澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

台湾愛した技師に感動 パッテンライ!!台北で試写会

2009年11月10日 19時47分51秒 | 台湾

ベルリンの壁崩壊20周年をメディアはさまざまな形で放送したが、一番印象に残ったのは、あの体験の風化という現象である。壁の存在も、東ドイツが存在したことさえ知らないドイツの若者が育っていることを知って、複雑な感慨を持った人も多いことだろう。
日本はといえば、戦前の日本近現代史を直視せずに、曖昧なその場限りの歴史観でやり過ごそうとしているかのようだ。TVのコメンテーターと称する人の中には、戦前の日本を現在の北朝鮮とそっくりだというような暴論を吐く人さえいる。こういう連中は、①全く日本の歴史を知らないのか、②知っていながら、金儲けのために人を欺く類の輩だろう。

何故、こんなことを書くのかというと、アニメ映画「パッテンライ!!八田與一-嘉(か)南(なん)大シュウ(たいしゅう)の父」(同製作委員会、北國新聞社、虫プロダクション製作が台北で公開され、多くの人たちが訪れたというニュースを見たからだ。
戦前の日本がすべて悪かったという歴史観(=自虐史観)から見れば、どうして台湾人が日本統治時代の一人の技術官僚(八田與一)をこのように顕彰するのか分からないだろう。20年前のベルリンの壁でさえ曖昧になってしまうのだから、ある意味では無理からぬことだが、台湾はかつて日本の一部であり、日本型の近代化が図られていたという事実だけは知るべきだろう。台湾の本島人は、日本型の近代化の光と陰を熟知しているが故に、今でも日本の功績面を高く評価するのだ。

私がYouTubeにUPした「米国から見た日本の台湾統治~台南市の歴史」(下記に掲載)は、米国のTV局(ディスカバリー・チャンネル)制作だが、日本のどのメディアよりも日本統治時代を的確に評価している。このことだけは、ぜひこのブログを見る方々には知ってもらいたいことだ。



台湾愛した技師に感動 パッテンライ!!台北で試写会 (「富山新聞」)

 金沢出身で台湾南部の水利事業に尽力した八田與一(はったよいち)技師を描いたアニメ映画「パッテンライ!!八田與一-嘉(か)南(なん)大シュウ(たいしゅう)の父」(同製作委員会、北國新聞社、虫プロダクション製作)の試写会は9日夜、台北市の映画館で開かれ、約250人が訪れた会場には、台湾を愛した日本人の偉業に感動の輪が広がった。13日から台湾全土の10館で公開される。

 上映前にあいさつに立った元行政院長(首相)の謝長廷氏、嘉南農田水利会の徐金錫会長らがダムと水路を建設した八田技師の努力と功績をたたえながら映画の上映を喜んだ。台南出身の歌手、ジュディ・オングさんは「こんなにも台湾を愛した日本人がいたということを作品で知り、感動した」と述べた。

 李登輝元総統も訪れ、鑑賞後に「若者のためになる映画だ。多くの人に見てほしい」と感想を語った。

 映画はせりふが台湾語や北京語に吹き替えられ、八田技師が戦前の台湾南部で現地の人々と協力しながら烏(う)山(さん)頭(とう)ダムと水路を建設し、不毛の土地を耕作地帯に変えた生き様や日台の子供たちの友情を描いている。

 4日夜に台南県で開かれた試写会では烏山頭ダムを日台関係の「象徴」と位置付ける馬英九総統も鑑賞した。

 台湾行政院新聞局(台湾の内閣広報機関)は9日、台湾で八田與一技師の映画が公開されるのを前に、技師の功績をたたえ、上映が友好促進につながることを期待するコメントを北國新聞社に寄せた。

 八田技師は1920年ごろから10年の歳月をかけて当時アジアで最大規模の烏山頭ダムを完成させ、嘉南平原の稲作収穫量を飛躍的に増加させました。台湾の農民はその功績を今でも感謝しています。

 台湾政府は民間と協力して烏山頭ダム風景区に「八田與一記念室」を開設し、八田技師がダム建設を指揮している写真や生前の事績などの貴重な史料を展示しているほか、毎年5月8日の八田技師の命日には嘉南農田水利会の主催で慰霊祭が行われ、今年は馬英九総統も出席して、その功績を偲(しの)んでいます。

 八田技師が今でも台湾の人々から敬愛されているのは、偉大なダムを残したというだけではありません。八田技師が台湾人と日本人を一視同仁とした台日友好の精神を貫いたことも、台湾の人々は忘れていません。

 映画は11月より台湾各地で公開上映されます。1人でも多くの台湾の若者が映画を通して、八田技師が果たした貢献を理解し、八田技師のように全力で物事に取り組み、数々の困難を乗り越えて目標を達成する精神を学び、そして台日友好が一層強化されるよう願っています。

米国から見た日本の台湾統治~「知られざる台湾・台南市」より


上智大学の凋落とその理由

2009年11月10日 08時57分37秒 | 社会

受験シーズンが近づいてくる。最近、あるビジネス雑誌に上智大学の凋落ぶりが伝えられていた。
少子化の影響を最も受けているのが私立大学だが、その中でも上智大学の没落ぶりが顕著だという。
ネット上で検索したところ、次のような書き込みが見つかった。

1 男が行ったら間違いなくイメージ・就職・存在において損をする大学 
2 偏差値も実績も同志社・立教・明治と並びそう!  上智の凋落は今もなおリアルタイムで進んでいます
3 あまりにも駄目すぎて河合塾にはずされた上智の理工学部!
4 辞退率がなんと約7割!  優秀層がほとんど蹴っていきます(笑) 魅力の欠片もない大学ですねー
5 なぁ~~んにも実績がない!( 何のために──上智は一体何のために存在しているのでしょうか!!!!
6 上智法科大学院の上智大出身者はなんと18%だけ!  何もかもが中途半端な大学だけありますね
 
カトリック神父も住むキャンパス)

上記の書き込みは、ほぼそのとおりだと思われる。
「早慶上智」などとひとくくりにするのが、そもそも誤りの始まりだ。歴史的伝統もなく付属高校も持たない上智大学が、ある程度有名になったのは、高度成長期の「国際化」という要請にたまたまフィットしたからに過ぎない。にもかかわらず、大学当局は、研究成果の充実には力を注がず、表面的なイメージアップだけを優先した経営を進めてきた。

その際たるものは、法学部地球環境法学科と大学院における地球環境研究科東南アジア研究専攻科の設置だろう。1967年に設置された「平和と開発のための国際関係研究所」を廃止して、これらの学科を設置したのだが、「時代のニーズ」を先取りするどころか、何を考えて設置したのかもよく分からない、奇怪な学科となってしまった。
東南アジア言語を専攻する学部も持たないのに、大学院に東南アジア研究専攻を設けたのは、石澤良昭学長というアンコールワット研究者がいたからだ。この石澤氏は、フランス語学科出身で、カトリックの神父さんに気に入られて、カンボジアに行き、フランス留学してから歴史研究を始めた人。いかにも上智大学内部でのエリートらしい経歴の人物だ。上智では外国語を専攻してから留学し、政治学や歴史学の教授になるというケースが多い。猪口邦子(フランス語学科卒、国際政治学)、古くは三輪公忠(英文科、日米関係史)といった人たちだ。日本の学界では相手にされないこれらの人に共通するのは、”買弁”の匂いだろうか。

地球環境研究科に至っては、自然科学系の設備・スタッフも何もないにもかかわらず、大層な名前の専攻をでっち上げたという印象だ。国立大学の大学院で環境化学を専攻した私の親族は、「そんなので地球環境がわかるの?」と怪訝そうだった。

他の大学院も同様だ。たとえば政治学・国際関係の分野を例にあげると、この20-30年間において、慶應大学は数多くの研究者、大学教員を輩出してきたが、上智は片手で数えるほど(※)しかいない。入学時の偏差値はさして変わらないのだから、その原因は別のところにある。上智大学というところは、①研究成果を発表する場を持たない(慶應大学には慶應義塾大学出版会があり、定期的に論文集を出版している)、②支配下大学を持たない(自校卒業生を送り込める大学を持たない)、③外国人カトリック神父(教授)により構成される理事会で自校教授人事が左右されるなどの特殊事情がある。

「外国語に強い上智」というイメージも疑問だ。東京外国語大学と上智大学を比較してみると、東京外大が語学系の外国人教授を公募できちんと選考しているのに対し、上智はカトリックの神父がこの役割を担っている。神父が教授の場合、学生との間にコミュニケーション上の問題が多々あり、東京外大のようにはスムースにいかないようだ。また、開講科目数、教授陣については、東京外大の方が圧倒的に充実している。上智にはアジア・アフリカ関係の講義はほとんどない。さらに、個々の学生が学ぶ環境(図書館、ゼミナール室、研究室等)に関しては、上智大学は東京外大の足元にも及ばない。

「早慶」と比べると、卒業生の社会的評価が著しく低い。マンモス大学である両校は、付属高校もあり、社会に出てからそれなりの人脈、学閥を形成しうるが、上智大学にはこれが全くない。「上智を出てトクをしたことなど一度もない」とは、卒業生からよく聴く言葉である。

「辞退率がほぼ7割、優秀な学生は蹴っていく」というのは、昔から周知の事実。特に男子学生は、他の上位大学に合格したら、入学金を捨ててでも、上智を蹴ってそちらに行くべきだろう。大学選びは、一生を決める選択なのだから。

                   ※ 大学院国際関係論専攻を修了した学者・研究者の数