「自己愛と遍歴」の続き。「さよならを教えて」レビューの再掲はこれでいったん終了となる。以下で述べていることは、簡単に言えば泣きゲーへのアイロニーだが、いずれ「沙耶の唄」と比較しつつ別途論じる予定。そこでは、「さよならを教えて」の作者長岡建蔵と「沙耶の唄」の作者虚淵玄の自覚・無自覚も問題になるだろう(ただし、最近放映された「魔法少女まどか☆マギカ」の演出を見ると虚淵玄も極めて自覚的になっているようだが。それもまた別の機会に話すつもり)。
とまあそういうわけで、詳細はそちらを参照してほしいが、気をつけないといかんのは以下の太字部分のやり取りがコミュニケーションではない、ということ。それはたとえば、俺がたまに書く対話篇がコミュニケーションでないのと同じだ(「突っ込みという名の共犯関係」。違うのは自覚があるかないかという点)。
まあ脳内でこれだけの精度の突っ込み(?)がくりゃあ気が狂うわな。別に進路で失敗したくらいどーだっていーがな。それで誰かが死んだりするわけじゃねーんだし、というくらいのいい加減さが主人公にあればよかったのかもしれんが、いかんせん抑圧が強すぎましたよと(となえセンセの言う「自己実現」の問題)。
もっとも、結局は誰しもが相手の言っていることを脳内で変換している(せざるをえない)点で大同小異じゃね?という見地に立てば、あれはより一般的にコミュニケーションの不可能性や「共感」の問題と接続することができますよと。
<原文>
「先生は、不幸なコが好きなんです。不幸だけれど、健気に運命に立ち向かっている弱々しい魂。そんな相手を助けることで、自分が大きくなったような錯覚を得て満足するんです」
「そうなんだろうか?僕は可哀想な少女を救うために日夜…」
「嘘。可哀想な自分を…でしょ?そして先生は、自分を慕う、かよわい相手を思う存分にいたぶって安心するんです」
「いやしかし、ぼぼ僕は…」
「自信のない自分を棚に上げて、自分よりも弱っている相手に手を差し伸べる。自分以外のなにかを救うフリをすることで自分を納得させるんです」
「けれど僕は、そうじゃなくて、信じたいから…安心したかったから」
「そう…ですよね。自分を慕ってくれる弱者。でも、その弱者が運命に立ち向かって羽ばたこうとすると、我慢できなくなってしまう。いつまでも自分だけの標本箱の中にコレクションしておきたいのに…」
これは最終日における主人公と巣鴨睦月の会話である(丁寧語が睦月)。
久々に「さよならを教えて」を再プレイした時、このやり取りを見て私は二つのことを想起した。一つは、エロゲーやエロ漫画における妊娠させる話の増加(「中出し、断面描写が増えた理由」)、あるいは「かんなぎ」の反発などに見られる所有願望や処女性の希求。そしてもう一つは、当時ブームとなっていた「泣きゲー」への批判である。後者についてより詳しく言うなら、上記の巣鴨睦月の発言は「泣きゲー」などにおけるトラウマや癒し、救済などの扱い方に対する痛烈な批判となっているのだが、それを攻略対象キャラの中では唯一実在する睦月に言わせており、しかも本作品の設定資料&原画集に掲載された作者のコメント(※)には「癒し」の流行に対して「毒」を作ろうとしたとあるから、これが意図的なものであることは疑いない(一応言っておけば、「弱者」に肩入れすることで相手を救った気になっているが、その実自分が相手に救われている[or依存している]というパターンは「泣きゲー」に特有なものでは全くない。例えば吉行淳之介『娼婦の部屋』における主人公の振舞やアルコール依存症の夫に対する妻の共依存関係などを想起)。
かつて私は、「主人公と各キャラの関係について」でこの作品における話の展開が全体としてどのような意味を持つのかを考察した(各キャラが各時代の主人公を象徴しており、それとの「さよなら」が研修医としてのエンディングに繋がる…)。ここでは、上記の発言を念頭に置きつつ、世界観そのものが持つ意味について論じていきたい。
「さよならを教えて」とは、端的に事実だけを述べるなら、狂人の(内面)世界を描いた作品であるが(「自己愛と遍歴」)、ここに前述の「泣きゲー」(におけるトラウマや癒しの描き方)への批判という視点を導入すると、また違った側面が見えてくる。
例えばそういった作品では、トラウマなどが悲しいものであると同時にどこか美しいものとして描かれることが多い(=トラウマを美化している)。しかし、言うまでもないことだが、トラウマや狂気といったものは美しいものであるどころか、グロテスクでエゴイスティックな側面を多分に持っている。トラウマと癒しをセットにした作品群というのは、そのような「汚い」側面を忘却させるだけでなく、事によってはトラウマなるものに人を誘い、耽溺させさえするのである(自らを何らかの精神疾患であると主張する人の中には、このようにして形作られた美的イメージに自らを重ね合わせてナルシズムに酔う類の者もいると思われる[アダルトチルドレンブームといった言葉はそういう状況を端的に表している]。現実に症状で悩まされている人たちにとってはいい迷惑であろう)。
このような問題点を意識すると、
(1)
主人公主観という形式で生の狂気(≒内面世界)をプレイヤーに強要することによって、狂気のグロテスクさを見せつける(これは換骨奪胎されたトラウマや狂気の欺瞞を告発することに繋がる)
(2)
実在しないものたちとの会話と救われないエンドを通じて狂気(より正確には内面への遡行・固着)がいかに独りよがり(オナニスティック)なものであるかを示す
という本作品の持つ「毒」の意図は明らかであろう。
あるいはもう少し違う表現を用いれば、
お前ら傷を抱えた少女や、彼女たちと主人公との関係を通じてその傷が解消されていく様を見て感動したとか泣いたとかほざいてるけどさあ、それって(睦月のセリフにあるように)単なる自己欺瞞じゃねーの?この生の狂気見て目ぇ覚ませや!
といったところか(※2)。結局、救うべき少女たちは妄想でしかなく、主人公は物語の大半をマスターベーションに費やしたわけだが、それは「泣きゲー」などに描かれるトラウマや癒しの欺瞞を劇画化したものであり、そこに救いは無いというのが本作品の結論なのであった(※3)。
このようにして、「さよならを教えて」はトラウマや癒しを扱った作品に潜む欺瞞を構造的に告発しようとしたのであった。しかし今まで私の見てきた限り、この作品のレビューは単に気持ち悪いと不快感を表明することに終始するものしかない。おそらくその原因は、提示されるグロテスクさが醜悪過ぎて思考停止を招いたことにあるだろう。また設定資料集&原画集の「『さよなら』の疑問と文句に答えるスレ」によると、さよならの世界が狂気に侵されたものであるという「仕掛けがバレるのが早すぎる」と不満を持っている人もいるらしい(私はこのような発言にお目にかかったことがない)。とするなら、思考停止しなかった人たちに、主人公主観のカラクリを推理すべきものだと見なされてしまったことが、作者の意図が理解されなかったもう一つの原因だと言えるだろう。
不快感に支配されるだけの人は思考も停止するから、なぜそのような世界が描かれるのかを考えなどしない(せいぜい、そのグロテスクさをネタにして抵抗を試みる程度だろう)。一方主人公主観のカラクリを暴くべきだと考えていた人たちは、その答えがエンディングで示された時点で満足してそれ以上踏み込もうとはせず、むしろ仕掛けがわかった状態で(他キャラのシナリオを)プレイすることにうんざりするだけであったと推測される。
もし、主人公主観という形式(「沙耶の唄:二項対立と交換可能性」)、あるいは「泣きゲー」の欺瞞といった構造的な部分に意識的なプレイヤーがもっと多かったなら、この作品はもっと違った評価がなされていたのではないか…そう思わずにはいられない。
※
同2Pには、「企画の着手当時は『癒し系』という言葉が流行しはじめた頃でもあり、猫も杓子も癒されたがっていたようだった。だから僕はハッキリと『毒』を作りたいと思っていた。これは天の邪鬼に考えたワケでも、交尾する猫に水をブッかけたいとかいう類の心境が発動したワケでもなく、癒されすぎた人にとって毒になるソフトを作れば喜ばれるかも~と思っただけのことだった。」とある。もっとも、そのような意図でこれだけグロテスクな作品を作ってしまうあたり、当時のエロゲープレイヤーたちの多くが求めるものをまるで理解できていなかったと言える。おそらく長岡建蔵も、虚淵玄と同じくシニカルに作品を消費するプレイヤー像から離れられなかったのではあるまいか(「沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」参照。ただし沙耶の唄ネタばれあり)。シニカルなプレイヤーであれば、「泣きゲー」の代表格であるkanonなどはネタにはなっても感動したりする対象には到底なりえない(あまりに質が低すぎるからだ)から、そういった作品に対する「さよならを教えて」の内容的・構造的批判は十分な意味を持ちうる。しかし、「泣きゲー」をベタに消費するプレイヤーにとって、この作品は水をかける以前の存在価値しかない。なぜなら、ベタなプレイヤーたちは水をかけられたことにすら気付かないからだ。
※2
ゆえに、「主人公(主観)は狂気に侵されており、実際の舞台は病院である」といったことを推理することがこの作品の(究極の)目的ではない。
※3
もっとも、瀬美菜やとなえとのやり取りが象徴するように、全てが妄想なわけではない。エンディングテーマの「昼と夜の間で時が止まる 終わりのない夕暮れ時」という歌詞にもあるように、描かれる世界は正気と狂気の境界にあると考えてよいだろう。
(補足)
現実にも内面にも向き合えないのがこの作品の主人公である。おそらく大半のプレイヤーが、彼のような振舞をありえないと思ったことだろう(というか、この主人公と自分を同一視できるっていうのは逆に危険…)。しかし恋愛ADVの主人公の一般的な描かれ方は、ここまで極端でなくとも似たような特徴を持っているのではないか?
恋愛ADVにおいては鈍感でなぜかモテるプレイヤーが採用されるのだが、その奇妙さを指摘する人は多くいても、その奇妙なキャラクターが採用される理由については不思議に思えるくらい誰も踏み込まないからだ。「恋愛ADVの主人公が鈍感である理由」でも書いたが、もし少しでも考えれば「主人公は鈍感でアプローチをしないが、ヒロインから勝手に言い寄ってくる→自分でアプローチする必要がない→断られる心配もなく優越感も味わえる=プレイヤーの臆病さの反映」といった構造はすぐに思いつきそうなものだ(こういう構造を意識に入れると、自分を鍛える「ときメモ」だとか、ヤらせてもらうために投資していく「下級生」の特殊性が浮かび上がってくる。もっとも、それは両者の方が他のゲームより優れているという意味では必ずしもないが)。そういった構造に思い到らず、ただこの作品の主人公をキモチワルイとだけ言っているのであれば、いささか問題だと思う次第である。なお、構造への無理解という点ではいわゆる「白紙の主人公」に対する批判について論じた「君が望む永遠~サブキャラシナリオの評価をめぐって~」、「同~サブキャラシナリオの批判性~」なども参照。
ネットサーフィンをしていてこのブログに来ました。
僕も「さよならを教えて」が好きで、いろいろなサイトやブログのレビューを見ましたが貴方のレビューはとても興味深く、また違った視点で「さよならを教えて」が楽しめるようになりました。
感謝します。