無風快晴、こんな秋らしい日はなかった。
お昼を済ませて、近くのいにしえ夢街道を訪ねた。
午後1時に出発、飯盛山から愛宕神社そして天寧寺に至る山道を歩いた。
3時間の道のり、約5㎞といったところか。久々の秋のウォーキングだった。
飯盛山へは春先に散歩した。よく歩く道だったが、愛宕山も天寧寺も5,6年ぶりだった。
秋の観光シーズンで、結構訪れていた。小学生は、いわき植田からだった。
我が輩としてはかつて単身で暮らした地、小学校も知っていて懐かしい思いだった。
線香の煙が絶えない、自刃した白虎隊士19士の墓をお参りした。
かたわらに松平容保の歌碑「幾人の涙は石にそそぐともその名は世に朽ちじとぞ思ふ」を指でなぞった。
【白虎隊の忠義に感動したローマ市より寄贈の塔】
城を望む白虎隊士の自陣の地の脇に、はからずもドイツ人ハイゼ親子のお墓を知った。
【 リヒャルドハイゼ先生は明治二年キール市に生まる同三十五年東京高等商業学校獨逸語教師に聘せられ學習院及慶應義塾に教職を兼ね子弟の薫陶に盡瘁すること二十有餘年功に依り勲三等旭日章を賜ふ大正十三年歸国滿洲事變に際し反日論起るや壽府に在りゾルフ前駐日大使と共に筆陣を張り之か是正に努む晩年大連に在住合春偶北京に游び病を得て長逝す先生人格高雅國士の風あり夙に白虎隊の誠忠に感銘之を筆舌に載せて汎く世に紹介し自亦飯盛山に眠らんことを遺言すここに敬慕する友人門弟約四百名若松市當局の協力を得て此地を卜し先生の念願に應ふ 昭和十五年十一月十七日 ハイゼ先生記念事業會 (碑文のまま) 】
このまま西へ行けると思いしが、一度下まで降りて、大龍寺からまた山へ入った。
大龍寺は山本八重の先祖が眠る 山本家の菩提寺で、これまで無かった立て看板が山本家墓所まで案内してくれた。
大龍寺境内 本堂前のウメモドキの実が美しかった。 【愛宕山神社】
近藤勇の墓所にお参りした。右には土方歳三の戒名が書かれた慰霊塔が建っている。
墓所の登り口に、近藤勇 辞世が刻まれた碑が建っている。
孤軍援絶作俘囚
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩
孤軍たすけ絶えて俘囚となる。
顧みて君恩を思えば涙さらに流る 。
一片の丹衷よく節に殉ず。
雎陽(すいよう)千古これ吾がともがしら。
他にな びき今日また何をか言わん。
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。
快 く受けん電光三尺の剣。
只まさに一死をもって君恩に報いん。
色づいた山道を天寧寺に郡長正の墓所を訪ねた。天寧寺境内に着くと、郡家の墓所への登り口の角に
昨年亡くなった作家・早乙女貢の「会津士魂」の石碑が目に入った。
会津士魂会によって建立された観音菩薩像と、萱野権兵衛父子に関する碑文
----------------------------------------------------------------------
《 郡 長正 ~会津武士の子として~ ネット 「あいづわかまつ 歴史の道」より 》
郡 長正は会津藩家老・萱野権兵衛の次男として生まれましたが、父権兵衛が戊辰戦争での会津藩の責任を一身に背負い、明治2年に切腹したことから、家族は萱野姓を名乗ることが出来なくなり、母の姓「郡」を名を名乗っていました。優秀だった長正は14歳の時、選ばれて九州・小笠原藩の育徳館(福岡県豊津町)に留学し、なお一層学問武道精神鍛練に励む毎日を送っていました。ところが育ちざかりの長正には食事がひもじく、故郷の母につい手紙でひもじいことを訴え、会津の干し柿が食べたいと書き送ってしまったのでした。母の返事は「おまえは斗南(となみ:会津藩がとりつぶされて流された青森県下北の地)へ行った人々の苦労を知っていますか。会津の武士の子が食物のことをあれこれ言い柿を送ってくれとは見下げ果てた根性です。再びこのようなことを言ってよこすならおまえは萱野権兵衛の子ではありません。」という厳しいものでした。母からの厳しい返事を読み、会津の武士の子としての心構えを忘れた自分を心から反省した長正だったのです。ところが長正はうっかりとこの母からの叱責の手紙を落としてしまい、日頃敗残の会津藩の子弟らが成績のよいことを妬んでいた地元の同級生に知られてしまいました。「会津の秀才、餓鬼道をゆく」などと散々嘲られる結果となってしまったのです。それから5日後の明治4年5月18日、長正16才の誕生日の日、小笠原藩と会津藩の対抗試合が小笠原藩主の臨席のもと行われ、大将をつとめた長正は5人を破り、劣勢をはねのけ会津武士の意地をみせたのでした。 そして、悲劇は起こりました。皆が長正を誉めたたえる中、一人寮に戻った長正は会津武士の子としての恥ずかしい振る舞いを、腹を切ることで償ったのです。自分を律し、恥ずべきを知る会津武士の精神、「ならぬことはならぬ」の日新館教育を16歳の長正は死をもって実践したのでした。
----------------------------------------------------------------------
(参)拙ブログ『街中散歩 郡長正の墓』(2007.1.12)) http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/441b58949c6c7b101d43c4c50e00e115
秋の午後、今の健康で平和な日々を送る幸せを思いながら、会津の戊辰の先人たちの辛い足跡に思いをはせた。(2012.10.26)