漫画『シグルイ』第一巻のあとがきを読んで、違和感を覚えた記憶がある。それは大要「自分は人の闘争にこそ本質を見出すので、暗闘のようなものには興味を持てない」という趣旨であったが、「戦争は外交の究極的形態である」というのと同じで、政争などを含めた暗闘もまた闘争であり、むしろ直接性を抑圧されているからこそ、恨み・妬み・報恩など蜷局を巻いた情念の発露がそこに見出されるのであり、そのようにして生まれる濁流もまた、私は人間の本質だと考えるからである(もちろん、これは発想法の違いであって、どちらが正しいというものではない)。
さて、今回冒頭で紹介した動画は、鎌倉末期における嘉元の乱と、その前日譚となる北条家内部の権力闘争に関する解説となっている(なお、しばしば指摘される元寇とそれによる支配領域の拡大、およびそれへの幕府の対処・失敗についてはすでに別の記事で紹介している)。鎌倉幕府の権力闘争と滅亡については、細川重雄『鎌倉幕府の滅亡』から興味を持っていたが、知れば知るほど興味が深まる。もちろん、頼朝の外戚でしかない北条氏がいかにして執権の地位を確立していったかは、初期における比企の乱や和田合戦などでも比較的よく知られているところだろう。とはいえ、得宗専制確立の後もなお、北条氏内部(得宗家・極楽寺流・大仏流・名越流など)でこれほどの暗闘が繰り広げられていたとは驚きである(自身の派閥の誰をどのポジションにつけるか、そのために定員すら増減させるetc...)。
ただ、こうして生まれた権力の偏在とその正当性の不在(そもそも北条氏があれほどの力を持ちながら将軍にはならなかった・なれなかったことを想起したい)が、鎌倉幕府を「張りぼて」にしたことは確かだろう。それでも(前例踏襲主義を徹底したこともあって?)御家人たちの共同幻想は存続していたが、後醍醐のクーデターやそれに同調する勢力の存在、そしてそれらとの戦いが長引く中で、潮目が変わるかのように御家人たちが共同幻想(今風に言えば「空気」)から覚めていき、そのことが支配領域自体は最盛期と呼んで差し支えないレベルだったにもかかわらず、突如幕府が滅亡にまで追い込まれる原因となったように思われた。
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