寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

国旗掲揚・国歌斉唱を実施しない大学の存在

2015年06月16日 | 日記
19時のニュースを見て私は呆れた。いまだに反権力が恰好いいと思っている国立大学が地方に存在しているのだ。そのうちの3つの大学長のコメントを取り上げていたが、旧帝大以外は劣化サヨクの養成所に成り下がっているのではないかと疑いたくなった。

首相

文科相に「おまいら、ちゃんとせえや」と言われてブ―垂れたり、萎縮するとかほざく奴は金玉が小さ過ぎる。高校に毛が生えたレベルの三流大学なんてどんどん専門学校に格下げしたらいいのである。自由自治をウリにする大学が汚職まみれで世間の笑いものになっている事実をまずは反省しろ。

国旗

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岡山空襲で消滅した東西両中島の遊廓

2015年06月16日 | 
西中島で最も色街の雰囲気が漂う所に移動する。昔は相対する東中島とともに不夜城の様相を呈していたと思われる。左手奥の建物に売物件の看板が出ていたことは「岡山市中区東中島町の赤線跡再訪」で述べた。

東中島を望む

東中島よりも残っている妓楼の数が多いといっても取り壊されるのは時間の問題であろう。妓楼を歴史的建造物として保存しようという動きは聞いたこともないのだから。中島地区が繁栄を極めるまでの流れは『岡山市史 産業経済編(昭和四十一年)』の記述が非常に参考になる。

 岡山宿の庶民に対する宿泊施設は西中島町の旅籠町であった。西中島町は旭川を隔てて船着町に相対し、船着町は旭川の高瀬舟はもとより、吉井川からも延宝七年以後は倉安川によって高瀬舟の廻航してくる河港であるとともに、海からも小船は直接、大船は福島沖に船繫りして上荷舟によって連絡した海港でもあったので、西中島町は領内はもとより他国からの諸商人にとって旅籠町にふさわしい位置にあった。
 また、西中島町は宇喜多秀家による文禄年中の旭川架橋(京橋・中橋・小橋)によって山陽道沿いの町となり、道往く旅人の旅籠として恰好の場所でもあった。さらに、それが旭川の中洲にあって一応城下の営みから隔絶された地域であったことは、藩側にとって軍事警察上好都合でもあった。

旅籠に非合法の飯盛り女が置かれ、お上の取り締まりを潜り抜けながら営業を続け維新後漸く遊廓地として正式に認可されるに至ったのである。

岡山市西遊廓は岡山県岡山市西中島新地に在つて、鉄道は山陽本線岡山駅で下車する。市内電車及乗合自動車の便がある。岡山は女に恵まれた処で、東廓の外に西廓をも持つて居る。両廓共何れ劣らぬ賑かな殷盛振りを示して、昼猶絃歌の絶え間無いと云ふ有様だ。貸座敷は目下五十九軒あてて、娼妓は約三百五六十人居る。茲も矢張九州地方の女が多い。店は写真店で陰店を張つて居る家もある。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制と通し花制で、廻し花は取らない。費用は一時間遊びが一円五六十銭で、全昼は六七円全夜は七八円見当である。台の物は別だ。
『全国遊廓案内』

しかしその繁栄も長くは続かなかった。岡山空襲による被害は遊廓地である中島にも出たのだ。『岡山市史 戰災復興編(昭和三十五年)』には驚くべき事柄がたくさん書かれている。なお巻末の「燒夷彈爆撃に依る燒失状況(戦前の岡山市街地図を用いて焼けた町を赤く着色している)」も貴重で平和教育の資料として活用すべきだ。

岡山市の戦災-町内会別に見た戦禍
 西中島町 戦災前の戸数一三〇 焼失戸数一一九 死者(※著者註 記載)なし 二一・一〇月~二二・三月現在復興戸数九十 備考 焼失家屋中貸座敷数四十九軒
 東中島町 戦災前の戸数三〇〇 焼失戸数二九〇 死者(※著者註 記載)なし 二一・一〇月~二二・三月現在復興戸数一五〇 備考 焼失家屋中貸座敷数五十九軒

宗教及び文化財-寺院の戦災と再興
15.源照寺 真宗 東中島町
 寛永年間の創立で本尊は阿弥陀如来である。戦前の寺域一一三坪九、本堂と庫裡があった。空襲の際東中島町は国道より北側を残して南側の遊廓地帯は全焼、源照寺もまた灰燼となった。戦後は進駐軍などの関係で東西両中島は急速に復興したが、寺院は再興することが出来ず、この寺は花畑操町に移って再建された。
16.教徳寺 真宗 東中島町
 阿弥陀如来を本尊とし、元和六年二月の創立(寺伝)とも寛文十年の創立(吉備温故)とも云われる。戦前は遊廓地帯の狭い屋敷に本堂と庫裡があった。戦災で全焼したが源照寺と同様、旧知に復興することができず、門田に移って再建した。

焼け残った町筋
 西中島町北側、東中島町北側も残った。

岡山県特殊娯楽施設協会
 進駐軍の慰安施設としては中島遊廓の焼跡に、資材を優先的に特配して慰安所を建てさせたり、又磨屋町柳川筋にバラック建てにした岡山劇場をダンスホールにするなど手を尽くしたが、それもその筈、米軍先遣隊が進駐した第一日に早くも中島に繰り込んで遊んでいたという慰安風景が見られ、又言葉が通ぜぬため慰安所で交渉にまごずいたり、代金の勘定に戸惑うなり、様子がわからぬためか支払をそのままにして帰って行くお客さんもあって、そうした問題が県に持ち込まれることも度々であった。

日本家屋2

日本家屋2玄関

敗戦国の官僚・政治家は進駐軍がやってくる前に性の防波堤として慰安所を用意する手筈を考えていたと思われる。損失分を早く取り戻したい楼主にとって旨味の多い申し出であったことは容易に想像がつく。こうして進駐軍の意向に沿う形で慰安所が旧遊廓地に急ピッチで造られ赤線地帯として復活するのであった。だが、売春防止法の施行で第2の繁栄はわずか10年ほどで終わりを告げた。

日本家屋3

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梅干し・本漬け

2015年06月16日 | 食材
赤シソを塩でもみアクを出してから白梅酢(梅を塩漬けにして出た汁)を加えると赤紫色に変わる。シソニンとクエン酸の化学反応によって赤梅酢が出来たのだ。梅の入った瓶に赤シソと梅酢を戻して本漬けは一応完了。今年は塩分をやや高めにしたのが変更点である。

本漬け

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デパそら・福山天満屋・屋上ビアガーデン(6月30日~)

2015年06月16日 | 日記
今月末に福山天満屋の屋上ビアガーデンが復活。私はバブル期に天満屋の屋上で飲んだことがある。大学1年の夏休みに収容所で臭い飯を食った仲間が集まったのだった。ほとんどが県外に出ており、都会での生活を嬉しげに語っていた。

私は確かジョッキで12杯ほど飲んで翌朝はひどい二日酔いに悩まされた。しかしビールはますます好きになった。広島市に帰ってからはキリンフォーラム(今はなき伝説のビアホール)を定期的に利用した。飢えた学生がソーセージ類を馬鹿みたいに食べるのでボーイ(従業員)が露骨に嫌な顔をしていた(笑)

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