城自体の説明に続き、城下町の形成について展示があった。
以前、しばしば水害を起こした利根川の水系を変える工事がなされたことについて書いたが、なるほど白川も同じような状況だったんだなあ。
実際、2000年代以降でも白川の氾濫で流域の竜田などの家屋が被害を受けたこともあり、今より堤防の技術が未熟であった頃には必須の工事だっただろう。
こちらは城下町の由来についての説明。
新町という名前の由来はわかりやすいが、「あんたがたどこさ」の歌がここ発祥とは知らなんだ。「あんたがたどこさ、ひごさ、ひごどこさ、くまもとさ、くまもとどこさ、せんばさ。せんばやまにはたぬきがおってさ、それをりょうしがてっぽでうってさ、にてさ、やいてさ、くってさ」てやつね。意外と覚えてるもんではある。つーか、狸は不味いと思うんですが😅
「一町一寺制」は、特に寺檀制度が志向された江戸において、「国教」的な地位を得た仏教を、そして仏教による民衆統制を行う仕組みであった。
これは欧米のようなキリスト教圏やイスラーム圏にも似たような仕組みがあるのでおもしろいが、こういうシステムとコミュニティが人々の宗教的帰属意識にどう関わってきたか、そしてそれが都市化や核家族化などでどう変容していったのかは興味深いところだ。
京町って結局武家屋敷があったことに由来するってこと?この辺は少し離れた場所に「新屋敷」という地名もあって、この辺の由来とあわせて今度調べてみたいもんだ。
とまあそんなことを考えながら展示を眺めていると、天守閣のタイムリミットである1630が近くなってきたので先を急ぐことにした。
京町って結局武家屋敷があったことに由来するってこと?この辺は少し離れた場所に「新屋敷」という地名もあって、この辺の由来とあわせて今度調べてみたいもんだ。
とまあそんなことを考えながら展示を眺めていると、天守閣のタイムリミットである1630が近くなってきたので先を急ぐことにした。
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