旧赤線地帯巡りを終えて旭川に架かる京橋を渡る。大正6年(1917)に開通した京橋は路面電車を走らせるために同12年に拡幅された。
![京橋東詰に位置する元妓楼](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/12/4ec3ce76a96cf3584265181950eb0a01.jpg)
橋の欄干にもたれて西中島の有名な建物を撮影する。以前掲げられていた「肉すき 水だき あさの家 電(2)三四四二番」の看板は既にない。さて本題に入ろう。明治25年(1892)夏目金之助(後の漱石)は帝国大学文科大学の夏季休暇を利用して岡山に滞在した。観光の中でも中島の掛け茶屋は印象に残ったようで江戸生まれの彼は「小不夜城」という的確な表現を用いて親友の子規と一緒に見たかったと心情を吐露している。
書簡25 七月十九日(火)正岡子規〔全集(大6)〕消印ト便
松山市湊町四丁目十六番戸 正岡常規宛
岡山市内山下町百三十八番邸片岡方より
貴地十七日発の書状正に落手拝誦仕候先は炎暑の候御清適奉賀候小子来岡以来愈壮健日々見物と飲食と昼寢とに忙がはしく取紛れ打ち暮し居候去る十六日当地より金田と申す田舎へ参り二泊の上今朝帰岡仕候閑谷黌へは未だ参らず後楽園天守閣などは諸所見物仕候当家は旭川に臨み三櫂山を控え東南に京橋を望み夜み入れば河原の掛茶屋無数の紅燈を点じ納涼の小舟三々五々橋下を往来し燭光清流に徹して宛然たる小不夜城なり君と同遊せざりしは返す〲残念なり今一度閑谷見物かた〲御来岡ありては如何一向平気にて遠慮なき家なり試験の成蹟面黒き結果と相成候由鳥に化して跡を晦ますには好都合なれども文学士の称号を頂戴するには不都合千万なり君の事だから今二年辛抱し玉へと云はゞなに鳥になるのが勝手だと云ふかも知れぬが先づ小子の考へにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候願くば今一思案あらまほしう
鳴くならば満月になけほとゝぎす
余は後便にゆづる乱筆御免
十九日午後 平凸凹
獺祭詞兄 尊下
![京橋全景](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/36/28ef520445191e4e27fae8e51c7432fc.jpg)
落第した子規に退学を思いとどまるように説得を試みた金之助だったが、願いは叶わなかった。平凸凹(たいらのでこぼこ)とは自分のあばた面をペンネームにしたもの。学生時代の書簡はユーモアに富むのが特徴の一つだ。
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