私が中島地区の赤線跡を初めて訪れたのは平成20年(2008)年2月初旬である。あれから約7年の月日が経過したことになる。古京町出身の作家・内田百は『六高土手(昭和三十一年二月)』に遊廓の思い出を綴っている。
大秀楼の横に路地があって、這入って行くと突き当たって右に折れる。すぐに又左に曲がって真直ぐに行けば、同じ遊郭の内ではあるが西中島より一段格の下がる東中島の通の端に出る。東中島は一枚鑑札の娼妓ばかりで、西中島には芸妓を兼ねた二枚鑑札がいる。
路地を東中島の通へ出た前側に、小さい時からの私の婆やだった「石」の実家がある。婆やの家は妓楼ではない。倅は日雇いの大工で、一度か二度行った事があるけれど、ひどい貧乏人の様であった。華やかな通の外れにこんな家があるかと思う様なあばら屋で、這入った所の土間が馬鹿に暗く、その黒い土の色が今でも目に残っている様である。
岡山市東遊廓は岡山県岡山市東中島新地に在つて、鉄道は山陽線岡山駅で下車する。市内電車及乗合自動車の便もある。岡山は元、宇喜田氏の旧城下で今は人口は約十三四万の大都会である。県庁の所在地で岡山と云えば直ちに日本三公園の一たる後楽園を連想する。否寧ろ後楽園の名は知つて居ても岡山市の名を知らぬ人が多い。其れ程後楽園の名は響いて居る。綾莚、紋莚小倉織、綿ネル、備前焼、生糸等が算出され、米穀の取引も盛んだ。貸座敷は目下約七十軒あつて、娼妓は約四百人居るが、九州地方の女が重(※ママ)である。店は写真店で陰店を張って居る家もある。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制と通し花制で、廻しは一切取らない。費用は一時間遊びが一円六七十銭位で、全昼は七円全夜は八円見当で、台の物は附かない。
『全国遊廓案内』


新京橋の下にある東中島町公会堂横から北を望む。妓楼の趣きを今に伝える富久屋旅館(赤線廃止後に転業したものと思われる)はまだ存在していた。


広田商店向かいのショートケーキの様な形状の建物も同様だった。1階のお好み焼き屋でポッタン便所を借りて昼食を取った記憶が蘇って来た。

新京橋の下を通り小島の西端へ移動すると西中島の妓楼に売物件の看板が打ち付けられているのが見えた。東中島の老朽化した妓楼の取り壊しは相当に進み空き地が目立つ。


駐車場あるいは宅地としての利用が考えられるが、見た感じでは前者が多かった。メインストリートに戻り電車通りへ向かう。元飲み屋らしい独特のドアを持つ家が残っていたのは意外だった。



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大秀楼の横に路地があって、這入って行くと突き当たって右に折れる。すぐに又左に曲がって真直ぐに行けば、同じ遊郭の内ではあるが西中島より一段格の下がる東中島の通の端に出る。東中島は一枚鑑札の娼妓ばかりで、西中島には芸妓を兼ねた二枚鑑札がいる。
路地を東中島の通へ出た前側に、小さい時からの私の婆やだった「石」の実家がある。婆やの家は妓楼ではない。倅は日雇いの大工で、一度か二度行った事があるけれど、ひどい貧乏人の様であった。華やかな通の外れにこんな家があるかと思う様なあばら屋で、這入った所の土間が馬鹿に暗く、その黒い土の色が今でも目に残っている様である。
岡山市東遊廓は岡山県岡山市東中島新地に在つて、鉄道は山陽線岡山駅で下車する。市内電車及乗合自動車の便もある。岡山は元、宇喜田氏の旧城下で今は人口は約十三四万の大都会である。県庁の所在地で岡山と云えば直ちに日本三公園の一たる後楽園を連想する。否寧ろ後楽園の名は知つて居ても岡山市の名を知らぬ人が多い。其れ程後楽園の名は響いて居る。綾莚、紋莚小倉織、綿ネル、備前焼、生糸等が算出され、米穀の取引も盛んだ。貸座敷は目下約七十軒あつて、娼妓は約四百人居るが、九州地方の女が重(※ママ)である。店は写真店で陰店を張って居る家もある。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制と通し花制で、廻しは一切取らない。費用は一時間遊びが一円六七十銭位で、全昼は七円全夜は八円見当で、台の物は附かない。
『全国遊廓案内』


新京橋の下にある東中島町公会堂横から北を望む。妓楼の趣きを今に伝える富久屋旅館(赤線廃止後に転業したものと思われる)はまだ存在していた。


広田商店向かいのショートケーキの様な形状の建物も同様だった。1階のお好み焼き屋でポッタン便所を借りて昼食を取った記憶が蘇って来た。

新京橋の下を通り小島の西端へ移動すると西中島の妓楼に売物件の看板が打ち付けられているのが見えた。東中島の老朽化した妓楼の取り壊しは相当に進み空き地が目立つ。


駐車場あるいは宅地としての利用が考えられるが、見た感じでは前者が多かった。メインストリートに戻り電車通りへ向かう。元飲み屋らしい独特のドアを持つ家が残っていたのは意外だった。



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