トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

ハザ掛けで被害を受けた

2019-10-10 | 小人閑居して憮然
 10月5日にハザ掛けした稲束なのだか7日には猪の先遣隊が一束を落とし食べていったと会友が確認している。その時に対応すれば被害が広がることは無かったのだが、二日の休みを挟み9日に出勤した時には約2割ほどが落とされ喰われていた。代表にメールで知らせたらほどなくやってきて、たまたま会友3人が出ていたこともあり道具小屋のフェンス内に移動させることにした。

 一人では稲架の高さを上げにくいので代表に応援を求めたのだけれど道具小屋のフエンス内とは思いつかなかった。日当たりが悪いのは同じでも風通しが悪くなってしまうのは目に見えているが週末には台風18号の影響もありそうなので退去避難と思えば妥当かもしれない。
 フェンス内だけでは干しきれず庇の下にも竹を吊り干し場を作った。これで2割を失ったとは言え猪に喰われる心配はなくなり一安心である。仲間内では一粒も得られずともどうという事も無いものの、ボーイスカウトの隊員は残念がるだろう。

 稲穂だけ喰われ散乱   ➡    フェンス内に干す   ➡    庇にも下げる

秋は夕暮れ

2019-10-10 | 感じるままの回り道
 10月に入ると秋色が一段と深まっていると思いつつ、郷里南魚沼に法事で立ち寄ったのだが北国の山並みでも紅葉には早かった。そこより暖かい我がフイールドでも紅葉は期待しないまでも季節の終焉は感じる。サクラ類は病葉を早々に落として気の早い裸木状態まで現れた。いくら衣をまとうていなくても見る気もしないけれど、季節の終焉を感じるうらぶれた姿には心惹かれるものがある。
 四季それぞれに終焉の時期はあろうけれど秋以外の終焉時期は冬にしても春夏にしても「歓喜」だけに思える小生なのだった。季語には「山装う」と千段錦を連想させる華やかさも存在しても灯の最後の一瞬の煌めきでもある訳で、それはそれで「夕暮れ」の風情だ。

 ほんの一時、フイールドに鮮やかな赤色を点在させてくれた曼殊沙華も、その色も花弁も褪せて萎びつつある。その花にアゲハチョウはまだ吸蜜にやってくる。蜜があるのか無いのか小生には測りかねるけれど一花一花立ち寄っていく。この写真を撮ろうとしていた時は二頭のアゲハが舞っていたのだが撮りたい写角内に入ってこず断念したのだった。「もそっと、近う近う!」と念じてみても小生の念力は作用する事も無く念力の終焉をも感じたのだった。無念である。

 飛来したアゲハは尾状突起が見えなかったからナガサキアゲハかと観たのだが、翅の傷み具合から落とした可能性もあるとすれば他のアゲハになる。この状態で小生に種別の判断は無理なのであったものの、花色と言い落武者風の尾羽打ち枯らしたアゲハといい、季節の終焉を知らせる場面ではあった。
 「春はあけぼの」との出だしで知られるかの草紙にも秋の事は「秋は夕暮れ」と書き始められる。「夕暮れ」とあっても含みや連想は日の暮ればかりではなく、そこはかとなくかつまた包容力のある大和心と詩情を感じる。だからこその古典で名作なのだろうけれど小生にはもはや終焉だけの夕暮れしか迫ってこないのが浮世の現実・・・。