分析と変遷:「食え、残すな」を題材に

2008-03-24 00:13:41 | 抽象的話題
さて、先日「食え、残すな」という記事を書いたわけだが、この話はだいたい10月頃から蓄積されたものであるため、当初に比べるとそれなりの変化を被っている。以下では、草稿記事を古い順から掲載し、その移り変わりを見てみたい。


(資料1)
自己憐憫は死ぬほど嫌い。確か大学二年の時だったが、自分が色々考えている時
それが自己憐憫であることに気付き、かれこれ30分くらい心の中で「死ね、死ね…」と自分を呪っていたものだ。僕は君が黙るまで、殴るのを、止めない!

なぜそうなったのかは正直全くわからない。一応推測されることは、内省しているように見えて実はかわいそかわいそして事によっては他人の同情を引こうとする行為に欺瞞を感じるからだろう。とはいえ、これに対する怒りの凄まじさは欺瞞程度の理由では説明できないような気がする(この違和感は、「情念」の希求を哲学的なものが好きだと解釈された時に感じたズレと似ている。とにかく表面的なのだ)。

自己憐憫cf)
ラスコーリニコフ(罪と罰)、ドミートリイ・カラマーゾフ(カラマーゾフの兄弟)
※ただし環境要因を考慮する必要アリ。

プライドの高さかもしれない。一般的には相反する(見苦しい)行為をどう考えるか。食いかけのものも平気で食べる。


以上は最初期の記事だが、ここから「食え、残すな」の原点がそれそのものにあったわけではなく、実は(未だに解明できていない)自己憐憫への強烈な嫌悪感の由来を分析する過程で生まれたことがわかる。プライドの高さとそういう「みっともない」行為は矛盾するのではないか?もっと言えば、それを見苦しいとみなす人もいると知りながら行うのは、何かしら屈折した理由があるのではないか……自分の残り物を喰らい、持ち帰る行為について、当初はそういう問題意識からアプローチしていた。そのため、以下のような推論が生まれる。


(資料2)
あるいは偽悪の一環?床に落ちたもの平気で食える ⇒貧乏性と言うか単に食い意地が張っているだけか?残り物を食べるのが見苦しいとか言う。それで物の大切さ云々なんてちゃんちゃらおかしいおためごかしだ。普通に食えるし。⇒偽善への反発

穏便に言えば、「無駄はよくない。」過激に言えば、「てめえらが無駄にしたものをまんまと利用してやった。」反感を恐れずに言えば、この行為には間違いなく相手に対する嘲笑が含まれている。残すのが無駄な行為であると思わず、むしろ残り物を処理しようとする行為を軽蔑する人間たちをあざ笑っている。


とまあかなり過激というかとげとげしい内容になっている。しかし、これは残り物をゲットした時の「ラッキー♪」程度の感覚とは余りにかけ離れたものだったため、しばらくは記事を寝かせて様子を見ることにした。その後、方向性は大きく変えずに、毒々しい内容を生かす手段としてあえて敬語で対話編にしてみることにしたら、以下のようになった。


(資料3)
単純に無駄が嫌いと言うか、どこか規範というか欺瞞への反発も含まれているように見受けられますね。

おそらくあります。こないだDDDを読んで巻菜の姿に頷いたことがありますが、それは要するにファジーな指示を出して「普通の子」に育つことを期待するような都合のいい大人に対する反発を含んでいるんでしょうね。勿体ないとか言いながら結局落ちたものや他人が残したものは捨てて何とも思わない程度のものだ、と。


当時読んで間もなかった奈須きのこの『DDD』第一巻で感じたことが早速取り込まれている。しかし、この記事は不正確と言わざるをえない。というのも、巻菜の姿に頷いたのは大人への反発というよりむしろ(暴走する前の)彼女の生き方そのものに対してだからだ。つまり私は、残り物への態度を規範への反発とする解釈(=与えられた規範を過剰なまでに遵守することで実は規範に反発しているのでは?)を補強するために、自分の感じたことをねじ曲げてしまっていたと言える。


ところで、この親への怒りは「自分が性善説を前提として物事に接していることについてあまりに無知であることへの憤り」と言い換えることが可能だが、先に述べたように問題の本質はそれではない。重要なのは、なぜ、それほど強く巻菜の行動に妥当性を感じたかなのだ。ここまで強い反応を示したことはそれほど多くはないし、なおかつ「もし実際に身近な人間がそう振舞ったら絶対ウザイと感じるだろうなあ」ということを理解しつつも(そのあり方に)賛同せずにはいられないというのは、何か私の深奥にあるものと繋がっているのかもしれない…


結局、そういった規範への反発という要素が否定されてあのような決定稿になったが、今見てきたように、ある事柄を色々考えていると、付随して様々な疑問・問題が浮上してくるのは非常におもしろい(これは、新しい問題の発見のみならず、自分の問題の分析方法そのものについても当てはまる)。まだ日の目を見ないフラグメントはそこかしこに眠っているが、それらがいつか何かと繋がっていくのが楽しみでならない。
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