山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

池波正太郎の「自前」の思想

2016-06-24 18:40:13 | 読書
 怪しい雲行きの中、午前中にやっと耕運機に活躍してもらった。
 午後から雨が落ちてきたのでこれできょうの仕事は終わり。
 いつものように昼寝をしてからそのまま寝そべりながら池波正太郎の世界に入る。

                       
 最近は切れ味がいま一つと感じているものの舌鋒鋭い評論家「佐高信」とフィールドが広い江戸研究家「田中優子」が対談した『池波正太郎・<自前>の思想』(集英社新書・2012.5)を読む。
 「自立」は経済的な側面が強いニュアンスがあるが、「自前」の生き方とはどういうものか、70歳過ぎてもまだまだわからない。
 
       
 二人の言葉からそれは、「強くなくても生きられるってことですよ」「何かひとつ持っていればいいんですよ」「何かひとつ持つというのは、権威に頼らないで済む生きかたですね」という、田中優子の言葉に励まされる。
 池波文学に出てくる密偵は、元犯罪者だがたった一つのまっとうさを生かして生きよ、と池波は彼らにメッセージを送る。

                      
 代表作『鬼平犯科帳』(文春文庫、2000.4)の主人公長谷川平蔵は江戸の「火付盗賊改方」長官として辣腕を振るった実在の幕僚だ。
 平蔵は若いとき放蕩無頼の暴れ者だったが、盗賊たちには「鬼の平蔵」と恐れられるほど特別警察権を持って取り締まりの成果を上げている。
 そうしたベースのもとに、池波は人間を勧善懲悪の一面的なとらえ方ではなく、佐高のいう「下情(カジョウ)」に通じた人間観だ。
 小説に登場する犯罪者でさえ感情的に糾弾するどころか、その価値を考える。
 そして「情の裏うちなくして智性おのずから鈍磨することに気づかなくなってきつつある」として、情知一致によって一人前になるのだと説く。

     
 庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説と言えば、山本周五郎・藤沢周平・帚木蓬生らがあげられる。
 その中で、池波正太郎作品は町人が描いた時代物と言える。
 若き長谷川平蔵の放蕩無頼はそのまま池波正太郎の人生と重なる。
 だからこそ、人間を多面的に受け止めるのだ。
 
 田中優子の言葉が的確だ。
 「畳に手をついて頭を下げる。その手の身体側が自分、つまり自らの<分>であり、手前である。その自らの空間に全てを引き受けるのが、<自前で生きる>ことだ。」
 そして、「自前が…社会における己の姿勢を練り上げていく楽屋空間だとすると、そこは<あそび>の空間でもあるはずなのだ。」と。
 そうしたリキまず・ブレない洒脱な生き方を展開するとしたら、ずいぶん距離があるなー。
 
コメント
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