摂関政治、得宗専制、元老と近代天皇制

2024-06-13 17:21:45 | 歴史系
 
 
 
 
 
もし私が「明治の元老たちは、なぜその超法規的な権力をもって天皇に取って替わることをしなかったのか?」という疑問を呈したら、おそらく多くの人がこいつ頭がおかしくなっちまったんだな(元からおかしかったけど)・・・と思うのではないだろうか。その割に、歴史を見る段になると「なぜ~は天皇を廃そうとしなかったのか?」とか、「なぜ・・・は将軍になろうとしなかったのか?」としばしば言われるのは不思議なことである(ちなみに、かつては「革命児」として語られることの多かった織田信長も、足利義昭を頂き、後には天皇家を保護している)。
 
 
 
はいどうもゴルゴンです。何でこんな話で始めたかと言うと、この摂関政治と呼ばれるものの動画を見つつ、改めて日本の権力理論や権力構造について考えることの重要性と面白さを実感したからでありマス(もちろん、仮にも近代的な主権国家体制の明治以降と江戸以前の社会をイコールで考えることはできないが)。
 
 
「藤原家は摂関政治でもって国政の私物化を試みた」といった図式はある意味わかりやすいが、実際のところそんな単純な話では全くないのは動画が提示する摂関政治の研究史を見れば明らかである。
 
 
ところで、問題は摂関政治に止まらない。例えば「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」というのもよく言われることだが、しかし北条家の権力掌握の過程を考えれば、これは複雑な実態をだいぶ埒外においた発想だとわかる。というのも、北条家が執権から特宗専制を確立するまで、比企の乱、和田義盛の乱、宝地合戦など、様々な内部抗争があったし、また北条時宗が自身に権力を集中した(できた)のは、元寇という外患を背景としていた。
 
 
かつその後も、元寇後の西国武士のコントロールや得宗専制の維持・拡大が試みられたが、その中で霜月騒動、平禅門の乱などが起こり、最終的に北条貞時は得宗専制の確立に失敗し、政治に興味を失うこととなった(ちなみに各種創作物で暗愚に描かれることの多い北条高時の姿は、この貞時の様子を重ねたものらしい)。
 
 
なお、この得宗専制の確立失敗において極めて重要なのが、北条家すら全く一枚岩ではなかった、ということである(これは先の例で言えば、藤原家内部の暗闘を連想してもよいだろう)。つまり、名越流北条氏とか極楽寺流北条氏というように、北条家の中にもいくつかの系統があり、得宗専制というのは、あくまでその中で「北条泰時の直系」だけを指している。
 
 
そして他の系統は、あるグループは得宗に味方し、あるグループは得宗に対立するということが起こり、しばしばその間で緊張関係が生じて居たのである(この点、「血縁関係があれば味方」などという理解がまったき幻想でしかないのは、戦国時代の家督争いはもちろん、室町時代に応仁の乱の淵源となった畠山氏の内部抗争などを見れば、思い半ばに過ぎるというものである)。
 
 
つまり何が言いたいかというと、北条家が得宗専制にまでこぎつけたのは、しばしば綱渡り的な内部抗争と強大な外敵という特殊環境によるのであり、しかもそれでさえ、一門すら統括できていなかったのだから、まして将軍家を廃して自らがその位置につくなど思いもよらかなかったのではないか、ということである。
 
 
仮に北条家がクーデターを起こすことを考えると、少なくとも想定されるのは以下の事態である。
1.一門の中にも反旗を翻す者が少なからずでてくる
2.「あくまで鎌倉幕府の中の重鎮」北条氏に従っているだけの御家人たちが反発・抵抗
3.北条氏に自らが将軍職となる正統性の源泉がない(血統的問題)
 
 
こうなると、国を挙げての内乱になる事態まで想定されるわけだが、お飾りの将軍を立てつつ、執権や連署として要職を独占した状態を捨ててもなお、自らがトップに立つメリット・デメリットを考えた時、後者の費用対効果があまりにも小さいように思うのは私だけではないだろう(それが疑問に思えるなら、改めて冒頭の「なぜ元老たちは天皇を廃して自らが国家元首とならなかったのか?」という問いに立ち返ってみるとよい)。
 
 
まして、先にも述べたように北条家は謀殺などをくり返しつつその地位を確立していったわけで、むしろそれだからこそ、自分が他の御家人から同じように攻撃される(少なくともその口実を与える)ことのリスクをかなりの程度理解していたのではないかと思われる(もちろん、その発想自体思いもよらないか、もしくは一応考えた上で戦略的にその施策は採らなかったかは、個人差があるだろうが)。
 
 
というわけで、摂関政治に関する研究史の動画に関連し、鎌倉時代の北条氏について少し述べてみた。なお、今回述べた権力構造とその理解がなぜ重要かについて、最後に冒頭の元老と近代天皇制について少し踏み込んでおきたい。
 
 
まず、ごくごく端的に言うと、天皇は親政を行う現人神として専権を振るった…わけではもちろんない(まあ今どきこんな理解をしている人がいるのかという話だが)。確かに臣民に対してはそのような存在として喧伝していたが、いわばそれは表向きの顔=顕教とでも呼ぶべき側面であり、実態はまさに天皇機関説にあるような存在として機能していた(密教的側面)。
 
 
近代国民国家という巨大組織を天皇個人がコントロールできないのは当然で、それを輔弼(補助)する組織が諸々存在していたわけだが、しかしそれらは、新たな「幕府」を誕生させないため慎重な権力分散が図られていた(衆議院・貴族院や枢密院など色々あるが、膨大になるので割愛)。そしてそういった横並びの組織と天皇の間を介在する立場として、超法規的存在としての元老が機能していたわけである。
 
 
元老の中には、天皇に対して「辞めさせるぞ」と恫喝の言葉まで述べた人物もいたらしいから、その意味では「天皇-元老-その他組織」というツリー構造ですらなかったと言える。とはいえ、元老に法的な根拠はなく、あくまで明治新政府樹立に多大な功績があった人物が、天皇という血統的カリスマを押し立てながら近代国民国家を運営する、という上でその存在を認められていた訳だから、元老が天皇になり代わるという発想は、自分の足元に墓穴を掘る行為であるばかりか、そもそも不可能事だったと言えそうだ(旧幕府を倒し新たな国家を建てた存在として自己アピールすることはできようが、その場合は藩閥政治に対する諸々の批判はそのまま反乱にまで直結し、大規模な内乱祭りとなるリスクが想定される)。
 
 
大正から始まる「憲政の常道」は、こういった状況にデモクラシーをどう接ぎ木するかという試みでもあったわけだが、結局それが政党政治という名の足の引っ張り合いの末、五・一五事件とその後の組閣指示を通じて死刑宣告を受けたのはよく知られているところである。
 
 
そして取り合えず始まった明治のシステムは、オルタナティブの獲得に失敗する中、元老の死、官僚組織の肥大化、昭和天皇がモデルとしてイメージしたイギリス型の立憲君主制という要素がいわば「合成の誤謬」のような形で無責任体制を惹起し、それが目まぐるしく変わる国際情勢に対応できず、急進的な人間・組織の行動を掣肘できずに引きずられる構造(丸山真男風に言えば「つぎつぎになりゆくいきほい」)が出来上がってしまった。
 
 
言い換えれば、「ファシズム」どころか、真逆にすらおもえるこの無責任体制が、日本を破滅に向かわせた主要因であったと言える。その意味では、今回取り上げた権力構造・権力論については、戦前の昭和日本の失敗を分析・理解する上でも極めて重要であるということを強調しつつ、この稿を終えたい。

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