エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

『徳一と法相唯識』 出版祝賀会

2012-04-30 | 文芸

 

 お昼から、かつての同僚、白岩孝一氏の出版祝賀会に出席した。

 お酒の入らない、勉強会と言った祝賀会、セレモニー後、昼食会、引き続き講演と質疑があった。

 出席者は30人ほど、会津の各界の名の通った方々が名を連ねて、一介の教師だった自分には何か場違いの席に感じられた。

  併せて、人付き合いが嫌いで社交下手、我が身を痛感させられた。

  今更、性格や生き方を変えるべくもないが、第2の人生を精力的に歩むかつての同僚に敬意を覚え、多少の羨ましさも感じた。

 今回の大作の『徳一と法相唯識』は偶然本屋で手にして、ブログで書かせてもらった。
  http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/e51117b03c435af47999fa69f18a6214    2008-01-03 
  http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/705fe78df104bfa6035b21ac2224f0a1     2011-12-22  

 

 彼は徳一菩薩の開いた湯川村勝常の生まれ、そんな縁で、徳一の顕彰を精力的に進めている。

 近々、3部作となる著作に取り組んでおられる。その意気込みは素晴らしい。

 今後さらにご活躍を祈念したい。本日はおめでとうございます。

 

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ニホンカモシカに遭遇

2012-04-24 | 自然観察

   新聞の桜情報では石部桜が咲き始めたようだ。
 早速、自転車を走らせた。東向きの枝は3分咲きと言ったところ、遠くから、近くから今年の石部桜を写した。

田起こしのトラクターが入り、畠仕事が始まっていた。

 あぜ道を帰りかけると、数十人の観光客が上ってきた。いよいよシーズン到来、最近の桜見物のツアーのようだ。

近くにできた観光客用の駐車場に観光バスが2台止まっていた。

 石部桜

【石部桜】 樹齢600年と推定される県内でも有数の古木である。樹高11メートル・枝張19メートル・胸高幹周囲0.5メートル~
]2.2メートル(計8本)会津五桜のひとつで、開花は4月中旬で満開時の景観はすばらしい。
 この附近は葦名の重臣石部治部大輔(いしべ じぶだゆう)の屋敷跡といわれている。

 午前中の曇り空からお日様が覗いてきた。

午後3時に眼科の検診があったが、思い立ってヒメシロチョウを撮りにでかけることにした。妻におにぎりを握ってもらった。

サンシュウ

 土佐ミズキ

 コブシ咲く

 最近ヒメシロチョウが少なくなっている。毎年春、夏型を写真に撮って安堵している。
 1頭だけ羽化していた。そよ風に弱々しく舞うヒメシロチョウ、なかなか止まらない。
 やっと、はこべの茎に止まった。

  山あいの田んぼの切れるあたりで、ニホンカモシカに遭遇した。

磐梯山の山麓、民家から数百メートルの里山で、特別天然記念物に指定されている珍獣に出会えるとは思ってもいなかった。

一瞬10メートルほどの近距離で顔を見合わせたが、堂々とこちらを見つめ、逃げる気配もなかった。

4,5枚連写したが、生憎2メガのカードは満杯、数枚前の写真を削除して、またシャターを切った。

やがて、森に帰る気配を見ていたら、数メートルの林の中から、こちらを物欲しそうに見つめていた。とてもかわいい顔をしていた。

 昔、裏磐梯や喜多方での目撃情報は聞いたことがあったが、珍しいと思う。

 ヒメシロチョウにも会い、ニホンカモシカにまで会い、嬉しい心地で帰路病院へ寄った。

手術から2週間、真っ赤だった白目もほとんど白くなり順調なようだ。

 次は3週間後の診察となった。         

 

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春の里山

2012-04-19 | 自然観察

庭のウメ、サクラのつぼみも大分膨らんできた。レンギョウも今年は遅く、まだ咲かない。

庭には、チオノドグサ、エンゴサク、ミスミソウが可憐に咲いている。サンシュも線香花火のように弾けた。

昨日、午後から小さい春を見つけに里山を巡った。雪解けの進む、麗しの磐梯を仰ぎながら・・・。

そろそろ虚無僧の雪形が現れるだろう。

  強清水辺り

未だ下草の萌えない枯れた雑木林は、木々の芽吹き前でずいぶん見通しが利く。

バッコヤナギの尾状花序が膨らんできれいだ。 

 

 クヌギの枝に枯れ葉をまとった黄色い大きな繭が付いていた。ヤママユの空繭だ。

粗い編み目の籠のような繭はクスサンのものか。中に羽化した蛹の殻が透けて見える。
これはスカシダワラと呼ばれ、秋に羽化したのだろう。越冬は卵のはずだ。

  

ダンコウバイが目立ち、キブシが穂を垂らして咲いていた.

  ダンコウバイ   キブシ

シジュウカラが飛んできた。

そういえば、最近野鳥が少ないような気がしている。
今朝、久々に、リンゴの皮を食べにヒヨドリがやってきた。

 庭に来たヒヨドリ

 小川の岸にショウジョウバカマが可憐だ。キバナアマナが輝いていた。

   

 雪解けと同時に咲き始めたミズバショウ、年々少しずつ領域を広げているようだ。

 ミズバショウ

この前、なかなか止まらず、撮れなかったルリタテハを撮った。

イモリを観察しながら、同じ場所を行ったり来たりしていたルリタテハをじっくり待った。

あらためてきれいなブルーに魅せられた。

  

田の畦の水たまりに無数のオタマジャクシが、冬眠からさめたヒキガエルのものだろう。そして、イモリもいっぱい枯れ葉の間を歩いて、マツモムシを狙っていた。

 

里山の春は遅いが、日に日に緑萌え、生き物たちの躍動が始まっていた。

  

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早春のチョウ

2012-04-16 | 自然観察

 朝6時から、主に側溝中心に町内一斉の清掃、食事休憩の後9時からは資源回収作業、
2が月間収納庫にたまった段ボール、古紙類を業者のトラックへ積む作業だ。
 その間、田んぼの歳の神の燃えかすの撤去をした。麻袋に入れた土砂で、愛用のジーパンがかなり汚れた。

一段落して9時半、役員、組長の合同役員会。すべて終了して10時、忙しいボランティア活動が終わった。

 白内障の手術後に発熱、しばらく体調を崩したがなんとか回復した。
 穏やかな春の陽になった。午後、今年初めての里山を歩いた。
 今年は木々の芽吹きが遅いようだが、土手のフキノトウが鮮やかに春の訪れを告げていた。

 磐梯 八田野

 飯豊 八田野

 林道に入ると可憐なキクザキイチゲが真っ盛りだった。

 キクザキイチゲ
 
 今日再会した初めてのチョウは、シータテハ、続いてルリシジミだった。

 初蝶シータテハ

 新鮮なルリシジミ♂
 
 日だまりのフキノトウには、ヒオドシチョウ、キタテハ、テングチョウがゆっくり蜜を吸っていた。

 ヒオドシチョウ

 シータテハ

 テングチョウ

 ♂

 キタテハ

 クジャクチョウ♀

路傍に飛び交うのはルリタテハ、クジャクチョウ、いずれも長い冬を越した愛おしい蝶たちだった。

 さわやかな空気を胸一杯に吸って、回復した健康に、そして今年またお世話になる自然に感謝した。

今年もいよいよ虫たちとのふれあいが始まる。

 

 

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4月13日 母を想う

2012-04-13 | 日々の生活

 

 4/13、もうすでにいない母の誕生日だ。父は、明治生まれで、一昨年が生誕100年にあたり、

三つ違いの母は大正2年生まれ、元気でいれば今年は数えで100才になる勘定だ。

 兄弟の誕生日はおぼつかないが、両親の誕生日、命日は忘れないものだ。

 母の人生を考えた。幼いころが断片的に思い出された。

 思えば、両親との生活は高校まで、遠い大学へ進学してからは、年に何回かしか会えなかった。

 勿論、兄弟同士も同じこと、家族、家族といっても、一緒に過ごした時間はなんと短かったことか。

 核家族で、それぞれに別れて新しい家族を作るのが当たり前の社会、当然そうなのか、とあらためて思った。

 晩年、母は年に1,2度、郷里会津の我が家に1ヶ月ほど滞在するのが常だった。

 同居する兄の元を離れての日々、小さかった孫たちとどう過ごしたのだろうか。母の嬉しそうな姿が鮮明に思い出された。
 

まだ桜にも早いが、思いついて、端午の節句の鎧甲飾りを出してみた。金屏風の裏には、息子の誕生した〈昭和47年4月福島にて〉とあった。

あれから40年、今は子供たちが、それぞれに同じようにお祝いをしている。

我が子は3人とも、都会にあこがれることもなく近くにいる。子たちはどう思うか分からないが、孫に囲まれての平和な日々、幸せなことだ。

 きょうも、思い出す母と話をし、今の幸せを報告した。大事に今を生きなければと思う。

  ときどきYou Tube で 「無縁坂」を聞いている。
http://www.youtube.com/watch?v=hgiFSSVWsQE&feature=fvwrel

 そこには「運が良いとか悪いとか~」とあるが、母はどうだったのだろうか。
 過ぎし過去は戻らないが、曲を聴きながら、ときどき母と、父を懐かしく思い浮かべている。

 

悠人くんの初節句に、兜の飾りを贈りたいと思っている。まだ、兜はないがリハーサル、陣羽織を着せてスナップを撮った。

 

 隣の部屋で孫たちと妻の会話が聞こえる。いつも忙しい朝だが、孫たちも今日も元気に登校していった。

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待ちかねた春

2012-04-11 | 自然観察

  今朝、新聞にさわやかな歌を見た。
   " 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける"  ( 紀貫之)

 吹く風は冷たく早春賦の世界だが、ようやくキクザキイチゲが開いた。
 年々歳歳花相似たりである。

 

 きのう、気温は16℃まで上がり、午後は春の陽が温かくなった。ミスミソウも春の陽に嬉しそうだ。

 

日差しに誘われ、10日ほど前に買って、寒さに躊躇していた花苗を庭の縁に植えた。

 

 積もった枯れ葉をよけると、チオノドグサがつぼみがきれいに並んでいた。
 

やはりこの冬は寒かったのか、サンシュウの黄色い球ははじけてきたが、ウメやレンギョウの花芽はまだまだ小さい。待ちかねた春、すべてが一斉に動き始めている  

 

 

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一泊二日の入院

2012-04-08 | 健康

 

 また入院してしまった。昨年の夏ころから、右目の視力が極端に悪くなった。
糖尿病から来る白内障と診断された。手術自体は15,6分で終わるという。これまでの数え切れない入院に比べれば、正直、気は楽なものだ。

 土曜日11時の入院、パジャマに着替え、点滴が始まった。点滴針がうまく刺さらず、3度目の正直、つい昔を思い出してしまった。
  軽い昼食をとり、2時過ぎ手術室へ。左腕に心電図コード、右腕に自動血圧計。電子音がピッ、ピッ。

手術が始まった。痛くないと聞いていたが、やはり辛かった。頬骨の下の頬に注射らしきもの、多分麻酔か。

消毒された右目に眩しいライトが照らされた。何度目かの黄色い点眼液が見え、次いで中央に小さな長方形の金属片が見えた。

その縁が裏からの光に眩しかった。その金属片周囲は美しいスカイブルー、ときどきピンクのオーロラのような揺らぎがあらわれた。

あの美しい濃い澄みきったブルー、なんと表現したらいいのだろうか。美しすぎる。いつか映像で見た宇宙空間からの地球の夜明けの写真を思い出した。

宇宙空間に浮かぶ地球を取り巻く空気層が、あの青い色だった。

繰り返す痛さを我慢しながら、これまで見たことのない美しい色の宇宙ショーを鑑賞した。12、3分だったろうか、急に暗黒になって手術は終わった。

 お礼を述べ手術室を出ると、涙が溢れた。

またも家族に心配をかけ、病院にお世話になりながら生かされる、切なさ、うれしさが込み上げたのだろう。

 迎えの車いすを押されながら、看護婦さんに痛かったことと、今見てきた美しいショーを話した。

でも個人差があるのか、翌朝の検診で隣り合った患者に聞いたら、そんな美しいショーは見なかったという。また全然痛くなかったと。

 強烈に明るい光源の光が複雑に反射、屈折をして、網膜に届いた。その波長が偶然の美しさをプレゼントしてくれたのだ。痛さに我慢したご褒美だったのかも知れない。

 翌朝、診察を前に眼帯を外して初めて見る光景はとても明るかった。おまけに裸眼でもよく見えた。手術は成功した。真っ赤な出血もじきに引けるという。 

              
 手術後2時間の安静、普通に夕食をとってからの夜は長かった。枕が変わると駄目。おまけに相部屋、両隣のいびきに悩まされた。
 寝付かれず、ポケットラジオをイヤホーンで聴いた。クラッシックやら野球中継を。何気なくFMへ入れるとFMシアターが始まった。

森治美の原作の「祖父と手紙と僕」、聞き応えのある素晴らしい番組を聞くことが出来た。

 朝の点滴1時間、娘に迎えを頼んで帰宅した。
 4年生の武琉君、じいが借りてきた金属製の眼帯を心待ちにしていた。
歴史が大好き、じいちゃんの居合い刀を持ち出し、独眼竜になりきった。

段ボールで眼帯を作って独眼竜で記念スナップ、いつか思い出の写真になるかもしれない。

独眼竜 武くん(新4年生)    8歳、 萌ちゃん(新2年生)  ガールスカウトの服装で

    

 きょう夕食は、萌香ちゃん誕生パーティ、ついでにジイの退院祝もささやかに・・・。

 

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携手撫風光

2012-04-06 | 文芸


 先日、冬期休館していた磐梯山慧日寺資料館を訪ねた。
展示場の壁に色紙に書かれた書が飾られていた。

【携手撫風光(手を携えて風光を撫す)】興福寺の多川俊英貫首の揮毫だ。
解説には、「明治の文豪・森鴎外の漢詩の一句で、〈いっしょに自然の景色を楽しむ〉の意とあった。写真撮影できないので、手帳にメモをとった。

  多川俊英貫首について、ネットで調べると、福島民友新聞のシリーズ記事 「1200年の時を超え よみがえる慧日寺金堂」への寄稿文(以下の(16))を見つけた。また、昨年秋には、磐梯町で師の講演会もあった。知らないでいたことが残念に思えた。
 ネットのプロフィールには、各界の著名人とも親交が深く、中でも免疫学者の多田富雄と親交が深く、脳梗塞の後遺症で言葉が不自由になった多田と電子メールによる会談が朝日新聞にて「いのちと死と能と」と題され公表された。と。

 少し師から学びたいと思う。
 幾つもの著書の中の「心に響く99の言葉―東洋の風韻」「旅の途中」をアマゾンに発注した。

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  【(16)徳一の息吹実感を 会津仏教の力再認識】    (2008/03/25 福島民友)から   
 史跡調査開始から四十年以上にわたり連綿と続いた復元への熱意が結実し、ついに完成の時を迎える慧日寺金堂。仏教界などから大きな注目を集めている。若き日の徳一が修行に励んだ奈良、興福寺のトップである多川俊映貫首が復元事業の意義などを語った。
 日本の仏教の中心は歴史的に奈良、京都であるとされていますが、都を離れた高僧徳一が現在の磐梯町に慧日寺を興した九世紀前半以降、実は東の会津に、もう一つの拠点が形成されていたのです。それが今回、慧日寺金堂の復元によって目に見える形になる。これは注目に値します。
 徳一に関しては資料も少なく、謎の人物とみられてきました。天台宗の最澄との論争で知られる程度です。それが、金堂復元を契機にあらためて光が当てられ、埋もれていた資料が出てくるようになるかもしれません。
 徳一が都から東国に向かったのは大きな宗教的使命を帯びていたと考えられます。だからこそ、大工やさまざまな技術者も連れて行き、湯川村の勝常寺に残るような高いレベルの仏像を作ることも可能だったのだと思います。
 磐梯町の慧日寺跡には数回足を運びました。千二百年前に興福寺で仏道の探究に取り組んだ徳一が大きな足跡を残した地を、同じ法相宗の自分が再び訪れるようになる―。なんとも不思議な縁を感じますね。
 磐梯町では町が徳一の業績を検証し、金堂復元に取り組んでいることにまず驚きました。現在は全国的にどこの自治体も財政的問題を抱えています。磐梯町も例外ではないでしょうに、文化振興に努める姿勢に敬服します。いにしえの人に光を当て「徳一菩薩と慧日寺」を発刊し、町内各戸に配布しました。会津仏教の価値を再認識させる活動に励んでいるのです。
 復元された金堂を間近に見ることで、徳一の生きた息吹を実感できることでしょう。当時の仏教文化への理解がさらに多くの人に広まることを期待します。
 興福寺でも現在、中金堂の再建に取り組んでいます。寺創建千三百年に当たる平成二十二年には立柱までこぎ着けたいと考えていますが、一歩先を進んでいる慧日寺はいい刺激になり、こちらも頑張ろうという気になります。
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「家族の歌」

2012-04-04 | 文芸


 
 短大図書館で、ふと目に入った「家族の歌」を借りてきた。昨年2月に出版された「河野裕子の死を見つめた344日 「家族の歌」」である。

  しばらく忘れていた河野さん、もう亡くなって一年半になるのか。
  産経新聞紙上で、家族4人のリレーエッセイ「お茶にしようか」の連載が始まってから、裕子さんが亡くなった平成22年8月12日までの344日間の日々の記録だ。
 日々衰えていく体力を冷静に見つめる河野裕子さん。その後の葬儀を終えてからの家族の思いが綴られていく。一篇一篇の家族のエッセイに胸が詰まる。

○裕子さんのエッセイ「往診」、書かれた数日後の旅立つた彼女の思い。
 ”聴診を受くるは何年ぶりのこと胸と背中をゆっくり滑る
 口述筆記や種々家族に負担をかける自宅看護をありがたく思い、問診や聴診に入院時とは違うぬくもりを言う。

○亡くなる前の夫のエッセイ「最期の歌」にも、涙が溢れた。
 ”おはようとわれらめざめてもう二度と目を開くなき君を囲めり

死の間際まで歌を作った、生まれながらの歌人の最後の口述、
 ”あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言い残すことの何と少なき
 ”手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

  別れは切ない。いつかは来る、自分にもほど遠くはない人生の別れだ。

ふと、河野ファミリーと同じように妻を囲む自分と子供たちが浮かんできた。一日一日を大切に過ごさなければ。

以前の感想を拾う。【拙ブログ「逝く母と詠んだ歌五十三首 永田 紅」2010-11-04】http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/9c45a4af5f218184a9233ccab10c9460《一年一年、何と早く過ぎていくことか。あれから7年、あれから15年、30年と、思い返す懐かしかったあのころ・・・。生きた密度は比べぶくもないが、私も妻も、河野さんと同い年だ。本当に人生は短いと思う。また、家族の幸せを思う。》    

     

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勝常寺、慧日寺に徳一を尋ねる

2012-04-02 | 街中散歩

 午前中に電話で仏像の拝観予約を入れた。約束の午後1時に社務所を訪ねると、作務衣姿の方に、お堂へと案内された。

実は、午前中の予定の団体さんが今遅れて着いて、住職が案内していると言う。薬師堂に向かうと、お堂から団体の先客が出てきた。

何気なくどちらからですかと尋ねると、長野県からですと。私も若いころ長野にいたと話すと、茅野からの講の団体だった。

なんと驚くことに、その方は徳一さんと言う。さらに、茅野の旧湯川村からと。

懐かしい信州からの遠来の客に、たまたまバスの遅れで一緒になり、しかも声をかけた方が徳一さん、偶然と言えない奇遇な出会いに感じられた。

まさに、これも意味ある偶然に違いないと思った。

 団体さんと別れを告げ、一人国宝薬師如来像を拝顔した。

県立博物館にあるレプリカと同じ大きさと言うが、本物はずっと大きく、ありがたく感じられるから不思議だ。

国宝の前には、ずらりと素朴な村指定の文化財・木造十二神将立像が一二体の並び、それらに隠れるように徳一座像が安置されていた。

今日の目的は、本物の徳一座像との対面だった。 静かに見つめると、当時活躍した徳一菩薩の人となりが分かるような気がした。

何かを話しかけているように思われた。

【(湯川村HPより) 徳一座像: 像高86.9 cm。勝常寺開山徳一上人自作の像と伝えられる欅の一木彫である。ほほ骨高く意志の強そうな肋骨あらわな僧形像で、肉身部は丁寧に彫られてあるのに、着物の部分は簡単に彫られている。恐らく全体が彩色像で着物の部分は彩色で補っていたと思われる。 左鼻翼、右鼻唇、右手第四指半ばから先等欠損。
 顔や胸の彫法の強さから10世紀初頭を下るもののようには思われない。】

 続いて、隣の収蔵庫の沢山の貴重な文化財を拝むことが出来た。
 照明に照らされる木造の雨降り地蔵、国宝薬師如来の脇侍の日光、月光菩薩立像を拝んだ。

さらに十一面観音菩薩立像、聖観音菩薩立像、四天王像など安置される仏像を静かに見つめた。

仏像は祈りの対象ではあろうが、やはり、美しい美術・芸術品に違いなかった。
 案内いただいた住職に、40年前に描いた薬師堂のスケッチを手渡し、暇乞いをした。

 

 薬師堂

 次の目的地の慧日寺に向かう途中、勝常寺近くの北田城跡へ立ち寄った。
 北田城は日橋川と湯川との合流点の南西一帯の河原より5メートル高い河岸段丘上にある平城、1193年佐原次郎広盛が築いて居住し、北田氏と称した。

以後216年間代々勢威を振るい、1409年に葦名氏に攻め滅ぼされたと言う。

 北田城跡

 冬の間休館だった慧日寺資料館の開館を待って、早速の訪問だ。

「磐梯山慧日寺資料館」と「史跡 慧日寺跡」共通入館の立派なパンフレットを手に、4年前に再建された慧日寺跡もゆっくり見て歩いた。

資料館が立派に充実したことに驚いた。ここにも、模造の徳一座像があった。館の方にいくつかの疑問点をお尋ねした。

 慧日寺史料館

 資料館から復元された金堂へ向かうと、A先生が近づいてきた。顔ははっきりは見えない目だが、秋に発掘中の彼に出会っていたのですぐに分かった。

きのうは開館初日、期待していたが、午後から吹雪となり30人くらいの来館だったと。 

 発掘中

 金堂と中門

 金堂内部を初めて見た。組み物や天井、床を確かめ歩くと、内部からながめる木々が平安時代を思わせた。

 

金堂裏の講堂跡、食堂跡、仏堂跡には、柱の礎石跡に大理石が埋められていた。

 とち葺きの屋根は、金堂も、中門も真っ黒に変色し、ずっと落ち着いて見えた。

 裏の徳一廟へ詣り、到る所清流のせせらぎを聞きながら駐車場へ戻った。

所々雪の残る流れの脇には、フキノトウが輝き、ようやくの春を告げていた。

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