中橋を渡り西中島の旧赤線地帯に入る。こちらも約7年ぶりだ。以前と比べて雰囲気が少し明るくなった気がするが、一度来たことがある場所ゆえの安心感なのかもしれぬ。
小さなお堂に祀られたお狐さんや石仏に手を合わせる。石仏の顔が黒ペンキでへのへのもへじのように描かれているのが独特である。近所の奥さんに会釈をして妓楼の保存状態を確認することにした。
内田百は『六高土手(昭和三十一年二月)』に西中島の妓楼の跡取り息子・長さんとの思い出を詳しく綴っている。長さんと百は歳が近いのだが、実は叔父と甥の関係にあたる。長さんは百の祖父がお手かけさんとの間に設けた子で事情はよく分からないが大秀楼に養子として出された(推測)という。彼は百の(旧制)中学の先輩でもあったが、窃盗の罪で放校となり中島を飛び出し最後にはサーカスの団員になってしまったという暗い話である。
今朝冬や我と同名の葬を聞く 蹄花
作者蹄花は私の高等学校の同級であり、この俳句は二年生の時の作である。俳諧一夜会と云う俳句の会を私共でつくり、しょっちゅう集まって運座をした。その席上の偶成である。
蹄花が同名の葬を聞くと詠んだその葬列も六高土手を通って行った。古京の表通の家に下宿していた彼が、だれからかその事を聞いたのだろう。
それは西中島の長さんの葬式であった。長さんの名前は長太郎であったか長十郎であったか、はっきりしないが、苗字は土井で家は大秀楼と云う女郎屋であった。
蹄花の姓は土居である。土居と土井と、字は違うけれど音の響きは同じである。だから同名の葬を聞く、と云う事になる。…
長さんは…北海道でサアカスの豹に食われて死んだのである。
長さんの家の大秀楼は西中島の通にあって、…旭座へ行く道筋の左側である。子供の時一度母に連れられて行った事がある。
上がった所に鏡台が幾つもずらずらと列んでいて、その前に綺麗なお姉さんがいた様である。一番こっちの端に坐ってい多お姉さんが私に構ってくれた。鏡台の上に小さな金色の狐があった。…
おやじさんはあばた面だった様で、その顔をうすうす覚えている。秀なんとか云う名前だから、それで大秀と云ったのだろう。おばさんはお神さんで即ち女将で白っぽくて長くて平ったい顔をしていた。…
しかし私はそんなに度度中島へ行ってはいない。大秀楼へ行ったのは子供の時一ぺんきりである。東中島の婆やの家へ行ったのも小さい時で、行った事は行ったが大秀の横の道から行ったとは限らない。旭座へ行くのに西中島を何度か通っているけれど、一体両側がそう云う家並みなので、そこいらをきょろきょろ見て歩くなぞと云う事は出来ない。あがった様な照れた様な気持ちになって、早足に通り抜けてしまう。どの家にも登楼した事はない。
百が芝居小屋(旭座)に行く際、妓楼をギョロギョロ眺めるのは気恥ずかしくてとても出来なかったと書いているが、尾道に流れてすることがなくてせっせと悪所通いしていた遊び人(志賀直哉)とは大違いで微笑ましい。私には百の気持ちが理解できる。東警察署で柔道の練習をした帰りに新町の旧赤線エリアを通り抜ける時に国道の向かいの住吉辺りの客引きが否が応でも目に入り同じ感情を抱いた記憶がある(笑)
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