澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

プーチンと「ゾルゲ事件」、そして朝日新聞

2022年06月09日 11時26分03秒 | 歴史

 先日、TBS「報道特集」が「プーチンとスターリン」を特集した。その中で、プーチンが職業としてスパイを志したきっかけが、映画「スパイ・ゾルゲ / 真珠湾前夜」(日仏合作 1960年)を見たことだという。日本では、忘却の歴史の「ゾルゲ事件」だが、実は、日米戦争という決断に大きな影響を与えた、国家の命運を左右する一大事件だった。Wikipediaでは、次のように説明されている。

1936年9月から、リヒャルト・ゾルゲは日本やドイツの動きを探るためにドイツの新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』の東京特派員かつナチス党員という形で日本に赴き、東京の駐日ドイツ大使館に出入りしていた。 当時日本におけるドイツ人社会で、ゾルゲは日本通のナチス党員として知られるようになっていた。彼の記者の活動の裏側には、香港を通じてモスクワとの接触を確立する秘密の使命を持っていた。

ゾルゲは無線技士のマックス・クラウゼン、特派員のブラノフスキー[5]、画家の宮城与徳、内閣嘱託の尾崎秀実らをメンバーとする諜報組織を編成し、政治や軍事の情報を無線やマイクロフィルムでモスクワに送っていた。陸軍の防諜部長・藤森大佐は、怪しい電波発信や、クラウゼンがタクシーに忘れた秘密書類の存在から、ドイツ大使館への監視を強化する。

桜井男爵の夫人・ユキは藤森から、ドイツ大使館に行く際に関係者を内偵する依頼を受け、ゾルゲに会う。ユキはスパイ活動の現場を押さえるための船上パーティにゾルゲらを呼んだが、ゾルゲは裏をかいて近くの小舟に乗った漁師の仲間に無線を発信させ、検挙は失敗に終わる。ユキは内偵活動から手を引き、ゾルゲと交際するも、憲兵隊に拘束された。独ソ開戦や、日本の対ソ攻撃がないことをゾルゲらはモスクワに通報する。だが、検挙された宮城が自供したことでゾルゲらは逮捕された。藤森は拘置所のゾルゲの元を訪れ、日本が真珠湾攻撃に成功したと告げる

 
いま歴史を顧みれば、ソ連=コミンテルンのスパイであるゾルゲは、日本政府中枢部にまで入り込み、「南進」政策を決断させ、日米開戦に至らしめるという謀略を図ったことは明らかだ。だが、戦後になっても、ゾルゲ事件の共犯者として死刑に処せられた尾崎秀実を擁護し英雄視する風潮が強かった。プーチンが見た「スパイ・ゾルゲ」は1960年という米ソ対立の真っただ中に作られた映画であったから、間違いなく左翼的(親ソ的)感情が横溢していただろう。少年プーチンは、祖国・ソ連の偉大さと、謀略活動の重要性を学び取ったに違いない。
 一方、1970年代の日本では、尾崎秀樹(ほつき)という文芸評論家が尾崎秀実擁護の論陣を張っていた。この男は、秀実(ほつみ)の異母兄弟で、ゾルゲ事件時、台北帝国大学付属医学専門部に在籍していた。しかし、事件発覚によって台北医専を退学処分になる。秀樹は義兄である秀実を「帝国主義と戦った英雄」として描きたかったのだろう。それが彼の挫折した人生に対する「報復」の感情でもあったろう。もし、ソ連邦崩壊後に公開されたゾルゲ事件に関する外交文書を秀樹が見ることができたら、彼は何と言ったのだろうか。

 周知のとおり、尾崎秀実は「朝日新聞」の有名な記者だった。近衛内閣の内閣嘱託だったのだから、現在だったら、宮家邦彦や藤井聡、高橋洋一といった人たちだ。政府の意思決定に深く関与する専門家という位置づけだ。だが、尾崎の心の祖国は、日本ではなく、ソ連=コミンテルンだった。尾崎、ゾルゲから日本の「南進」(欧州戦線で手いっぱいの欧米諸国の東南アジア植民地に「進駐」しそれを「解放」するという政策)を知ったソ連政府は、日独両国による挟み撃ちの悪夢から逃れ、満洲国国境に対峙していたソ連軍の戦力を大幅に欧州戦線に投入することができた。

 自社の著名記者が敵国のスパイだったという事実を、「朝日新聞」はどう釈明したのか。「従軍慰安婦誤報問題」を言い逃れようとした「朝日」のドタバタ劇を見ていると、戦前も今も、本質は変わっていないのではないか。

 つまり、プーチンは「スパイ・ゾルゲ」で覚醒したのに対し、日本では多くの若者が「朝日新聞」を読み、自虐史観を植え付けられてきたということか。上念司ではないが、私も「朝日新聞縮小団」に加わろうかと思うほどだ。

 

 



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