澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

筑紫哲也論

2008年11月08日 12時18分35秒 | マスメディア

ニュースキャスターである筑紫哲也氏が亡くなった。テレビ朝日系の「報道ステーション」が、昨晩、この訃報をトップで伝えたのには少々驚かされた。

筑紫哲也は、九州出身で早稲田大学卒。今、マスコミが持ち上げている姜尚中東大教授と全く同じ経歴だ。「目立ちたがり屋」で「ええ格好しい屋」という点でも、両者はそっくりだ。

彼はジャーナリストとしてのプライドが高い人だった。活字メディアから離れ、映像メディアの寵児になっても、常にジャーナリストとしてふるまった。これは、ライバルだった久米宏とは決定的に違うところだ。

「多事争論」は筑紫哲也の独演会場だったが、晩年のそれは異様な光景が多かった。沖縄から中継し、戦争の悲惨さを訴える…という中継を何度見たことか。老婆とのインタビューの間には、沖縄戦の映像や自衛隊の行進が映し出される。自分がいかに「平和愛好者」で、平和を脅かす勢力と戦っているのだ…そのことばかりがPRされているかのようだった。

だが、「オウム事件」での言行不一致の対応、「週間金曜日」の編集者であることを明言しなかった態度など、本人がジャーナリストを気取れば気取るほど、ボロは出るばかりだった。

TVのニュース・ショー司会者は、多かれ少なかれ「芸人」である。筑紫哲也は、主観的にはジャーナリストだったが、その視聴者は久米宏と同類に見ていたはずだ。
久米宏は、報道の誤りを指摘されると「私は単なる司会者。ジャーナリストではない」として、責任を回避してきた。一方、筑紫哲也はといえば、「オウム事件」を見ればわかるように、ジャーナリストを気取りながら、自ら責任を取って、TV画面から消えることはなかった。

どっちもどっちなのだが、ジャーナリスト・筑紫哲也の方が、報道の自由を隠れ蓑にした点では罪深いといえるだろう。

筑紫哲也亡き後、TV報道はさらに低俗化し、「みのもんた」のような下劣な人物が、大きな顔でのさばるようになった。

筑紫哲也は、「見かけ」「いいかっこ」を優先するTVジャーナリズムの先駆けだったのだ