午前中に電話で仏像の拝観予約を入れた。約束の午後1時に社務所を訪ねると、作務衣姿の方に、お堂へと案内された。
実は、午前中の予定の団体さんが今遅れて着いて、住職が案内していると言う。薬師堂に向かうと、お堂から団体の先客が出てきた。
何気なくどちらからですかと尋ねると、長野県からですと。私も若いころ長野にいたと話すと、茅野からの講の団体だった。
なんと驚くことに、その方は徳一さんと言う。さらに、茅野の旧湯川村からと。
懐かしい信州からの遠来の客に、たまたまバスの遅れで一緒になり、しかも声をかけた方が徳一さん、偶然と言えない奇遇な出会いに感じられた。
まさに、これも意味ある偶然に違いないと思った。
団体さんと別れを告げ、一人国宝薬師如来像を拝顔した。
県立博物館にあるレプリカと同じ大きさと言うが、本物はずっと大きく、ありがたく感じられるから不思議だ。
国宝の前には、ずらりと素朴な村指定の文化財・木造十二神将立像が一二体の並び、それらに隠れるように徳一座像が安置されていた。
今日の目的は、本物の徳一座像との対面だった。 静かに見つめると、当時活躍した徳一菩薩の人となりが分かるような気がした。
何かを話しかけているように思われた。
【(湯川村HPより) 徳一座像: 像高86.9 cm。勝常寺開山徳一上人自作の像と伝えられる欅の一木彫である。ほほ骨高く意志の強そうな肋骨あらわな僧形像で、肉身部は丁寧に彫られてあるのに、着物の部分は簡単に彫られている。恐らく全体が彩色像で着物の部分は彩色で補っていたと思われる。 左鼻翼、右鼻唇、右手第四指半ばから先等欠損。
顔や胸の彫法の強さから10世紀初頭を下るもののようには思われない。】
続いて、隣の収蔵庫の沢山の貴重な文化財を拝むことが出来た。
照明に照らされる木造の雨降り地蔵、国宝薬師如来の脇侍の日光、月光菩薩立像を拝んだ。
さらに十一面観音菩薩立像、聖観音菩薩立像、四天王像など安置される仏像を静かに見つめた。
仏像は祈りの対象ではあろうが、やはり、美しい美術・芸術品に違いなかった。
案内いただいた住職に、40年前に描いた薬師堂のスケッチを手渡し、暇乞いをした。
薬師堂
次の目的地の慧日寺に向かう途中、勝常寺近くの北田城跡へ立ち寄った。
北田城は日橋川と湯川との合流点の南西一帯の河原より5メートル高い河岸段丘上にある平城、1193年佐原次郎広盛が築いて居住し、北田氏と称した。
以後216年間代々勢威を振るい、1409年に葦名氏に攻め滅ぼされたと言う。
北田城跡
冬の間休館だった慧日寺資料館の開館を待って、早速の訪問だ。
「磐梯山慧日寺資料館」と「史跡 慧日寺跡」共通入館の立派なパンフレットを手に、4年前に再建された慧日寺跡もゆっくり見て歩いた。
資料館が立派に充実したことに驚いた。ここにも、模造の徳一座像があった。館の方にいくつかの疑問点をお尋ねした。
慧日寺史料館
資料館から復元された金堂へ向かうと、A先生が近づいてきた。顔ははっきりは見えない目だが、秋に発掘中の彼に出会っていたのですぐに分かった。
きのうは開館初日、期待していたが、午後から吹雪となり30人くらいの来館だったと。
発掘中
金堂と中門
金堂内部を初めて見た。組み物や天井、床を確かめ歩くと、内部からながめる木々が平安時代を思わせた。
金堂裏の講堂跡、食堂跡、仏堂跡には、柱の礎石跡に大理石が埋められていた。
とち葺きの屋根は、金堂も、中門も真っ黒に変色し、ずっと落ち着いて見えた。
裏の徳一廟へ詣り、到る所清流のせせらぎを聞きながら駐車場へ戻った。
所々雪の残る流れの脇には、フキノトウが輝き、ようやくの春を告げていた。