ハノイからフエへ国内便で約1時間。
古都フエは、レプリカの街だった。1968年1月、南ベトナム全土をおおった「テト(旧正月)」攻勢で、フエ(当時はフランス語読みで「ユエ」と呼ばれていた)は、民族解放戦線の攻撃を受け、米軍との戦闘で市街戦の地獄となった。主な歴史的建造物は破壊された。
特に「グエン朝王朝」の王宮は、米軍の爆撃によってことごとく破壊された。いま、我々が見ることの出来るのは、そのレプリカ(複製)に過ぎない。
たとえレプリカでも、この王宮は一見の価値がある。北京の故宮を模した壮大な建造物群は、租税負担に苦しんだ当時の民衆の姿を想起させる。列強が東南アジア地域を植民地化するさなか、こんな建造物に力を注いでいた「グエン王朝」の無能さを見るにつけ、明治維新の偉大さを痛感する。
19世紀初頭、欧米に対抗する近代国家を建設できなかったことが、その後のベトナムの悲劇を招く原因となった。明治維新の際、例えば薩摩藩がフランスに援軍を頼み、内戦となっていれば、間違いなく日本は西欧列強の植民地となっていただろう。
王宮の遺跡には、多くの白人観光客が見られた。注意して見ると、その多くがフランス人だった。(上掲の写真)ディエン・ビエンフーで敗れ去っても、「インドシナ」はいつまでも彼らの記憶の土地なのだ。多分、彼らの思考には、フランス人が非人道的な植民地支配をしたという、エモーショナルな反省など全くないのだろう。「グエン王朝」がフランスに援助を頼み、その法的要請に基づいて植民地化を推進し、無知蒙昧な現地人を「文明化」しようとしたのだ、と彼らは主張するに違いない。だから、彼らの振る舞いは堂々としたものだ。西欧の植民地支配は、支配を正当化できるように、数々の法的な言い訳を用意してきた。
「大東亜戦争」の勃発による日本軍のインドシナ進駐は、ベトナム人を大いに勇気づけた。フランスの植民地支配を、同じアジア人である日本人がうち破ったのだ。だが「大東亜共栄圏」という日本の構想は、西欧人のような悪辣な植民地支配ではなく、よくも悪くもエモーショナルなものだった。
それ故に、日本人は、フエの王宮に立っても自らのアイデンティティを確認することができない…。自分たちがここでやったことに確信を持てないのだ。人命など鴻毛に等しいこの地にあって、いったんは欧米人を駆逐したという歴史的事実は重要だ。日本人が果たしてきた役割をもっと率直に肯定すべきだろう。
「平和」「世界市民」「国際協力」など、きれいな言葉で飾られた日本の教育では、ベトナムの現実は理解できない。白人による苛烈な植民地支配は、アジアの伝統社会を崩壊させ、多くの人命を虫けらのように奪った。現地人には、ろくな教育・技術も施さず、愚民化政策を採った。多額の国家予算を割いて「台北帝国大学」「京城帝国大学」を作った日本の「植民地政策」とは、全く別のものだ。日本人は、アジアの関わりにおいてもっと確信を持つべきだろう。
フエの廃墟に立つと、「憲法第9条」の恒久平和主義など、空虚な呪文に思えてくる。この呪文を守ろうと、屁理屈を重ねている社民党などの政治家、左翼の歴史教師などは、いちどここを訪れたほうがいい。
フォン川の上流70kmはラオス。彼方に見える山は、もうラオス領なのだ。ベトナムの地図の「ウエスト」(腰回り)部分にあるこの街は、地政学的に見て数々の災いを受ける宿命にある。地続きの大陸がもたらす過酷な宿命、こういったことに我々は無知で鈍感すぎるのではないか。
さて、フォンザン・ホテルに戻り、夜の町に出た。治安はすこぶる良さそうで、夜11時でも不安を感じない。ホテルの近くの「カフェ」でビールを注文。すると、バナナの木に囲まれ、夜空の見える中庭に案内してくれた。さらに、蚊取り線香を炊いてくれ、ナッツやフルーツを出してくれた。客は私たち二人だけ。のんびりとした南国の気分を味わった。フルーツのお代わりまで出してくれ、デジカメで記念写真まで撮ってくれて、支払いは30,000ドン(約300円)。あまりに安いので、同額のチップを出そうとしたが、受け取らない。どうしてもと受け取ってもらい、店を出た。
親友ユージ君は、もっと別の店に行きたそうだったが、私には十分満足のいく「南国の夜」だった。
古都フエは、レプリカの街だった。1968年1月、南ベトナム全土をおおった「テト(旧正月)」攻勢で、フエ(当時はフランス語読みで「ユエ」と呼ばれていた)は、民族解放戦線の攻撃を受け、米軍との戦闘で市街戦の地獄となった。主な歴史的建造物は破壊された。
特に「グエン朝王朝」の王宮は、米軍の爆撃によってことごとく破壊された。いま、我々が見ることの出来るのは、そのレプリカ(複製)に過ぎない。
たとえレプリカでも、この王宮は一見の価値がある。北京の故宮を模した壮大な建造物群は、租税負担に苦しんだ当時の民衆の姿を想起させる。列強が東南アジア地域を植民地化するさなか、こんな建造物に力を注いでいた「グエン王朝」の無能さを見るにつけ、明治維新の偉大さを痛感する。
19世紀初頭、欧米に対抗する近代国家を建設できなかったことが、その後のベトナムの悲劇を招く原因となった。明治維新の際、例えば薩摩藩がフランスに援軍を頼み、内戦となっていれば、間違いなく日本は西欧列強の植民地となっていただろう。
王宮の遺跡には、多くの白人観光客が見られた。注意して見ると、その多くがフランス人だった。(上掲の写真)ディエン・ビエンフーで敗れ去っても、「インドシナ」はいつまでも彼らの記憶の土地なのだ。多分、彼らの思考には、フランス人が非人道的な植民地支配をしたという、エモーショナルな反省など全くないのだろう。「グエン王朝」がフランスに援助を頼み、その法的要請に基づいて植民地化を推進し、無知蒙昧な現地人を「文明化」しようとしたのだ、と彼らは主張するに違いない。だから、彼らの振る舞いは堂々としたものだ。西欧の植民地支配は、支配を正当化できるように、数々の法的な言い訳を用意してきた。
「大東亜戦争」の勃発による日本軍のインドシナ進駐は、ベトナム人を大いに勇気づけた。フランスの植民地支配を、同じアジア人である日本人がうち破ったのだ。だが「大東亜共栄圏」という日本の構想は、西欧人のような悪辣な植民地支配ではなく、よくも悪くもエモーショナルなものだった。
それ故に、日本人は、フエの王宮に立っても自らのアイデンティティを確認することができない…。自分たちがここでやったことに確信を持てないのだ。人命など鴻毛に等しいこの地にあって、いったんは欧米人を駆逐したという歴史的事実は重要だ。日本人が果たしてきた役割をもっと率直に肯定すべきだろう。
「平和」「世界市民」「国際協力」など、きれいな言葉で飾られた日本の教育では、ベトナムの現実は理解できない。白人による苛烈な植民地支配は、アジアの伝統社会を崩壊させ、多くの人命を虫けらのように奪った。現地人には、ろくな教育・技術も施さず、愚民化政策を採った。多額の国家予算を割いて「台北帝国大学」「京城帝国大学」を作った日本の「植民地政策」とは、全く別のものだ。日本人は、アジアの関わりにおいてもっと確信を持つべきだろう。
フエの廃墟に立つと、「憲法第9条」の恒久平和主義など、空虚な呪文に思えてくる。この呪文を守ろうと、屁理屈を重ねている社民党などの政治家、左翼の歴史教師などは、いちどここを訪れたほうがいい。
フォン川の上流70kmはラオス。彼方に見える山は、もうラオス領なのだ。ベトナムの地図の「ウエスト」(腰回り)部分にあるこの街は、地政学的に見て数々の災いを受ける宿命にある。地続きの大陸がもたらす過酷な宿命、こういったことに我々は無知で鈍感すぎるのではないか。
さて、フォンザン・ホテルに戻り、夜の町に出た。治安はすこぶる良さそうで、夜11時でも不安を感じない。ホテルの近くの「カフェ」でビールを注文。すると、バナナの木に囲まれ、夜空の見える中庭に案内してくれた。さらに、蚊取り線香を炊いてくれ、ナッツやフルーツを出してくれた。客は私たち二人だけ。のんびりとした南国の気分を味わった。フルーツのお代わりまで出してくれ、デジカメで記念写真まで撮ってくれて、支払いは30,000ドン(約300円)。あまりに安いので、同額のチップを出そうとしたが、受け取らない。どうしてもと受け取ってもらい、店を出た。
親友ユージ君は、もっと別の店に行きたそうだったが、私には十分満足のいく「南国の夜」だった。
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中部のベトナム人は親切で易しいらしいです。
僕も、ガイドさんにチップを渡そうとしたら「いらない」と。なんとか渡しました。
それに比べ南部、釣りは返さないわ・物売りはうるさいわで困りました。
中部のガイドさんはホーチミン市は治安が悪いから行かない方がいいですよと言われました。
で、南部でバーのホステスに英語で中部は好きか?と尋ねたら「NO!」なにやら、古臭い貧しいと言ってました。
同じ国でけなしあう。旅ならではの醍醐味というか。
年末に、サイゴン・フエ・ハノイと
南北縦断してきます。
ベトナムは奥が深いです。