さあてちょい時間が経ってしまいましたが、「モノノ怪」の完成稿を載せていくことにしましょうかね。て言っても、配列はほぼ変わってませんが。まあ説明不足で意味不明なトコが解消できればいいかなと。
この前帰省してロアッソ熊本の試合を見に行った時、旧友のしおみから最近(?)彼がおもしろいと思ったゲームや漫画のことを聞いた。その中で「モノノ怪」がおもしろかったという話が出て、がぜん興味が湧いた。というのは、(確か地獄少女のDVDでだったと思うが)宣伝を何度も見て気にはなっていたものの、怪談をただネタテイストにした作品かもと思いそのままにしていたからだ。またしおみ(+pokosuke)がプッシュした作品はlainや電脳コイルなどことごとく当たっているので、今回もその感性に賭けてみることにした(大げさ)。
で、実際見てみたら・・・これが久々のスマッシュヒット。普段はあれこれ考えながら見ることが多いんだが、続きが気になって一気に見てしまった作品なんて一体どれくらいぶりだろうか。とまあそんな「モノノ怪」の魅力について、少しばかり書いてみたいと思う。まだいくつか気になっている点があるので、内容面の解釈について細かくは踏み込まない。
人間の昏い情念を主題にしているという意味では、先にも取り上げた地獄少女あたりが近い。しかし大きく異なっているのは、描写の距離感にある。例えば、一巻(一話~三話)は妊娠と堕胎に絡む人間の昏い情念を扱っているにもかかわらず、そこまでは重い印象を受けずに見れる。それはなぜだろうか。これは前作にあたる「怪~ayakashi~」と比較してみるとわかりやすいが、主人公の薬売りがどんな場所でも怪しまれずにスルリと入り込んでいること、そしてどんな状況になっても彼が決して余裕を失わない、具体的には飄々としておどけたような口調も変化しないこと等が大きい(ちなみに「怪」では、怪しい人物として薬売りは捕えられるし、口調も時折ラフなものになったりとややブレるし、大ピンチに陥って余裕を失っている。まあ視聴者には初めての内容であるため、リアリズムやら緩急の問題でこうせざるをえなかったのだろうと推測はできるのだが)。事情があって話は必ずモノノ怪の生まれた真相を解き明かす方向に行くのだが、真相が明らかになりだんだん話が重くなってきても、モノノ怪が出てきて事態が切迫してきても、先に述べたような理由により全体の軽妙洒脱な雰囲気が失われないのである。
ここは評価の分かれるところかもしれない。たとえば、話の内容に合わせて全体の雰囲気をもっと重くした方がテーマが伝わりやすくなるのではないか、と批判する人もいるのではないだろうか。しかし私はそういう立場を取らない。たとえば、和紙を意識した演出やモブキャラの顔の描き方はこの作品の特徴であるが、それは講談でも喋っているかのような薬売りの口ぶりも合わせて、まるで絵巻物か何かを見ているような印象を与える。つまりは先に述べた軽妙洒脱な様というのは背景などの演出を含めた全体の雰囲気と適合したものであり、読者に媚びるために必要であるはずの描写を改変してヌルくしている・・・といったものとは明らかに違うのだ。そういう理由で私はむしろ極めてよく計算された雰囲気作りだと評価したい(この点において、「怪」DVDのメニュー選択画面の曲が三味線を使ったどこかおどろおどろしいシリアスな雰囲気を持っているのに対し、「モノノ怪」は明らかにおどけた調子に変化していることにも注目する必要がある。端的に言えば、やや中途半端な部分のある「怪」に対し、「モノノ怪」は方向性が完全に統一されているということである)。
「モノノ怪」の持つ全体的な魅力にはついては以上の通り。あとはこまごまとした話になるのでいくつかピックアップするだけにとどめる。たとえばお話のフィクション性の演出については、第一巻で金髪の髪を結った女やピアスしまくりの褐色番頭(笑)が登場するのがおもしろい。これはステレオタイプな江戸のイメージとのギャップで視聴者を引き込むという意図もあるだろうが、現実(の江戸社会)に還元せずにはいられない志向性(=リアリズム病)に歯止めをかけるための演出としてもおもしろい(この設定を見て実際の江戸では・・・と大真面目に批判するのは単純にアホだからね)。まあ「怪」の加世も褐色に唇が厚ぼったく書かれていた(ラテン系?w)ので、それに通じるものがあると言えるだろう(ただ、あのレベルだと江戸時代の人物描写の閉鎖性への批判が強く印象付けられるが)。その他、「形」、「真」、「理」を知らねばモノノ怪を倒せないという設定によってストーリー展開の必然性を担保しているのは上手いとか、「怪」におけるじいさんの解釈と「真」の食い違いは人間の解釈(記憶)の恣意性を思わせるとか、まあそんなところ。あとは「怪」の紹介にあった「恐いのはモノノ怪か人間か」という言い回しは、私がよく言及する「境界線の曖昧さ」とつながるものであり、「沙耶の唄」や「学校であった怖い話」の内容とそれへの反応を思わせる。この話題については、いずれ「日本的想像力の未来」で扱うことになるだろう(ってこの話いつからしてるんだろうねw)。
まあそんな具合に色々と思考を刺激してくれる作品でありました。さて、一緒にしおみにすすめられた「ソウルイーター」や「へうげもの」も見てみるかね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます