「大清帝国と中華の混迷」(平野聡著 講談社「興亡の世界史17」 2007年)を読む。いわゆる通史の本なので、読者はその叙述の根拠となる史料にいちいち当たってみるわけにはいかない。したがって、著者の専門領域や経歴を確認する必要がある。この著者は、東洋史(文学部)の出身ではなく、東大法学部で「アジア政治外交史」を講ずる政治学者だ。
(平野聡「大清帝国と中華の混迷」)
この本の特徴は、中国近代史を斬新な切り口で叙述していること。それは、次の目次を見ただけでも分かる。
序章 「東アジア」を疑う
第一章 華夷思想から明帝国へ
第二章 内陸アジアの帝国
第三章 盛世の闇
第四章 さまよえる儒学者と聖なる武力
第五章 円明園の黙示録
第六章 春帆楼への茨の道
終章 未完の清末新政
著者は、政治学・政治思想史的な視角で、中国近代史を読み解く。類書の多くは、経済史的な実証やイデオロギー的な観点から書かれたことが多かったので、そのユニークさが際だつ。
最も興味深かったのは、「中国はひとつ」というイデオロギーの起源が、この本を読むことでよく分かることだ。
(「清の領域主権」 p.299)
上記の「清の領域主権」には「乾隆帝の遺産であるチベット、モンゴルを含む版図を、近代国家の枠組みで認識しはじめた」と書かれている。これがまさに「中国はひとつ」というイデオロギーの起源なのだ。
伝統的東アジア世界は、上の図で示されるような「華夷秩序」で保たれていた。明朝は漢民族の王朝であったので、満州、チベット、モンゴル、ウィグルは夷狄(いてき)と位置づけられた。続く清王朝は、満州族による征服王朝だったので、夷狄である地域も王朝の版図に組み入れられた。ここに至って清朝は、中国史上最大の版図を持つ王朝となった。
清朝を打倒して樹立された「中華民国」(1911~)は、当時の「中国分割」といわれる状況の中で、チベット、モンゴル、ウィグルの放棄を余儀なくされた。だが、清朝が残した史上最大の版図を、中国国民党、中国共産党は今もなお、中国の領土だと主張している。ここに問題がある。この清朝の版図は、伝統的な冊封制度に基づく緩やかな統治によって保たれていた。それは西欧が持ち込んだ「近代国民国家」とは、全く異なる原理の統治システムだった。ところが、中国国民党・共産党は、この事実を無視して、冊封制度に基づく支配・版図=近代国民国家の支配・版図と読み替えてしまった。上記の「乾隆帝の遺産であるチベット、モンゴルを含む版図を、近代国家の枠組みで認識しはじめた」とはこのことを指している。
1947年、蒋介石の国民政府軍は、「二二八事件」で2万人も台湾人を虐殺した。1949年、国共内戦に勝利した中共直属の中国人民解放軍は、チベットを「武力解放」して、ダライ・ラマ政権を崩壊させた。これらの悲劇はどれも、「ひとつの中国」を標榜する漢民族の政治権力によって引き起こされた。
今日、新彊ウィグル、チベット、台湾問題を考えるとき、上記のポイントは極めて重要だ。現在の近代国民国家が形成されて以来、新彊ウィグル、チベット、内モンゴル、台湾をひとつに包括した「中国」など一度もなかったという点だ。かつて故・衛藤瀋吉氏(東大名誉教授)は北京で「中国が歴史上ひとつであったことは一度もない」と語って、中国当局の激怒を買ったことがある。それは、歴史の核心をつく言葉であったからに他ならない。
「中国はひとつ」というイデオロギーが、今や歴史の必然、錦の御旗であるかのようにまかり通っている。それは、何の根拠もないのだということをこの本は教えてくれる。