なんて仕組みは、長続きする訳がないんだよなあ。
マイノリティや障碍者などへ社会的包摂の範囲を広げんとする理念は、残酷さをより減らす社会に変化させていくという点で重要としても、それが結局誰かの奴隷的労働=権利侵害の上に成り立っているのであれば、崩壊するのはそう遠い話ではないだろう(いわゆる「やりがいの搾取」は、この障碍者支援員に限らず福祉業界で広く見られる構造でもある)。
例えば今、教員が部活の忙しさや給特法などによる長時間労働が明るみに出て、厳しい環境で働かされることがわかっているため成り手が不足しており、地域にもよるが何とか数合わせをしようと躍起になっていたりする。しかし結局、そうやって無理くり人を取ったところで、結局敬遠される根本原因が解消されていないのだから、いつでもそれは奴隷労働となりうるのであり、そんな環境を他に選択肢がある人々が回避するのは当り前のことと言える。
「自己責任」大好き日本社会なんだから、職業選択はもちろん「自己責任」の範囲だよね?仮にそれが問題だと真剣に思うなら、まず自分から声を上げ、そのシステムを正当化する人間たちを批判していくべきだろう。それをしないなら、崩壊してもうどうにもなくなってから変わるのを待つ以外にないって話である(こうして、「人が死なないと変わらない社会」てのが爆誕すると)。
これと同様に、障碍者支援員もまた成り手がいなくなって組織が維持できなくなるのはもちろん、社会(や自分)に余裕がなくなれば第二・第三の植松聖が出てくるのは必然だし、むしろそういう未来を想像しない方がバカげているとさえ思うのである。
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