あるものに関するデータの集積と精緻な分析はモノを知る上で必要不可欠な参照項である一方、それと向き合って複雑怪奇な現実を理解しようとする人間は稀である。そして寓話が必要とされるのは、そのような実態ゆえではないだろうかと思う。
このブログでも、『邪宗門』、「帰ってきたヒトラー」、「undertale」、『この世界の片隅に』、「沙耶の唄」など様々な優れた寓話的作品を紹介してきた。たとえば『邪宗門』であれば、宗教に関する衒学的な知識ではなく、それにコミットする人々のエートスや、社会の枠組みを超えてしまうがゆえにそこと衝突する関係性を理解することができるだろう(もっとも、書評を見ると終盤の展開を荒唐無稽とみる、すなわち近年のオウム事件やISといった事例すら連想できない人もいるあたりは、ある程度読者の想像力・リテラシーによる所も大きいのだなと思わせられるが)。
また「undertale」であれば、「共生」という今日よく取り上げられるテーマであるけれども、映画や小説といった媒体では困難なこと、即ちそれがゲームという形態でプレイヤーもある種の共犯関係になるというコミットの仕方をするがゆえに、そこで葛藤や後悔を追体験することとなり、表面的なポリコレ的言説を重視するのではなく、「共生」とは即ちどういうことなのかを深く考えざるをえない状態になるのである(それと同時に、ゲームであるがゆえにできる演出も極めて優れている、というのがundertaleの傑作たる所以の一つだ)。
・・・というわけで前置きが長くなったが、そんな寓話の一つとして今回紹介したいのは、アガサ=クリスティのポワロシリーズの一つ、『五匹の子豚』である。題名はマザー・グースに由来し、「回想の殺人」などと呼称される作品の一つで、『そして誰もいなくなった』や『オリエント急行殺人』ほどではないにしても、同作家の優れた作品として著名なものである。
私はこれを読んで、歴史・価値観を巡る優れた寓話だと感じた。というのも、ポワロが「五人の子豚」に聞き取ったり、あるいは彼・彼女らの手紙を読んでもわかるが、「同じものについて言及しているにもかかわらず、それぞれ見えているものや評価が異なり、かつ誰も本質的には嘘をついていない」からだ(ただし意図的に話していないことはある)。にもかかわらず微細なズレの積み重ねが大きな差異を生み出していくわけだが、それは単に自分がいた場所による聞き間違い(物理的な問題)のみならず、人生観や価値観の違いから同じものを違う捉え方をしたり、あるいはそれまで培った人間関係によって同じ行動を見たままに解釈したり、その背景まで慮って理解したりという心理的側面の差異も大きく影響しているのである。
さて、いわゆる歴史解釈という生の題材を与えられると、我々は「なぜこのような『勘違い』や『偏見』が起こるのか」と訝しく思う事がある。例えば、ロシアに蹂躙されるポーランドしか見ていないと、それにも屈せず独立運動を続ける国として、あたかも「正義」の側にいるかのように思われるかもしれないが、しかしかの国が別の周辺国に対して行った侵略行為や残虐行為を知れば、事はそう単純ではないと理解できるようになる。
このように、知識の偏りや無知に基づく場合もあるし、意図的な情報操作(前回扱った陰謀論はその一例)が行われている場合もあり、それを肯定することは端的に間違っているが、しかしではそのような要素を排除すれば全き「真実」を我々が認識して合意できるかと言えば、それもまた端的に間違っている(まあこれはカントの「物自体」などがわかりやすい)。そのような実態を理解する上で、この作品は極めて示唆的だと私は思うのである。
推理小説なのに歴史や価値観を巡る寓話とは大仰な深読みではないか、という意見が出るかもしれないが、作中にはスコットランドのメアリ女王を巡る事例が二度に渡って言及されていることから、作者はこのような試みが歴史を顧みる行為と類似することに極めて意識的だったのは確実であり、また実際に16年前の事件を巡る人々の語り口や見えているものの違いを読んでいけば、歴史や価値観を巡るスタンスの違いが生まれるのはごくごく自然なことであること、そして共生を考えるのであれば、それを前提にどのような理解の方法があるのかを考えていかねばならない、と思わせる作品だと述べつつ、この稿を終えることとしたい。
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