最近、学校での出来事はほとんど話さない武琉君が、授業の内容についてよく話してくれる。「原子・分子」についてだ。教わった内容をいろいろ質問してくる。
じいが昔使った分子模型を見せると、びっくり!。学校でも同じだったと目を輝かせた。私のは,発泡スチロールの自作分子だが、よく聞くと,学校のは磁石らしい。
3年生では、早い内容かと思ったが、ひょっとしたら仮説実験授業かな?と想像した。
その後、担任から「授業通信」なるものが届いた。初めて眼にした通信だが、No.3とある。
そこには、児童の授業評価や一人一人の感想が載っていた。やはり仮説実験授業か。
武琉くんは、終わったばかりの授業のプリント「もしも原子がみえたなら」を持ってきた。 やはりそうだった。仮説実験授業の授業書だった。
最後の感想用紙の「この授業はどうでしたか?」、武琉くんの評価は5だ。
感想に「とても楽しかった。いろんな分子や原子が出てきておもしろかった。他の分子や原子を調べたりしたいです。」とあった。
次は「磁石」の授業だそうだ。これまた、教わったこと話題にして聞いてくるだろう。授業が楽しいからだろう。
身近にいろいろ研究をしながら授業を進める担任教師を知って、嬉しくなった。
さらに、よりよい授業を追求し実践していって欲しいと期待したい。
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仮説実験授業とは。(Jinkawiki. )
科学上の最も基本的・一般的な概念・法則を教えて、科学とはどのようなものかということを体験させることを目的とした授業理論。この授業法の理論的基礎はおもに次の2つの命題に置かれている。 1、科学的認識は対象に対して目的意識的に問いかける実践(実験)によってのみ成立し、未知の現象を正しく予言しうるような知識体系の増大確保を意図するものである。 2、科学とは、すべての人が納得せざるをえないような知識体系のを増大確保を図る1つの社会的虚構であって、各人がいちいちその正しさを吟味することなしにでも安心して利用しうるような知識を提供するものである。
-板倉聖宣『科学と仮説』(季節社)より-
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在職中、私も、生徒の学習意欲を高める授業、生き生きした授業を目指して工夫して取り組んでいた。
板倉氏の「仮説実験授業」も、当時の生徒たちの実態、置かれた教育の現状から生まれたものだったろうが、私の中心的な課題は、生徒の「創造性の涵養」だった。
30代のころ、ブルーナーによって示された構造の重要性に学び、教材開発に取り組んでいた。
「総合的な学習教材」として、他にない大きな化学プラントをつくり全精力を打ち込んだ。
その後、突然の退職前までは「ゆとり教育」の意義を認めながら、その実践を工夫してきた。みんな懐かしい思い出となってしまった。
ブルーナー著の「教育の過程」(岩波)を書棚から引っ張り出した。
かつて引いたアンダーラインをたどると、「・構造を学習することは、どのように物事が関連しているかを学習すること。・教育の一般的な目的は、優れた生徒に学校教育を与えるだけでなく、一人一人の生徒が各自に最も適した知的発達を遂げるように助けてやることである。・教材を効果的に提示すること。教材の範囲だけでなく、その構造に適切に注意を払うこと。・学習教材そのものに興味を持つことこそ、学習にたいする最も良い刺激である。・・・・・」などとある。
時代背景はあろうが、○興味・関心を抱かせる授業、○わかりやすい授業、が基本だと思う。そんな教材化が大切だ。
それが生徒の、意欲ある取り組み、主体的、内発的姿勢、生き生きした授業への取り組みにつながるはずだ。
「仮説実験授業」もその位置付けにると思う。
いろいろ思い巡らせながら,かつての著作を手に取った。昭和63年とある。40歳を超えた頃のはつらつとした過去があった。
そこには多岐にわたる40数報の教育研究考察の跡が残っていた。
その「はじめに」は
「 ・・・・・・・昨今の,あまりに急速な科学技術の進展に、我々はどう生きていけばよいのだろうか。生徒に問いかけつつも、解得られぬもどかしさを感じている。
・・・21世紀を雨に,おぼろげながら,技術と人間、さらにそれらと自然との関わりを静かに考えるべきではないかと思っている。・・・・・・」と。
また、「あとがき」には
「私の書斎の机の前に、ミレーの「休息する農夫」がかけてある。農夫の疲れ切った、しかし目標に向けた、心からの、充実した休息を羨ましく感じる。 ・・・・・
・・・ぼんやりと、窓からの磐梯,流れゆく雲を眺めつつ、私の昨年末からの一つの焦燥が、人生の問題へと発展しつつあると意識している。・・・
多面的な人間のための,多面的な学習の援助、さらに教科を離れた人生の師としての教育、豊かな、充実した人生を送るための教育でありたい。」とある。
歌を忘れたカナリヤは,役に立たないのだろうか。
孫の授業から,はからずも歌を歌っていた頃を思い出した。少し発声練習でもしてみようか・・・と思った。
きょうは午前中は細かい雪降りだったが、昼ころは何となく春の降りを感じた。
気温もこの冬一番の7度まで上がった。いよいよ春近しを感じる1日だった。
これから登校
鶴城小学校前
お城が見える
今年は寒い、雪はほとんど毎日降ったが、ドカ雪がなく助かった。
実際はどうなのか、科学的データを見てみた。
ネット「会津若松・あの日の天気」 http://www.filldike.sakura.ne.jp/is/
○1日の最高、最低気温の平均値
今年の冬 (24年) 昨年の冬(23年)
最高 最低 (平均) 最高 最低 (平均)
12月
4.4 -1.3 1.5 7.2 -0.8 3.1
1月
1.3 -4.9 -1.7 0.8 -5.7 -2.1
2月
1.1 -5.9 -2.4 3.7 -4.7 -0.7
一日の平均値の平均で見ると、昨年の冬に比べると12月、2月は確かに寒いことが分る。
また、最低気温は、今年は (2/1)に-12.7℃、 (2/13)に-9.8℃などだったが、よく見と昨年もおとらずに低かった。あらためて気温を見ると、冬は間違いなく厳しく寒い。
雪は一日の積雪量では、今年は 58cm(2/4 )、51cm(2/12)、1月には38cm (1/14)なで、ドカ雪はなく楽だった。
昨年の冬は一晩で115cm(22年12/26 )も積もり大変だっが、その後1月、2月は少なかった。現在市内の積雪は30cmほどだろうか。
今年は北東北、上信越や中越の豪雪が大変なようで、こころからお見舞いします。
明日の天気予報は嬉しい。数ヶ月ぶりだろう、降水確率0%の晴れマーク、穏やかな日になると言う。ただ、最高気温3℃とある。最低は,放射冷却もあろうがそれほど下がらず-4℃の予想だ。
」悠人くん、最近手でものをつかむようになった。また、首もすわったようで、今日ばちゃんがおんぶしてみた。
おんぶは良い。親は何かと楽になるし、それより悠人くんの視界が広がり新しい世界見えるようになる。そんな記憶は全くないが、間違いないだろう。
手近にあるカメラで日々の記録を写している。1枚でも、悠人くんの記憶に残るもの撮っておきたいと思っている。
ごきげん
初めておんぶ
末娘の赤ちゃん悠人くんも3ヶ月を過ぎ、よく笑うようになった。
先日、丁度100日目のお食い初めのお祝いに嫁ぎ先へ招待された。
パパが作った箸は誕生日と名入りの竹の箸、悠人くんはひいおじいちゃんに食べさせてもらった。
お祝いの鯛をくちびるに当てた。数の子も、お酒も真似をした。
悠人くんの分も、和やかに、おいしいお酒を沢山ごちそうになった。
温かい家族に囲まれ、たくましく、優しく育って欲しいと思う。悠人くんの前途の幸せを祈った。
娘夫婦は我が家の近くにいるので、娘は赤ちゃんを連れて毎日我が家に来ている。
夕方旦那の帰りに合わせて帰宅する、実に規則正しい毎日だ。
朝、少し来るのが遅いと、ばあちゃんはすぐにメールしている。
先週はうちの孫娘がインフルエンザに罹ってしまい、今朝は4,5日ぶりに顔を見せた。 我が家に来ると、決まってメリーゴーランドのオルゴールをかける。その雰囲気ですぐに分かり、ジイやバアが呼びかけるとご機嫌で笑う。何か声も出すようになった。指しゃぶりは大分前だったが、もう小さいものはしっかりつかむようになった。
まだ、寝てる切りだが、賑やかだ。孫たちも赤ちゃんを抱きたくて困る。帰宅しても悠人くんがいないとがっかりしている。
じきにもっと忙しくなるだろう。でも、楽しみだ。
こうしてゆったりと時は流れている。
先週は孫たちがインフルエンザで学級閉鎖。週末、楽しみにしていた絵ろうそくまつりも、夕食前に一人で行ってきた。
日没が5時半ころ、暗くなるのを待っての写真撮りだった。
薄暗くなり始めた城内では並んだろうそくに灯が灯っていた。
雪も少し舞う程度で天気も良く、時間帯もあるのか、ここ数年で一番の賑わいだった。多分、浜通りからの被災者や風評援助の観光客も多かったのだろう。また、カメラマンが多いことには驚いた。良いアングルには何人もが三脚を立ててイベントのライトアップを狙っていた。
今年は特別イベント「デジタル掛け軸D-Kライブ」があった。イベントプログラムの解説には、「世界的に活躍するデジタルアーティスト「長谷川 章」氏が創作。百万枚のデジタル映像をアトランダムに投射して幻想的な空間を作ります。投射された画像はゆっくりと変化して情景を創りだし、見る人は思い思いの情感を心の中に描くことができます。」とあった。
6時ころからそのライブ映像が始まった。現代ならではのアイディアだろう。城壁や石垣の雪にいろいろな模様絵が映し出された。少し奇異な感じもしたが、限られた時間ならいいだろうと思った。
でもやはり、静かに降る雪の中、ほのかに灯る絵ろうそくの明かりを見つめる穏やかさも欲しいと思った。
オレンジ色の炎の温かさを思った。雑踏の中、絵ろうそくに跪いて炎を見つめた。家族の健康、幸せそして、震災から11ヶ月、震災からの復旧・復興を祈った。
静かにこころを見つめるまつりでありたいと思った。
珍しいお城の写真を撮り、家族みんなの待つ夕食時間を気にしながら急ぎ足で帰路についた。(2012.2.11)
(会津絵ろうそくまつり オフィシャルサイトから)
会津絵ろうそくについて・・・会津絵ろうそくの歴史は古く、今から500年ほど前の宝徳年間、時の領主芦名盛信公が漆樹の繁殖栽培を奨励し、漆器の製造と共に、その実からは最上級の木ろうを採取し、ろうそくを作らせたことに始まります。本格的に作られるようになったのはその後で、蒲生氏郷公や保科正之公が会津の産業を発展させるため、漆樹の栽培を保護奨励し、漆やろうが多く生産されるようになってからです。江戸時代には、参勤交代の際に献上品として「南天と福寿草(難を転じて福となす)」が描かれた絵ろうそくを献上したところ、時の将軍綱吉公に喜ばれ、会津絵ろうそくは広く世間に知られることになりました。主に、神社仏閣への奉納や高級な贈答品として使われるなど上流社会で愛用されました。特に婚礼の際には一対の会津絵ろうそくが灯され、これが『華燭の典』の語源になったとも言われています。また、花のない会津の冬には、仏壇に供える花の代わりに絵ろうそくを飾るようになったといわれています。
いつも訪問するブログ「乗念の見える部屋から」http://blog.goo.ne.jp/hi-kanaiに、美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」の歌詞を見た。遠縁に当たる103歳のおばあちゃんの葬儀があり、終わりに故人の好きだった歌が流れた、とあった。
いつも聞き流してきた歌詞を追うと、知らないおばあちゃんの人生が見えるような気がしてきた。
知らず知らず 歩いてきた
細く長い この道
振り返れば 遥か遠く
故郷(ふるさと)が見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生
ああ 川の流れのように ゆるやかに
いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく
空が黄昏(たそがれ)に 染まるだけ
「川の流れのように」、 こんな歌詞だったのか。あらためて、心に染みる入る歌詞である。
大雪を予想していた昨日の朝」、積雪はわずかで朝日が差し込んでいた。
青空も見えるので,思い立ってお城へ行くことにした。雪のお城を撮りたかった。
朝9時、三の丸からお城へ入った。
ここではいつも秋月悌次郎詩碑に佇み手を合わせている。
秋月胤永は、謹慎中に僧侶に変装してひそかに抜け出し、新潟で長州藩士奥平謙輔に会い、藩の寛容な処分を訴えた。その帰途に、憂い悩む気持ちを『北越潜行』の詩に残した。 碑の前で、いつもこの詩に胸を打たれる。
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行くに輿なく帰るに家なし
国破れて孤城雀鴉乱る
治功を奏せず戦いに略なし
微臣罪ありまた何をか嗟かん
聞くならく天皇元より聖明
我が公の貫日至誠より発す
恩賜の赦書はまさに遠きに非ざるべし
幾度か手に額をして京城を望む
之を思い之を思えば夕晨に達す
愁いは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
風は淅瀝として雲は惨憺たり
何れの地に君を置き又親を置かん
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職員が廊下橋の雪かきをしていた。普段は木々の葉で見えない天守閣だが、冬の間はよく見えた。二之丸からの朱塗りの廊下橋は、加藤明成の大改修までの大手口で、葦名時代には屋根のついた廊下造りだったという。
静寂に凛とそびえる鶴ヶ城の天守閣の雪景色はとても美しかった。
本丸内には、城下から移築復元された麟閣がある。
天正19年(1591)千利休は豊臣秀吉の怒りを買い死を命じられた。秀吉の怒りが千家一族に及び利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の会津城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵を会津にかくまい、千家の再興を願いでた。この恩義に報い少庵が建てたのが「麟閣」と伝えられている。
荒城の月の碑は雪に埋まっていた。滝廉太郎は教師時代に荒廃した鶴ヶ城跡を訪れ「荒城の月」作詞のきっかけを得たといわれる。直筆の碑だ。月見櫓跡へは積雪がひどく上れなかった。
雪つりされた緑の多行松がとても美しかった。
冬の間、鉄門は閉ざされていて、回り道をして北出丸、西出丸を回ってお城を写した。
北出丸からの太鼓門の奥には、太鼓門の上に兵を昇降させるための石垣(武者走)が残っている。
武者走
北出丸から
久々に西出丸へ回り鐘撞堂をながめた。今も正午にはこの鐘の音が響いている。 北出丸からの坂は椿坂というが、少し急な西出丸からの坂は梅坂という。
西出丸
鐘撞堂
大きな桜の木々の間からきれいなお城が見えた。一瞬雲の合間から陽が差し、天守閣がまぶしく輝いた。
帰りに城の南にある墓地に父母を訪ねた。膝までの雪をかき分けてお参りしてきた。
2時間の心救われる散策だった。
参考までに、桜の鶴ヶ城を。 【会津鶴ケ城 堀内孝雄 愛しき日々 - YouTube】
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=qzWntEAWlQE
今朝もなかなか布団から抜け出せないでいた。
この厳しい寒さに元気で登校する孫たちを思うといつまでも甘えてはいられない。
思い切って起きればすがすがしさが待っているのだ。
脆弱な精神の上、さらにときには怠惰なこころがもたげる、困ったことだ。
寒さに震える自分の弱さ、禅寺の修行僧の辛い日課や、何よりも厳寒の五合庵での良寛の辛苦を思うと、恥ずかしく情けない。
あえて厳寒の雪の中、越後の五合庵を訪ねたのはもう十数年も昔になる。寒さに震えながら、良寛が幾度も巡ったであろう雪の山道を辿った。
何もない板敷きに筵の庵での良寛の辛苦の生活を想像し、その強靱な精神力を思った。
”埋み火に足さしくべて臥せれどもこよいの寒さ腹にとほりぬ”
あらためて寒い冬をぬくぬくと過ごす自分を反省せざるを得ない。
豊かな物質文明に便利さを謳歌する自分のせめてもの罰滅ぼしに、一時、冷え冷えした部屋で良寛の漢詩を味わった。
寒さを耐える辛さはすぐに分かった。
側らに手あぶり火鉢を置いた。寒いことは文明文化の進展を妨げるような気がした。
(参)拙ブログ
冬の書斎 火鉢を友に | (2012-01-13) |
良寛の「天真に任せる」こころも【つぶさにのべがたい】辛苦を思うと、容易には受け入れられない。
さらに、尊敬する「知足の精神」も、足るどころではない境遇を思えば安易に語れない。現代人の贅沢と弱さを思い知らされる。
良寛の漢詩「乞食」に、
「況方玄寒節 辛苦具難陳」(況んや玄冬の節にあたり 辛苦つぶさにのべがたし)
「粥啜消寒夜 数日遅陽春] (粥をすすって寒夜を消し 日を数えて陽春を遅しとす)
とある。
厳しい冬を耐えた良寛には、待ちわびた春の喜びは如何ばかりであったろうか。
されば、せいぜい寒さを耐えて次の季節を迎えたい。