呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』:評価の変遷と歴史的背景

2022-05-19 12:30:00 | 本関係

佐野遠征の次に何を書こうか迷っていたが、天海=明智光秀説、歴史と歴史小説の話、偽書や偽史の分析から見えるものについて触れ、別の箇所では赤穂事件と「忠臣蔵」のことを取り上げたので、先日発売されたばかりの呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』をお勧めとして紹介したい。


ここで扱われているのは織田信長、斎藤道三、明智光秀、豊臣秀吉といった戦国末期に活躍した著名な人物たちで、時代による彼らの評価の変化とその背景、公権力と民衆の評価の違い、主に同時代史料から見える実像について説明している。


重要なことは、筆者が歴史史料から構築される史実の見地から俗説に基づく「大衆的歴史観」を断罪するのではなく、その背景を丹念に追っていることだ。


例えば江戸時代では徳川氏の権力が正当であるという見地から人物評価もなされるし、幕末の尊皇攘夷や明治以降の近代天皇制下では勤王がもてはやされ、あるいは帝国主義の時代には秀吉などの海外への領土拡大がその先駆けとして評価された、などである。


それらは自然発生的なものではなく、江戸時代の講談、山路愛山や徳富蘇峰といった在野の歴史家による記述、また司馬遼太郎や吉川英治を始めとする歴史小説家の作品などにより、ブーストされてきたのであった(歴史学自体もその影響を受けていたこと指摘している)。そして世相に合いさえするなら、あるいは物語としておもしろいなら、当時の文脈を無視して行動の意図を勝手に忖度したり、あまつさえ史料的裏付けのない創作も行われていた(いる)のである。


その功罪については、著者自身が終章で端的に述べているので、少し長くなるが引用し、この記事の結びとしたい。なお、このような視点は抽象的に言えば宗教やイデオロギー、陰謀論の訴求力と危険性を理解するのにも繋がるが、より具体的には「江戸しぐさ」の捏造疑似科学の流行などにも同じことが言える点に注意を喚起しておきたい(これはマスメディアによる感動の演出・創出などにも見られるものであり、そこでは「善意」がしばしば正当化・居直りの根拠に用いられる)。

 

 

【以下本文より引用】
歴史小説から人生の指針、「未来の問題解決能力の突破力」を得るという傾向は、山岡荘八の歴史小説『徳川家康』が経営者のバイブルになってから顕著になった。しかし、その淵源は江戸時代にまで遡る。勇将・智将・忠臣の逸話集や言行録が多数編まれて、人生訓が語られた。この種の逸話・名言は実のところ真偽不明なものが多いが、史実かどうかの検証はなおざりにされた。


近代に入っても、官学アカデミズムの実証主義に反発する形で、偉人の逸話・美談を重視する意見は民間に根強く残った。歴史を学ぶのは、そこから教訓を得るためであり、特に逸話・美談を道徳教育に活用することが重要だ、というのだ。極論すれば、道徳教育に役立つなら、たとえウソでも美談・名言を積極的に紹介すべきだ、ということになる。


現代の歴史小説は道徳教育を意識してはいないだろうが、人生訓を伝えるという性格を持つ作品は少なくない。そして、それらの歴史小説が「大衆的歴史観」の根幹を成している。


ところが、戦国武将の人生訓として人口に膾炙している話は、たいてい江戸時代の軍記類・逸話集に載る逸話・美談・名言である。本書で縷々指摘したように、これらの大半は真偽が疑わしいものである。後代の創作かもしれない話に依拠して人生訓を語る「大衆的歴史観」は危ういと言わざるを得ない。


著者には「歴史から教訓を学ぶ」ことを否定する意図はない。だが大前提として、その「歴史」が歴史的事実かどうかの検討は不可欠である。仮に創作だったとしても、美談や名言によって勇気づけられることもあるのだから、そんな目くじらを立てなくてもよいではないか、という意見はあろう。だがフィクションでも良いという理屈なら、『SLAM DUNL』や『ONE PIECE』のような純然たるフィクションから人生訓を学んだ方が健全だと思う。


歴史小説から人生の指針を得ようという人は、そこに書かれていることが概ね事実であると思っているのだから、歴史小説家には一定の責任が求められる。事実に基づいているが、あくまでフィクションである、と公言するか、史実か否かを徹底的に検証するか、の二つに一つである。真偽が定かではない逸話を史実のように語り、そこから教訓や日本社会論を導き出す司馬遼太郎のような態度には、やはり問題がある。


加えて、本書で見たように、英雄・偉人の人物像は各々の時代の価値観に大きく左右される。歴史から教訓を導き出すのではなく、持論を正当化するために歴史を利用する、ということが往々にして行われる。日中戦争を正当化するために秀吉の朝鮮出兵を偉業として礼賛する、といった語りはその代表例である。問題意識が先行し、先入観に基づいて歴史を評価してしまうのである。


専門的なトレーニングを受けた歴史学者であっても、その時代、その社会の価値観から自由ではない。どんな人であれ、客観中立公平に歴史を評価することは不可能である。大事なことは、自身の先入観や偏りを自覚することである。本書を通じて、時代の価値観が歴史観、歴史認識をいかに規定するかという問題に関心を持っていただけたのなら、著者としてこれに勝る喜びはない。


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