エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

日新館 天文台跡

2021-01-07 | 街中散歩

昨年、日本天文学会が、会津若松市の史跡「日新館天文台跡」を日本天文遺産に認定した。

天文関連の遺産認定第1号となった。

近くを通りかかったので、あらためて眺めてみた。

 

【藩校唯一の遺構】日新館天文台跡       

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【ネットの解説】  かつてこの場所にあった藩校・日新館の天文台の跡。日新館では選択制の授業の中に天文学を学ぶ授業がありました。会津では藩祖である保科正之が渋川春海に暦作りを命じたこともあり、天文学が盛んなところでした。
会津藩では冬至の日に次の年の天候を読んで藩に提出するのが通例で、日新館の天文を教える師範や諏訪神社の神官がそれを担っていました。そのために日新館には天文台が備わっていました。天文台がある藩校というのは、全国でもかなり珍しいようです。

(参)(毎日新聞  2019年3月15日付) 
     日本天文学会は13日、会津若松市の史跡「日新館天文台跡」を日本天文遺産に認定したと発表した。天文台跡は江戸時代に会津藩校・日新館内に造られた国内で唯一現存する天文関連の遺構で、同遺産認定第1号となる。
 天文台は、日新館が完成した1803年に建造。文献によると、基底部は約22メートル四方、石を積み上げた台上部は約10メートル四方、高さ約6・4メートルで、当時は「観台」と呼ばれていた。観測状況は不明な部分が多いものの、星の観察や暦を研究する場として使われていたという。
 会津藩は薩摩や水戸両藩などと並び、藩校に天文台があった数少ない藩。日新館天文台跡は大正時代に北側半分が壊されたとはいえ、現在は明治時代以前の天文台が全てなくなっていることから、往時の姿を残す貴重な遺構として評価された。

  (参)会津若松市公式サイト 八重と会津博     
    日本トップの実力・会津藩校日新館  http://yae-sakura.jp/aizuhaku/column02
    

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この歳になって、ふるさとの歴史をもっと学ばねばと思っている。


雪の飯盛山 

2020-12-17 | 街中散歩

今日も雪降りで孫の送り、しばらくは日課となりそうだ。

コロナ禍で、自粛、自粛で体がなまってしまう。少しでも歩こうと思っている。

雪雲の間に青空が見え始めた。近間の飯盛山へ散歩。

いつものコースで、妙国寺経由、洞門、さざえ堂、白虎隊士の墓参り、帰りに書店に立ち寄る。

行きは時折吹雪いてさすがに寒かった。

スノー帽、マスク、アノラックでカメラを防備しながら、長靴の足元に気を付け歩いた。

途中、晴れ上がった雪道を、小一時間で帰宅。万歩計表示 6589歩。

 妙国寺 白虎隊士自刃仮埋葬地

 

厳島神社 白虎隊引き上げの洞門

    さざえ堂

お城を望む 

 白虎隊十九士の墓

  弔辞の歌碑 

戊辰戦争で自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し第9代藩主松平容保公の詠んだ  

         幾人の涙は石に注ぐとも その名は世々に朽ちじとぞ思う
                                        

 季節を問わず、幾度となく訪れている飯盛山、会津の先人を思い浮かべないときはない。

春になったらまた来よう。。
 

(参)拙ブログ いつも同じ散歩道
「秋の飯盛山」2014-11-03 | 街中散歩
       https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/92018bc0b219dcde38fffb5a64459530
「会津いにしえ夢街道」2012-10-27 | 街中散歩     
   https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/c4da0ddacef19b48277ea3359368215b
「飯盛山界隈へ 孫と散歩」2010-04-02 | 街中散歩 
        https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/312551618abd55bb4b17bde16079cc4f
          


鶴ヶ城の風物詩 雪吊り

2020-11-29 | 街中散歩

10日ほど前に御薬園で雪吊り作業が始まったニュースを聞いた。

3日ほど前に、お城でも始まったか様子を見に行ったが、まだ、本丸の雪吊り作業はまだだった。

昨日の新聞に、お城でも雪吊り作業が始まったとの報道があった。

『雪吊り』は、金沢兼六園が有名だが、鶴ヶ城も、なくてはならない冬の風物詩で、いつも楽しみにしている。

 すっかり落葉 

お濠には、カルガモ、コガモ、マガモ、アオサギ、カワウなどを見かけた。

カルガモコガモ

マガモ  アオサギ カワウ     

松の木に沿い支柱を立て、頂点から数十本の縄を下げて枝にくくりつけられる。

いつも本丸の多行松の素晴らしさを見ているが、雪の中の雪吊りされた松は一段と素晴らしい。

本丸の「茶室麟閣」前の十数本ほどの松の木がすでに雪吊りされていた。

    

    

  ギンナンたわわ

 

今日は平日で観光客はわずかで、約1時間、雪吊りと天守閣を写真に撮りながら一回りした。

城内では、修学旅行の小学生が忙しく飛びっていた。

尋ねると、二本松市からの生徒で、クイズ形式で各ポイントを回っていると元気に教えてくれた。

 

帰りがけに、曇り空から日が差し始めた。

ほどなく訪れる雪の季節には、また、雪吊りの多行松とお城の雪景色を撮ってみたいと思っている。

(2020.11.27)


紅葉を愛でる

2017-11-12 | 街中散歩

色褪せ始めた紅葉、黄葉を鑑賞した。

午前中は、河東の落葉松の黄葉、磐梯慧日寺資料館の赤いモミジを眺めた。

イロハモミジ  メタセコイヤ

 

飯豊連峰 ツルウメモドキ

 カラマツ ガマズミ

 エゾタンポポ 

 ヤマトシジミ アキアカネ

 会津慈母観音 会津村

    何の実 ?

 

午後は、ゆうくんをスイミングに送り、ばあちゃんが見学中の1時間あまり晩秋のお城を訪ねた。

どこも、静寂に一人幸せのひとときを過ごすことができた。

  

  

 

  お堀のカルガモ

 

 遠くに磐梯  

  

  多行松

 

 

2017.11.10


鶴ヶ城 春の気配 

2015-02-16 | 街中散歩

 

昨日の吹雪も去り、穏やかな1日だった。 屋根の雪が大分溶けた。雪止めの屋根はまだまだ厚い雪。

市役所に書類を出しがてら、博物館駐車場に車を止めてお城を一回りした。

【裁判所前入り口】

   県立博物館 

お堀はどこも完全結氷、鴨たちはどこに飛んでいったのだろうか。この時期、期待した野鳥にも会えなかった。

  

お城二の丸入り口                               お堀は結氷し雪が積もっていた                   廊下橋

 

絵ろうそくまつりの後、お城本丸は人っ子一人いなかった。

青空に天守閣がくっきりりりしく聳えていた。

  

北出丸から                                   いつも雪吊りの多行松が美しい。 

  

西出丸から

 

  荒城の月 歌碑

麟閣 

西出丸から豊岡へ抜けるお堀道は雪で通れなかった。

帰りに水泳場前のドイツトウヒの実を見に寄った。

すっかり春めいたお城を巡り、久々に清々しい気分を満喫できた。


一ヶ月ぶりの磐梯

2015-01-14 | 街中散歩

 

   学鳳中/高校グランド

   久々の快晴、磐梯の雄姿を望んだ。  
   毎日窓を開けては待ち望んでいた磐梯が、一ヶ月ぶりに顔を見せてくれた。

 はがきサイズのプリンター用紙が切れたので歩いて買いに出た。
 車道の雪は溶けたが、歩道は未だ厚い氷の状態、気をつけながら歩いた。
  しばらく歩くと汗ばんで来た。スノー帽、手袋を脱いだ。長靴が重い。
 街中から磐梯山を楽しみながら歩いた。

扇町交差点 

磐越西線高架橋の橋桁には、あまり注意して見なかったが、身知らず柿、白虎隊、お城などの陶板がデザインされていた。

  → 

 

 横道はまだまだ  

  午後2時 2Fから

 快晴も長続きせず、午後には雲が出始め下り坂、明日はまた雪降りになりそうだ。


会津大学の紅葉

2014-11-05 | 街中散歩

 

  今日の散歩は、往復約5~6km程か、久々に会津大学の紅葉を楽しんだ。

  

 しばらくぶりに懐かしいラウンジで本でも開こうと、先ず図書館へ入った。

 小さな植え込みの見えるラウンジ前の広かったスペースには机が配され、少し窮屈になっていた。

 新聞を手に座ろうとしたとき、司書の方か、「カードはおありですか?」と利用証の提示を求められた。「ちょっと新聞を・・・」と言ったが、駄目なんですと。

 何年も前にはずっと利用証を作っていたが、本の貸し借りの時だけ必要と思っていたのが浅はかだった。

 そう言う決まりだから仕方ない。思えば、訳のわからない人が入ったのでは管理上問題はあるだろう。済みませんといって外へ出た。

 少しがっかりしていつものビオトープへ向かった。

 目的の一つポプラ並木が青空に天高く聳えていた。グランド脇の木々があまりに美しかった。

      

 クヌギの木の下で大きなドングリを拾った。黄色く色づいた葉にアキアカネが止まった。ペアも近づいてくれた。

 手を近づけると指先に止まってくれた。 しばしの輝くいのちを見つめた。

 キタテハも顔を出ししばらく追いかけっこ。 こんな陽はもう無いような気がして、一人降り積む落葉に腰を下ろした。

  


 美しい晩秋のグランドを楽しんで帰路についた。

 近道の大塚山墓地を縫って街路樹のハナミズキの赤い実がきれいだった。葉がいっぱい落ちている木ほど実がたくさんついているように感じた。

 青空に鮮やかな赤い実はまるで作り物のように(逆か?)洗練されて見えた。

 

 錦秋の秋に通りかかった大塚山墓地の墓碑の一つに目が止まった。

 統一された大きさの大理石に、李白の望郷の詩の一節が彫られてあった。
  

  「頭を挙げて山月を望み                        
   頭を低れて故郷を思う
            李白」        

                                                     

   裏にはご夫婦のお名前が刻されていた。

 今、故郷会津を離れ、他所で元気に老後を送って居られるご夫婦を想像した。

 どんなお人なのだろうか。墓石にどんな思いで漢詩を刻んだのだろうか。しばし、思いを巡らせた。

 いよいよ秋の深まりが感じられた散歩だった。(2014.11.5)

秋の飯盛山

2014-11-03 | 街中散歩

  

 先月末、久々に街中散歩に出た。飯盛山から滝沢浄水場を廻るコース、よく雪の季節に巡るコースだ。

飯盛山へも、秋は久々だった。神社にお参りし洞門を見る。

  

さざえ堂から白虎隊の墓所へ、眼下に若松市内、お城も見渡せた。

 

  

 修学旅行で仙台からの小学生が、また、聞いてみたら、神奈川の秦野からと団体客、結構大勢の観光客が来ていた。


 白虎隊士のお墓の裏の窪地を悠然と舞うオオムラサキの雄姿をながめていた。もう5,60年前の小学生の頃が思い出された。

窪地の脇道を下りてみた。 降り口に立派な石碑がいくつも建っていた。

小さな石には、白虎隊と、大きな碑の刻まれた文字を追うと、第3連隊と読める。古いと思ったが戦後の慰霊碑なのだろうか。知りたい思いが湧いて、しばらく文字を指でたどった。いつか判読してみたい。

 
 
 身知らず柿がたわわに実る畑道を石部桜へ向かった。「昔の光、今いずこ」だが、すでの過半の葉を落とした石部桜の見事な幹や枝を眺めた。

  石部桜 向こうは飯盛山


 清々しい散歩、少し歩いてみようと思っているが3日坊主に終わりそうだ。


司馬遼太郎文学碑 

2014-02-23 | 街中散歩

          
        
 チラチラ雪も舞うがときどき陽も差す穏やかな日となった。最高気温も2℃まで上がったらしい。

 そんな穏やかさに誘われて散歩がてらにお城へ行った。

 目的は、2つ。昨年秋に建てられた司馬遼太郎文学碑と、野鳥観察がてらお墓へ。

 先日も絵ろうそくまつりでお城へ行ったが、初めて碑の前に立った。

 碑文は噴火の際の磐梯石の表と裏に埋め込まれてた銅板に刻まれていた。

 場所は、三の丸、博物館入り口の秋月悌次郎歌碑の近くで、同じく昨年建てられた山本八重像の横だ。

 碑文には、随筆「歴史を紀行する」と、小説「王城の護衛者」からの抜粋文で、なるほど、本当の会津を表現する司馬さんの心だと思った。 

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 《会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。》(「歴史を紀行する」)

 《容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声はまたたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽(おお)って泣いた。
「君臣、相擁し、声を放って哭(な)けり」
 と、この情景を、劇的な表現で会津の古記録は語っている》(「王城の護衛者」)
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  【司馬遼太郎文学碑】                       

いずれもときどき手に取っている著書だが、あらためて司馬さんからいろいろ教えられていることに感謝した。

入院の度に持参したのは、きまって「街道をゆく」シリーズで、歴史を思い、人間を思い、生き方を思った。

遠い昔から積み重ねられたそれぞれの土地の歴史をたどり、知らないことを知る。その都度、実に楽しい旅となった。

碑を撮り、続いて八重像と悌次郎歌碑を写した。 近くに土井晩翠先生の像もあった。
         

 【八重の像】                     【秋月悌次郎 歌碑】                       【土井晩翠先生の像】 

 【拙ブログ『神のような人 秋月悌次郎』2010-04-15 | 文芸
http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/0d6cbe95f4879840ef2d14b66c011010

  城の南口にあるお墓へ参った。膝上の雪を固めながら進んで、父に母に元気を報告した。 

  お城のお堀はすべて全面結氷、いつも見るサギやカモの姿は見あたらなかった。
 野鳥も少なく、カラス以外はカシラダカに会っただけだった。

  

 お城はいつも凛としてそびえていた。雪吊りの多行松が美しかった。 

 

    

  

        【荒城の月歌碑】                        【鉄門(くろがねもん)】

  今度はお彼岸にみんなで訪ねることだろう。待ちわびる本当の春も近い。

 観光客がちらほら、今日は芦ノ牧温泉か?東山だろうか?

 

 


「友の会」のウオーキング

2013-05-27 | 街中散歩

 

昨日は友の会(町内の老人クラブ)で、初夏の一日を滝沢の白糸の滝までのウオ-キングを楽しんだ。
85歳を最年長に平均77歳12名の参加だった。

 
10時会館出発、妙国寺、滝沢本陣から不動川の上流にある白糸神社を目指した。約4キロの短い行程、和やかに話をしながら快適に歩いた。
山道に入ると、ウスバシロチョウやツマキチョウが舞い、道ばたにはオドリコソウやシャガ、ヤマツツジがきれいに咲いていた。

  

紫の花は、ラショウモンカズラだろうか。下唇の中央裂片に長い白い毛が目立つ。クルマバソウが清楚に咲いていた。

    

 コミスジ、ダイミョウセセリ、ニホンカワトンボを初見した。

   

途中、子どものカモシカに遭遇い、一同静かに見守った。こんな街に近いところで会えるとは思わなかった。

     

赤い旗が並ぶ参道が不動川沿いの林の中を続いている。涼しい滝の境内で、心洗われるのんびりしたひとときを過ごした。

白糸の滝は滝沢不動滝と言われ、約25mの高さから白糸が垂れたように見え、心地よい涼しさだった。

  
  

白糸神社に並んで、川をはさんで北向稲荷神社、不動尊堂、観世音菩薩堂が建っている。
 観世音菩薩堂は会津三十三観音の第十八番札所だ。

【ご詠歌】  ”滝沢(たき ざわ)の 落(お)ちて流(なが)るる滝(たき)の水(みず)   かかる末々(すえずえ) 弥勒(みろく)なるらん”

来た道をのんびり下り、丁度お昼に町内会館へ到着。留守部隊の準備してくださったお昼は、おにぎりとお漬け物、味噌汁、おいしくいただいた。

帰宅後、小生、最年少、庶務として「ウオーキングの記念写真」をA4サイズ1枚に編集し、コピーして参加者宅へ配って歩いた。

 

先輩たちの後ろ姿を見ながら、街中を歩き、林道を歩き、神社にお参りした。

このようにして歳月は過ぎて行く。

 

 

 


 


満開のお城へ

2013-04-27 | 街中散歩

今日は萌ちゃんの遠足、1年の時は短大グランドの桜、2年生では石部桜へ、今年は鶴ヶ城まで歩いた。

一昨年も武琉くんをお城本丸で待って、遠くから望遠で撮った。そのときの城跡のゴイサギやカタクリなどが頭に浮かび出かけた。

しばらくは陽も差していたが、時々雨が落ちてあいにくの天気だった。

自転車の街中散歩だ。かつての勤務先までの懐かしい道をたどった。

蚕養神社を行仁町を南へ、行仁小学校を下がって、今はない魚や野菜のお店イタガキの前を突き当たる。

懐かしい八角神社にお参り。ここは槻木町、じいちゃんの葬儀の日のことや、神社裏のブランコに乗った小学生の頃の記憶がよみがえってきた。

 

いつかトヨ伯母を見舞った穴澤病院は近代的な建物に変わっていた。そういえば牡蠣にあたって点滴してもらった病院だ。

かつての勤務校での一番の思い出は、粉石けん工場の建設、竣工の際に植えたしだれ桜がきれいに咲いていた。

よく生徒と自然観察に出かけた若松2中前の野原には、大熊町からの避難仮設住宅が建っていた。

今は若松2中の校門になっているレンガの門も懐かしい。明治41年6月に、歩兵65連隊1200名が入営したという。

北出丸通り、西郷頼母邸跡からお城がよく見えた。

 

武徳殿のある北出丸から椿坂は満開のサクラがきれいだった。

  

 

おなじみの緑色の小学生のジャージの一群が見えた。萌花ちゃんには分からないように遠くから眺めた。

 

八重の桜ブームで観光客が多い。お城や茶室・麟閣の前で、何組かの結婚式の記念撮影風景を見た。ほほえましいカップルに「お幸せに!」とこころの中でつぶやいた。

 

 

  

本丸の東の一角に、信州高遠から贈られたタカトウヒガンザクラが咲いていた。会津藩主・保科正之は信州高遠からおいでになった。

高遠町が町村合併でなくなる記念に植えられたとのこと。

 廊下橋をわたりテニスコート裏がゴイサギの集合場所。例年のように眠っているゴイサギを遠くから写した。

土手のカタクリやキクザキイチゲの群落も盛を過ぎていた。サクラと言いカタクリと言い、厳しかったた冬の寒さを思う、例年より早く咲いたことが不思議だ。

どの郭にも、戊辰戦争の悲劇を見つめていたであろう見事な大木が立っている。これから咲く紅いつぼみのサクラは何という種類だろう。

堀の水面いっぱいに、散りゆくサクラの花びらが漂い、カモが浮かんでいた。

         ゴイサギ カケス

ポツリポツリ降り出した。自転車で我が家へ着く頃は雷も鳴り始めた。

帰ってきた萌ちゃんとお話を聞いたら、お昼のお弁当は急きょ体育館で食べたと言う。少しかわいそうなお天気でした。 

目的はサクラのお城の撮影にあったが、ついでながらの遠くからの遠足風景をながめた。

また、それ以上に、はからずも会工界隈の景色を偲ぶことができて、懐かしさに大切なこころを取り戻した思いがした。

                                                              (3013.4.26)

日記@BlogRanking


秋の鶴ヶ城

2012-11-13 | 街中散歩

 

所用があり、街中へ出かけた。近くに駐車場のない路地の店なので、自転車で出かけた。

大町通りの先、野口英世青春通り(英世が青春時代を過ごした界隈)が整備され、昔公民館に建っていた英世の忍耐の像が移されていた。

野口英世青春広場の像の台座には、本人の筆跡の、英世が恩師にあてた手紙文が彫られてあった。

  

 

正月の十日市で行くくらいの市の中心街、5分で用事を済ませ店を後に、お城へ向かった。

風もなく、久しぶりの穏やかな秋の一日となった。

まず、お城の裏の両親の眠る墓にお参りした。ひときはモミジが美しかった。

我が家の広い墓地は、このモミジや杉の葉など落ち葉がどっさりで、春先には雪解けを待っての掃除が一大事だ。

  

原発の風評で観光客も減っているようだが、晩秋のお城はまあまあの人出だった。

 

西出丸から南門へのお堀

 

 

 二の丸出口

本丸では、先の地震で崩れた石垣の復元工事と、御三階移築に伴う遺構の調査が行われていた。

 

 

 

「荒城の月」の碑                                         廊下橋の彼方に磐梯山                          ↑ 

 

カワウが止まる南のお堀                                     干飯櫓

あちこちに、 「八重のふるさと 福島県」の旗がひらめいていた。また、苔むした石垣に、色づいたツタが感慨深く目に映った。

  

赤瓦のお城を描いた。余白に「荒城の月」の歌詞の一節を添えた。

 

天上影は 変わらねど
栄枯は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚
ああ荒城の夜半の月

 

自転車で約10㎞、ゆっくり走ったがいくらか疲れた。多少の運動不足解消にはなったか。

日記@BlogRanking

 

 

 


会津いにしえ夢街道

2012-10-27 | 街中散歩

無風快晴、こんな秋らしい日はなかった。

お昼を済ませて、近くのいにしえ夢街道を訪ねた。

午後1時に出発、飯盛山から愛宕神社そして天寧寺に至る山道を歩いた。

3時間の道のり、約5㎞といったところか。久々の秋のウォーキングだった。

飯盛山へは春先に散歩した。よく歩く道だったが、愛宕山も天寧寺も5,6年ぶりだった。

      

 

秋の観光シーズンで、結構訪れていた。小学生は、いわき植田からだった。

我が輩としてはかつて単身で暮らした地、小学校も知っていて懐かしい思いだった。

線香の煙が絶えない、自刃した白虎隊士19士の墓をお参りした。

 かたわらに松平容保の歌碑「幾人の涙は石にそそぐともその名は世に朽ちじとぞ思ふ」を指でなぞった。

  

  【白虎隊の忠義に感動したローマ市より寄贈の塔】

   

 城を望む白虎隊士の自陣の地の脇に、はからずもドイツ人ハイゼ親子のお墓を知った。

 【 リヒャルドハイゼ先生は明治二年キール市に生まる同三十五年東京高等商業学校獨逸語教師に聘せられ學習院及慶應義塾に教職を兼ね子弟の薫陶に盡瘁すること二十有餘年功に依り勲三等旭日章を賜ふ大正十三年歸国滿洲事變に際し反日論起るや壽府に在りゾルフ前駐日大使と共に筆陣を張り之か是正に努む晩年大連に在住合春偶北京に游び病を得て長逝す先生人格高雅國士の風あり夙に白虎隊の誠忠に感銘之を筆舌に載せて汎く世に紹介し自亦飯盛山に眠らんことを遺言すここに敬慕する友人門弟約四百名若松市當局の協力を得て此地を卜し先生の念願に應ふ     昭和十五年十一月十七日 ハイゼ先生記念事業會   (碑文のまま)  】

このまま西へ行けると思いしが、一度下まで降りて、大龍寺からまた山へ入った。

大龍寺は山本八重の先祖が眠る 山本家の菩提寺で、これまで無かった立て看板が山本家墓所まで案内してくれた。

大龍寺境内 本堂前のウメモドキの実が美しかった。                    【愛宕山神社】

 

  

近藤勇の墓所にお参りした。右には土方歳三の戒名が書かれた慰霊塔が建っている。

 墓所の登り口に、近藤勇 辞世が刻まれた碑が建っている。

孤軍援絶作俘囚
顧念君恩涙更流 
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言
取義捨生吾所尊 
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

 

孤軍たすけ絶えて俘囚となる。
顧みて君恩を思えば涙さらに流る 。
一片の丹衷よく節に殉ず。
雎陽(すいよう)千古これ吾がともがしら。
他にな びき今日また何をか言わん。
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。
快 く受けん電光三尺の剣。
只まさに一死をもって君恩に報いん。

 色づいた山道を天寧寺に郡長正の墓所を訪ねた。天寧寺境内に着くと、郡家の墓所への登り口の角に

昨年亡くなった作家・早乙女貢の「会津士魂」の石碑が目に入った。

   

                                                                                             会津士魂会によって建立された観音菩薩像と、萱野権兵衛父子に関する碑文

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《 郡 長正 ~会津武士の子として~   ネット 「あいづわかまつ 歴史の道」より  》

郡 長正は会津藩家老・萱野権兵衛の次男として生まれましたが、父権兵衛が戊辰戦争での会津藩の責任を一身に背負い、明治2年に切腹したことから、家族は萱野姓を名乗ることが出来なくなり、母の姓「郡」を名を名乗っていました。優秀だった長正は14歳の時、選ばれて九州・小笠原藩の育徳館(福岡県豊津町)に留学し、なお一層学問武道精神鍛練に励む毎日を送っていました。ところが育ちざかりの長正には食事がひもじく、故郷の母につい手紙でひもじいことを訴え、会津の干し柿が食べたいと書き送ってしまったのでした。母の返事は「おまえは斗南(となみ:会津藩がとりつぶされて流された青森県下北の地)へ行った人々の苦労を知っていますか。会津の武士の子が食物のことをあれこれ言い柿を送ってくれとは見下げ果てた根性です。再びこのようなことを言ってよこすならおまえは萱野権兵衛の子ではありません。」という厳しいものでした。母からの厳しい返事を読み、会津の武士の子としての心構えを忘れた自分を心から反省した長正だったのです。ところが長正はうっかりとこの母からの叱責の手紙を落としてしまい、日頃敗残の会津藩の子弟らが成績のよいことを妬んでいた地元の同級生に知られてしまいました。「会津の秀才、餓鬼道をゆく」などと散々嘲られる結果となってしまったのです。それから5日後の明治4年5月18日、長正16才の誕生日の日、小笠原藩と会津藩の対抗試合が小笠原藩主の臨席のもと行われ、大将をつとめた長正は5人を破り、劣勢をはねのけ会津武士の意地をみせたのでした。 そして、悲劇は起こりました。皆が長正を誉めたたえる中、一人寮に戻った長正は会津武士の子としての恥ずかしい振る舞いを、腹を切ることで償ったのです。自分を律し、恥ずべきを知る会津武士の精神、「ならぬことはならぬ」の日新館教育を16歳の長正は死をもって実践したのでした。

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 (参)拙ブログ『街中散歩 郡長正の墓』(2007.1.12)) http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/441b58949c6c7b101d43c4c50e00e115

 秋の午後、今の健康で平和な日々を送る幸せを思いながら、会津の戊辰の先人たちの辛い足跡に思いをはせた。(2012.10.26)

 

 

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塔のへつり 大内宿

2012-05-29 | 街中散歩

  9年前、長期入院中に励まし合ったKさんの奥さんが会津を訪ねて来られた。
昨夜猪苗代に宿を取り、今朝10時に妻と若松駅へ出迎えた。

 地元伊勢原市在住のKさんは同じ福島県人、福島市の出身で病室が同じ階で、私より元気だった。

具合の芳しくなかった私の病室をよく訪ねて励ましてくれた。

退院後も、1~3ヶ月の検診に上京した際も、偶然病院でお会いしたことも二度あった。

 その後、数年してKさんの訃報に接した。ことしはKさんの7回忌という。つかの間のだったような気がする。

いまは一人になった奥さんはようやく落ち着き、あちこち旅行を楽しんでいるそうだ。

何時しか妻とはメル友に、ときどきメールでやりとりしている。

市内を案内するつもりでいたら、「塔のへつり」へ行きたいとのこと。意外だった。

下郷までの車の中で、Kさんの病気のこと、孫たちのことなどいろいろな話をした。

運転しながら二人の会話を聞き、入院中の辛かったこと、そして健康で過ごしている今の幸せをつくづく思った。

塔のへつりは、もう30年ぶりくらいになるか。

子供が小さいころ、狭い「へつり」部分でお弁当を広げた覚えがあったが、立派な吊り橋も架かり、その頃とはかなり違っていた。

売店で、その頃求めたナメコの木工の置物を見てとても懐かしかった。

 

  今は川口に住む彼女の帰りの電車が2時過ぎ、少し時間があるので、折角来られたので、近くの大内宿へ案内することにした。

かやぶき屋根の宿場が連なる大通りをゆっくり歩いた。さわやかな五月の風が気持ちよかった。

 

 お昼は名物の一本ネギ蕎麦を楽しく食べた。冷たい汁をネギ一本で食べる。ネギは根元はいいが、食べ進むと辛くなった。

初めての体験だったが、結構食べやすく、おいしかった。おいしい蕎麦を味わうことが出来て、いい思い出になった。

 帰りはコブシラインを本郷へ抜けた。思い出の地で、新しくできた本郷焼きの資料館や陶磁器会館で、窯元の作品を見ることができた。

 駅まで送り、お互いの健康を祈念してお別れした。Kさんの奥さんには、楽しい思い出の旅となったことだろう。

Kさんもご一緒だったらとの思いがわいて切なくなった。

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皆鶴姫の碑

2012-05-24 | 街中散歩

   きのうの不動滝行きは快適だった。今日も自転車で行けるところへと思い出かけたが、日差しが強く暑かった。

これから夏に向かっては、やはり気をつけなければいけない。

  田植えの済んだ広い田園風景、遠くに残雪の飯豊の山並みが美しかった。

 

 源義経と皆鶴姫の悲恋物語を伝える碑「皆鶴姫の碑」を見てきた。

 
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  「義経伝説と会津」(石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」)より  
 源義経が、京都の鞍馬寺に預けられているとき、兵法書を吉岡鬼一法眼が持っていることを知り、見ることを願い出るが許されず、娘の皆鶴姫に近づき、兵法書を写し取ることに成功する。平氏の追っ手が近づいていることを知り、義経は平泉に逃れた。皆鶴は、義経の後を追い、会津に来たが、追っ手により発見され、義経との間にできた帽子丸がとらえられ、沼で溺死。皆鶴は、藤倉の難波沼まで来たが、身を悲観し、沼に身を投じて亡くなった。墓が造られ、難波寺が建てられたが、寺は廃寺となった。この碑は、寛政5年(1793)に会津藩で建てられた。
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 また、皆鶴姫の碑のすぐ南には、3基の板碑「暦応の碑」があった。南北朝時代に造られたもののようだ。

右から、阿弥陀如来を表す「キリク」、観音菩薩を表す「サ」、勢至菩薩を表す「サク」が彫られている。

 

  田の畦のヒメジョオンにウスバシロチョウが吸蜜していた。のどかな田園風景だ。

 

  ときどき、身近な文化財を訪ね郷土の歴史に触れたいと思っている。

 

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