寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

広島での下宿生活

2007年05月19日 | 学生時代

今年は入学からちょうど20年目にあたる。私がごみだめ高等学校を去り、品のない田舎から脱出したのは1987(昭和62)年3月のことである。千田町界隈は学生で溢れ、暑苦しいまでの活気を肌で感じた。大学の周りには古本屋と銭湯がたくさんあった。

日当たりの悪い家賃1万1千円の下宿から最も近いスーパーが宝町のフジ(現Fuji)。食パン、豚細切れ、鶏もも、半キャベツ、たまご、低脂肪乳などの安い食材ばかり買っていた。自由化前の牛肉などは高くてまったく手が出なかった(笑)。

四畳半のカビ臭い部屋に小さなプロパンを置いていた。フライパンでカスみたいな食材をただ焼くのである。目玉焼きをかたきに半年続けて食べたら見るのもイヤになった。自炊を休む日は学食かホカ弁屋を利用した。ほっかほっか亭では「チキン南蛮弁当」をよく買っていたと思う。

日本育英会の奨学金で食いつないでいた貧乏学生の唯一の外食がお好み焼きであった。チャリンコに乗って街をぶらぶらしていると至るところからオ○フクソースが焦げる何ともいえない香りが漂っていたものだ。

正門横の「かむろ」には時々食べに行った。ここは綺麗さがウリであったが、高いというのが気に食わず、私は「松浦商店」を贔屓にしていた。廃業して久しい松浦の店舗がこの春取り壊されたと友人から聞いた。20年という月日は街の様子を大きく変貌させている。「破壊と建設」が最も進んだのはやはりバブル期であった。

ピンフ書房、かむろの後ではマンションの建設がすすむ

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