、少数派と多数派でくるなら、エンディングにおける涼子が見る世界は誤りか。
<沙耶の唄>
美醜、顔。他人の顔(阿部)、絶対の愛。作者に批判的である以上、私の立場は沙耶に同情的なものであるはずだ、と誤解されていないかと思う。別言すれば、沙耶の唄=恋愛モノとする視点の肯定だ。あるいは愛の真実性だとか形?を超えた愛への憧憬?俺がむしろ是とするのは、外見が変われば感情も変わるという点。カメレオンアーミーで描かれる交換可能性。「実際には~な耕二たちの側にいるべき」という意見。べきかであるか。べきなら理解できるが後者は否。認識の檻、整形の問題。その人を愛しているのではなく、顔を愛している。
<移りゆく感情>
もしそうであるならば、どうしてこの世に離婚などが存在するのだろうか?かつて仲が良かったもの同士が。同じビジュアルを持つ者同士でもそうであるのだから、相手が視覚的・聴覚的・嗅覚的に強烈な生理的嫌悪感を催す存在になった時、それを厭うのは極めて自然な感情の変化だと言えるのではあるまいか。
<沙耶の唄2>
じゃあ何を愛したら、その人を愛していることになるのか?心?心は不変か?たとえ相手がどのように変化しようと同じように愛するのが真実の愛か?そうではないからこそ、不変なるもの(不可能性)を希求してかくあるべきだと言う心情はわからなくはない。が、そう「である」のか?整形の問題が不快感を惹起するのだとしたら、根本でそういう問題に触れるからなんじゃないの?同一性を保障するもの。
<瓦礫に花を咲かせましょう無駄>
見渡してみればわかるが、デブやブスとの恋愛はネタとしてしか出てこない(ヤンジャンでデブとの~があったが極めて例外的)。これは我々の想像力の在り方を示している。恋愛対象に対しては、身も蓋もない現実を突き付ける。かわいければいいんだ、は最終的に交換可能性へと行き着いてしまうのだが。整形は崇拝者にとっては偶像にすぎないことを示し、妬み・嫌悪する者にとっては攻撃の口実となる(化粧とかは別にいーんでしょーか?)。完璧に模倣しているのだとしたら、なぜそれを「恋愛」と呼べないのかと問いたい。薬物による操作はともかく。
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