澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

衛藤瀋吉氏が死去

2007年12月18日 12時05分13秒 | 社会

元東大教授・衛藤瀋吉氏(中国政治外交史)が亡くなった。84歳。戦争、学徒出陣を経験した世代が次々と去ってゆく…。

この人の言動はいつも刺激的だった。

「東アジア国際関係史」という講義では「立教大学の野村浩一君は漢文があまりできない」と言うように、しばしば同僚学者の批判をした。京都大学の矢野暢教授(当時)※に対しては、書評に「ハンサムな彼には…私など敵わない」というような書き方をしたので、これは何のことだろうと思った。その後、矢野教授はパワー・セクハラの先駆者として京大を追われ、異国で寂しく客死した。矢野氏の女性問題を暗示するように、こういう表現を使ったのだなと知った。
 (※ 余談だが、矢野暢教授は、クリームシチューの有田哲平の叔父だった。)

TVの「朝まで生テレビ」に出演した時には、女性タレントの連ほう(現・民主党議員)が「日本では大学院に行っても受け入れてくれる企業がない」という発言をしたのに対し、「学問は結果を求めてするものではない」と一喝した。

著書「日本の進路」の前書きに書かれていることだが、衛藤氏は千葉医大(現・千葉大学医学部)を受験したが、もっと世の中に役立つことをしたいと考え、白紙答案を出したという。東大法学部を志したのはそのためなのだそうだ。子息の衛藤光氏が医師と思われるのも、こういう父親の影響を受けているに違いない。

70年代には、中国高官の前で「蒋介石もまた愛国者であったと言えるかも知れない」と発言して、中国側の激怒を買った。「中華愛国主義」を唱える現在の中国を見通したかのような発言だった。
東大を退官して青山学院大学教授になったときは、青学教授達が行う「学内政治」に呆れて苦言を呈したこともあった。「もっと学問に専念せよ」と。
その後、亜細亜大学学長となって、あの「一芸入試」を実施した。「冒険家」の野口健などは、これで有名になった一人だ。

ちなみに、衛藤瀋吉氏の父親は、旧満州国の奉天(瀋陽)図書館長だった。「瀋吉」という名前の由来でもある。

一見、傲岸不遜でイヤなタイプに見える人だったが、終始一貫したものを持っている人でもあった。
こういう世代が次々と去っていく…。



南京事件から70年~筑紫哲也ニュース23の報道姿勢

2007年12月18日 00時29分08秒 | マスメディア
「筑紫哲也ニュース23」が「南京事件から70年~元日本兵が見た”あの日”」という特集を放送した。
三谷さんという元兵士が、南京事件の生き証人として、南京に行き中国人学生の前で”謝罪”するまでのプロセスを描いている。

もちろん、私も虐殺が全くなかったなどとは思わないが、今この時期にこういう番組を流すのは、どういう意図なのだろうか。それとともに、三谷さんという人を担ぎ出した”市民活動家”という存在が気になるのだ。
三谷さんは中国人の前で「日本帝国主義の侵略兵士として事件を目撃した」と語っていた。こういう表現自体が、その証言の信憑性を疑わせるものなのだが、本人は全く気付いていない。すでに「市民活動家」のイデオロギーに取り込まれているかのようだ。

約30年前、私は南京を訪れたことがある。「30万人虐殺」という歴史の墓標を背負ったかのような気持ちだったが、当時の中国側は、現在のような対応ではなく、日本帝国主義と日本人民を峻別するという立場だったので、ふつうの日本人としては”救い”のようなものがあった。

現在、中国の立場は「中華愛国主義」というべきものだ。一般国民には「小日本」などたいしたことはない、という宣伝を繰り返している。
こういう中国の立場を日本側から支援・応援するというのが、この筑紫哲也の番組の目的ではないのか。番組の最後には、申し訳程度に「30万人虐殺には疑問の声もある」と触れていた。
そんな姑息なことをするよりも、市民活動家という人の詳しい素性を教えてほしいものだ。実は、その人が「市民活動」を自称する「反日プロ活動家」であれば、今回の特集自体の前提そのものに疑問符がつくのだから…。