山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

辺見庸『もの食う人びと』の凄絶な彫琢(チョウタク)

2016-02-06 18:58:17 | 読書
 以前、ジャーナリスト齋藤茂雄のルポルタージュを読んでルポルタージュとジャーナリスト精神の深さを知った。
 今回、辺見庸『もの食う人びと』(角川文庫 1997.6)を読んで、齋藤茂雄を凌駕するほどの迫力に引き込まれた。
 テレビには露出しない辺見庸は語る。

 「高邁に世界を語るのでなく、五感を頼りに<食う>という人間の絶対必要圏に潜りこんだら、いったいどんな眺望が開けてくるのか。それをスケッチしたのが、この本なのだと思う。」

                              
 さらに、世界のf現場に旅たつ理由として、「体中に詰まったデータやら数値やら分析情報やらをことごとく吐き出して、窒息していた感官のすべてを蘇らせたくなったのである」と。
 その現場とは、冷戦体制が崩壊していく90年代のアフリカ・東欧の飢餓・紛争地、チェルノブイリの放射能汚染地域、残留日本兵が人肉を食べたというミンダナオ島、従軍慰安婦や儒者と共にした韓国など。 

               
 食べるという生きる根源の行為は、悲しみが喜びが絶望が格差がないまぜになった坩堝。
 そこから辺見庸は、
 「世界にはいくつかの中心的場所があり、それらにともなう周縁があるという、パワーゲームを重視するマスコミ的世界イメージが、旅路が深まるにつれて、いつの間にかどこかに吹き飛んでしまったのだった。」 

                              
 そして、告発する。
 「私の舞い戻ってきた高度消費資本主義のこの国は生半(ナマハカ)ではない。
 この国のありようにまつろわぬ異なった感性を巧みに奪い、無と化し、均質化することにかけてはなにしろ驚異的能力の持ち主だからだ。
 一切の価値も意味も商品化と消費にしか還元しないがゆえに、人が食いかつ生きることの本来の価値と意味のすべてをぼろぼろと剥落させてしまった」と。

     
 解説の船戸与一は、「国家は本源的蓄積を終えると意識の収奪に取りかかる。…その収奪機能を担っているのが巨大メディアであることは論をまたない。
 辺見庸はこのルポルタージュを書くことによってそれをぶち壊そうと試みた」と分析したが、おおいに納得するところだ。

 本人は、出会った群像の顔を忘れまいと、平然と生きている自分に自責の念をきわめて謙虚にいだいている。


 

 
コメント
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