寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

内田百閒が綴った夏の風物詩・奈良茶の思い出

2015年06月25日 | 
旭川上流(の新堰管理橋)から見た中島。川には三本の橋が架かる。右端が京橋、真ん中が中橋、左端が小橋である。それでは内田百閒のエッセイ『山屋敷の消滅(昭和三十二年十一月)』の一節をお読みいただきたい。

 荒手の波止の下流で川幅が広くなり、暫く流れて三叉に岐かれる。本流は西を流れて京橋の下をくぐり、真中は中橋川であるが、ふだんは水が流れていない。東の端は小橋川である。本支流三本の間に二つの細長い島が出来ている。西寄りの島を西中島と云い、東寄りを東中島と云う。どちらも遊郭であって、市内の中心地にそう云う一郭がある。
 妓楼の絃歌を流した川波が中島の下で又一本に合流し、洋洋たる大河の相をそなえて海に向かう。…

西中島のお好み焼き店

中島の赤線が営業を止めてもう少しで60年になるが、岡山の色街における奈良茶の食文化が消えたのはもっと早かった。百閒の記述では明治の終わり頃には廃れていたようにもとれる。

 奈良茶の始まりは私共の祖父の時代か或はもう少し前の事かも知れない。夏の蒸し暑い夕方に浴衣掛けで京橋川原の掛け茶屋に出かけ、川風に吹かれながら奈良漬にお茶漬の夕飯を食べたと云うのが事の起こりだと云う風に聞いている。
 …私共が知っている奈良茶は婆やの背中におぶさって行った子供の時分からいつでも夜店や見世物が両側に列び、その突き当たりの一番奥には一番大きな小屋が掛かって軽業や芸当でどんちゃん、どんちゃん大変な騒ぎであった。
 奈良茶のお仕舞はいつ頃であったか、はっきりした事は覚えていないが、私の六高時代にはもうなかったのではないかと思う。考えて見ても高校学校時分の友達と奈良茶へ行ったと云う記憶がない。…私の六高時代と云うのは明治四十年から四十三年迄である。
 奈良茶へ行くと云うのは子供の時から毎年夏の宵の一番の楽しみであった。私の生家の古京町から行くには小橋中橋を渡り、京橋の手前から西中島の通へ這入って、暗い家の前を二三軒行くとすぐ右にだらだらと磧へ降りる坂があった。その暗い家と云うのは或はどこかの物置が倉庫だったかも知れない。向うには遊廓の灯がずらずらと列んでともっているのみ奈良茶へ降りる道はいつでも暗かった。
 大水が出ると奈良茶の小屋が流れたり、見世物の猿や熊はどこかへ引越さなければならなかった事と思う。…大体奈良茶の掛かるのはもう夏のお天気が定まってからであって、遊廓の下の中島磧は小屋を建てるに都合よく乾いて居り、川浪がすぐ近くの足許までひたひたと寄せて来た。しかし奈良茶は涼しいものではなく、人いきれと砂埃でもやもやして、帰りには京橋の欄干で一息入れて涼んで来る。
 京橋の上から眺めると奈良茶のあかりが京橋川の水に流れて波の皺で灯の影が長くなり、隣り同志でもつれたりして何時までも欄干から離れられなかった。
 奈良茶のあかりも記憶の初めの方は洋灯やカンテラであって、油煙のにおいが玉蜀黍を焼く屋台の煙と一緒に川風に乗って京橋の上までにおって来た。後にはアセチリンのにおいの記憶もある。仕舞い頃は電灯になっていたかも知れない。

『古里を思う(昭和二十一年四月)』

しかし、今年真金堂(北区内山下1丁目の蕎麦屋)のように奈良茶を期間限定で提供する店が現れた。今後町おこしの一環として平成版奈良茶が復活するかもしれない。掛け茶屋を造るのは無理だとしても遊覧船(広島の元安川の例のように)に乗って川面から岡山の歴史を振り返るツアーを企画するのは十分可能だと思う。

西中島のお好み焼き店2

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JA松任・炊きたてごはん(レンジで2分)

2015年06月25日 | 食材
米を一合だけ炊くのは何かと効率が悪い。コンビニなどで白米を購入するよりも包装米飯を自宅にストックしておくと楽だ(し、災害時の非常食にもなる)。上蓋(シール)を少し剥がしてレンジで2分加熱するだけでおいしいごはんが出来上がる。200gという量が中高年にはちょうどよい。地元のスーパーでは3個セットが200円強で入手可能。

ライス

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