エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

キアゲハの幼虫

2006-10-30 | 昆虫
 《フェンネルのキアゲハ終令幼虫》    

 朝晩の最低気温が一桁となり、大分寒くなってきた。
今、庭の隅で、繰り返し生み付けられたキアゲハの幼虫がすくすく育っている。
食草は、昨年植えたフェンネル(*)だ。こんなにキアゲハが産卵していくとは考えもしなかった。
 夜間気温が下がると根元に下り、温かくなる日中は、多少緩慢になったが食草をしっかり食べている。終令幼虫が10頭前後いるが、2,3令のもの混在している。秋口に次々に産み付けられた卵が孵化し、ここまで成長した。どこかいい場所を見つけて蛹化して冬を越すのだ。かなり積もる雪に埋もれるが、大丈夫だろうか。一体どので蛹になっているのか、付近を丹念に探したが、未だ見つかっていない。

 (*)フェンネルは、地中海沿岸が原産とされ、古代エジプトや古代ローマでも栽培されていた記録があり、歴史上もっとも古い作物のひとつとされる。和名はウイキョウと言い、葉は糸状で、特に新芽は鮮やかな黄緑色をしている。若い葉の香りは独特で、消化促進・消臭・肥満防止に効果があり、香辛料、ハーブとして、食用、薬用、化粧品用などに古くから用いられているという。

 まだ2令幼虫もいる。幼虫たちが、途中寒さでやられないで無事に育ち、早く蛹になって欲しいとおもっている。

 《まだ3,4令幼虫もいる》


温泉でリフレッシュ

2006-10-29 | 日々の生活
     《アキアカネ♀》

  今日は日曜日。孫の世話から解放され、妻と久しぶりに温泉へ行った。
 しばらく何もなく元気で過ごしていたが、先月炎症を起こし発熱。黄疸がひどく血中のビビルビン濃度が異常に高かった。体中が、特に掌、足の裏が我慢できないほど痒く、3週間ほど苦しんだ。その後、貧血やら多少体調に自信が無くなり、温泉を敬遠していたのだ。ようやく元に戻ったようなので、また温泉を楽しみたいと思っている。
 
 途中、近くの里山に秋を探した。
 ススキが秋の陽に輝き、いよいよ紅葉が始まっていた。ときどきキタテハやキチョウが飛び回っていた。キタテハは一瞬シータテハと思える切れ込みだった。キチョウはなかなか止まらない。ようやく止まったところをズームアップして撮影。ツマグロキチョウかを確認したかった。羽をつまんで、表を見たらやはりキチョウの秋型、前翅外縁の黒帯はほとんど無かった。
 アキアカネは葉の上で日向ぼっこだ。近づいても動かずに、多少傷んだ羽にはクモの糸が付いていた。切なく愛おしい気持ちが込み上げ、秋の深まりを感じた。
 
 温泉はやはりいい。何もかも忘れてのんびりリラックスできるのがいい。
すっかり痩せ細り、湯船の縁の平らな石に横になる。骨がもろに当たり痛い。なにしろ、今日現在、大病前の体重から17kg減である。
風呂上がりに、足のツボを機械で揉んでもらう。気分も身体も、家の風呂では味わえないリフレッシュができた。

《キチョウ秋型》

もう一度「ゆとり教育」を!

2006-10-28 | 教育を考える
 教育基本法の改正論議がさかんだ。行政主導で改正を急いでいるようだが、現行法のどこが問題なのだろうか。法律を変えても教育の本質は変わらず、子どもたちとふれ会う教育現場、中でも家庭、社会がすべてだ。

 今の時代は子どもが生きにくい世の中だと思う。すべてが、刻々変わってきた社会は、大人を含めて日本人を変えた。毎日報道される事件も、政治、経済から、社会生活まで、驚くことがあまりに多い。こうした世の中をどう生きていけばよいのだろうか。

 数年前まで、教育は学歴社会や競争社会を反省し、生きる力を目指しいわゆるゆとり教育がすすめられた。そこで、自ら考え、解決する力、創造的な問題解決能力、情緒、感性等を含めた生きる力を育む教育は一つの解決策であった。しかしその後、学力の低下が言われ、その原因がゆとり教育にあるとして方向転換がなされようとしている。残念でならない。
 
 日本の子どもと教育が深刻な閉塞状況にある今、ある雑誌でフィランドの教育への関心が高まっていることを知った。そこには、真の学力を求めるフィンランドと狭い意味の学力にこだわる日本の違いが述べられていた。(*)
  
方向転換がされたこれまでのゆとり教育こそは、この真の学力、これからの時代に求められる・生きる力、・人間力を育むものであった。
 人間力とは、一人の人間として力強く生きていくための総合的な力、真の学力である。 それは 1.知的能力的な要素。 2.社会対人間関係的要素 3.自己抑制的要素の構成要素からなるといわれる。言われ続けた学力の低下は、一つの要素としての知的な能力でしかない。真の学力、人間力を高めることを目標にする「ゆとり教育」の実践をあらためて訴えたい。

(*) リテラシーと学力 ―フィンランドと日本―  … 松下佳代

受験のための「学び」ではない

2006-10-27 | 教育を考える

 全国の高校で、学習指導要領に定められた必修科目を教えていなかったことが問題になっている。 これは、入試に必要な科目を優先させ、関係ない科目は学ばせないという、受験校での大学受験対策だった。弊害の多い受験体制社会で、学校自らが率先して効率優先の入試のための学習を進めていたのだ。
 一見、今の受験社会では、ルールを守っている「正直者が馬鹿を見る」行為である。しかし、実は、馬鹿を見たのは必修科目を学べなかった生徒ではないか。受験のための学習を指導した高校の罪は大きく計り知れないと思う。
 言うまでもなく、人として豊かに生き行くための学びであり、広くを学び、必要な教養としての必修が義務づけられているのだろう。
 学ぶことから、それぞれの人生観、自然観など観が形成される。「何を学ぶか」から、「何のために学び」、「どう生きていくのか」と言った、より本質的な問いに立ち向かう教育が求められる。
 
 

会津・身知らず柿

2006-10-25 | 食文化
 青空に映える柿の色はいい。秋の風物詩だ。我が家にも2本あるが、日陰で育ちが悪く、残念ながら、まだ実を付けない。この辺ではどの家にも身知らず柿が植えてあり、そろそろ収穫の時期を迎えている。
 昔、川俣にいたころ、渡邊弥七町長宅の離れをお借りして6年間生活した。2階建ての借家の前には大きな柿の木があった。確か百目柿と言っていたような覚えがある。たわわに実った柿をもいでご馳走になったことを思い出す。
 会津身知らず柿は、種のない渋柿だが、川俣の柿も渋柿で、皮を剥いて干し柿にしていた。近くの梁川のあんぽ柿は有名だ。身知らず柿は、焼酎にさわして渋を抜く。私はあまり食べないが、妻は大好きで、心配になるほど食べる。
 柿は保存が効かないものだ。すぐに熟れて柔らかくなってしまうが、そのぶよぶよになった柿はシャーベットのように冷たく、炬燵に当たって風呂上がりに食べるのは確かに何とも言えず美味しい。
ときどき神奈川や長野の親類へ身知らず柿を贈っていた。昔、小さいころは木の箱だったが、何時のころからかそれは段ボール箱に替わった。箱には、焼酎を打ってから、渋が抜け食べられる日、開封の日付けが書いてあった。子供心にも待ち遠しかったような記憶がある。
 今年も身知らずを楽しみたい。

*)会津の秋の特産品「見知らず柿」の命名は、
 ・献上された会津藩主の絶賛のお言葉 「未だかかる美味しい柿は見知らず」 
 ・枝が折るくらいたくさん大きな実をつける <身の程知らずな柿> などの説あり。

マダラナニワトンボを守りたい

2006-10-23 | 環境問題
 《枝にとまり周囲をうかがう♂。 長時間は止まっていない。》

7月に市の環境生活課より、「身近な生き物調査隊」への協力依頼を受けた。
この市の生息調査は、応募した市民が、ほ乳類、鳥、は虫類、両生類、昆虫etcについて、発見種、場所、日時を記録して報告するもので、個人で8月,9月に数地点で調査をした。
 【参考:拙ブログ9/26 「身近な生き物調査隊」 】
 私は昆虫、特に少し詳しいチョウを中心に調べてみたが、いろいろ新しい発見があった。

 成果の1つは、環境庁や福島県が共に絶滅危惧種第Ⅰ類(CR+EN)に指定しているマダラナニワトンボを確認したことであった。
(*) ○「絶滅危惧IA類(CR)・・・ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種
    ○「絶滅危惧IB類(EN)・・・IA類ほどではないが、近い将来における絶滅の危険性が高い種
 
 マダラナニワトンボは日本の特産種で今絶滅の危機にあるトンボだ。体長は約4cm位、赤トンボの仲間だが色は黒く、腹部に独特の黄色い紋がある。7月中旬ころ羽化、8月頃は近くの松林の中にいて、9月下旬に池の畔に現れ産卵する。秋9月から10月にかけて、気温が上昇傾向にある昼頃から産卵に訪れるようだ。調査中、マダラナニワトンボは空中から、連結しながら、湿土上にさかんに打空産卵を繰り返していた。
 観察をしながら、この小さなトンボがいつまでも生息できる自然環境の保全を願らざるを得なかった。
この池の水の流れはどうなのか。1年を通しての池の管理は。殺虫剤や枯れ葉剤などの流入の心配はないのか。 産卵された卵の保護は大丈夫なのか。外来魚のブラックバスなどが入ってしまえば、池の生態系はすぐに壊されてしまう。心配はきりがないが、これまで生息し続けてきた、常緑樹、広葉樹に囲まれたこの池の立地環境が変化しないことが必要だ。現状以上の保全を真剣に考えなければならないと思った。
また、絶滅危惧種についてはその復活を考えていいのではないかと思った。例えば、会津盆地は、今は完全に絶滅してしまったチョウ、オオルリシジミ(絶滅危惧I類(CR+EN))の代表的生息地であった。各地でオオムラサキやほたるの保護が行われているが、以前に生息していた地域で、開発による環境の変化により絶滅してしまった種の再生は必要だと思う。
絶滅が心配されているマダラナニワトンボの生活史に悪い影響を及ぼさない環境の保全をと願ってやまない。

 今回の調査で確認したトンボは以下であった。
 【 キイトトンボ、 アオイトトンボ、 チョウトンボ、 ショウジョウトンボ、 ナツアカネ、
   アキアカネ、 オニヤンマ 、 ノシメトンボ、 ギンヤンマ、 チョウトンボ、
   ミヤマアカネ、 オオルリボシヤンマ、 マダラナニワトンボ  等 】

 これらのデータが今後のよりよい環境保全に供されることを願っている。


《 連結して打空産卵 》


《 マダラナニワトンボの生息する池》








大自然にふれる

2006-10-22 | 日々の生活
昨日、2時間の散策で大自然と触れ合った。
【 自宅(11:00発)→ 猪苗代湖長浜 → 天鏡閣 → 自宅(12:30着) 】

  ● ユリカモメを発見
 孫を乗せて猪苗代湖、長浜へカモを見に行った。持参したパンをちぎってやると沢山のオナガガモが寄ってきた。オナガガモはすっかりなついていて、堤防に上がってきて、手に持っているパンを直接ついばんだ。長年の学習だろうか。
孫は1年ぶりのカモとのふれあいが嬉しい。大喜びだ。どんな気持ちなのだろうか。
 ところで、この冬鳥の寿命は何年くらいだろうか。一生に何度くらいシベリアとの間を行き来するのだろう。オナガガモに混じって、初めてユリカモメを見た。何年も見ているが初めてだった。くちばしが赤く、全体が白いくきれいだ。オナガガモの集団から少し離れた沖の方にかたまっていた。

  ● 子グマと遭遇
 紅葉を見に、湖畔から天鏡閣へ立ち寄った。道路沿いの畑に子グマを発見。約10メートル位離れていたか、近くに親がいたらと思い、車の中から写真を撮った。体長は50~60センチくらいで、真っ黒でころころ太っていた。これから寒い冬に向かうのに、親とはぐれたのだろうか。しばらく眺めていたが、一人で冬眠できるのだろうか、保護してやらないで生き延びられるのだろうか、いろいろ心配し、愛おしくなった。


  《秋の天鏡閣》




 


庭に秋を見つける

2006-10-21 | 自然観察
 朝夕に秋の深まりを感じるころとなった。庭の緑も、近づく季節への準備を始めている。
トウカエデの梢が紅く色づき、中段が黄に染まって、残る緑とのコントラストが美しい。
静かに移りゆく季節の庭を、穏やかに楽しんでいる。


 ○待ち待ちた秋の七草フジバカマのつぼみがようやく変化を見せた。 徒然草に「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。 ・・・・ 咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。・・・」とある。 シモツケのつぼみの色の素晴らしいこと、ハナトラノオの咲きはじめの花穂などもそう思う。


 ○大谷石の門柱の上のミセバヤが咲き始めた。
本郷焼きのニシン鉢の鉢植えで、もう10年以上植え替えていないが、毎年見事な花を楽しませてくれている。

 苦労してつくったニシン鉢は底に平成5年のサインがある。わずかにひびがあり、ニシンは漬けられず、第2の人生をミセバヤに捧げている。



 ○9月初めにほころび始め、本当に長い間咲き続けてくれた、今、葉が秋の色に染まり、ピンクの花も色あせた。種をこぼす時期となったが、これから咲き始めるつぼみもある。







 ○ エゾツユムシがあちらこちらで見つかる。昼間は葉の上でゆっくり日向ぼっこ。眠っているのかじっとして動かない。
 それにしても、幼虫のころあれほど目立ったアシグロツユムシはどこに行ってしまったのだろうか。






 ○ ノコンギクにはいつもキタテハが訪れている。
 いっそう羽の色が濃くなったようだ。これから約半年、寒い冬を越えて春まだ浅き日に再会しよう。







 ○ ホトトギスもつぼみの連なる様子は趣がある。 庭には白花と、普通の紫色のまだらもようと2種類があるが、白はすこし早く咲き始め、もう盛りを過ぎた。

感動! 白鳥との再会

2006-10-19 | 日々の生活
 
 数日前、猪苗代湖にハクチョウが飛来したとのニュースに接した。
今日午後、ハクチョウを歓迎に猪苗代湖へ行った。猪苗代湖の三城潟の浅瀬に、長旅を終え羽を休める3羽のコハクチョウに出会った。
 お前達、良く来たな!1年ぶりに出会う初冬の再会の感動に涙がこぼれる。
愛おしく、切なくてならないこの気持ちが、嬉しい。
 しばし、ゆっくり毛繕いをするハクチョウ、湖水に身をゆだね疲れを癒すハクチョウを見つめた。
 湖水まで数十メートルの刈り取りの終わった田に、数十羽のハクチョウたちが羽を休めていた。やがて、沈み始める夕日に向かって一斉に飛び立ち、次々に湖水へ舞い降りた。
 あの「遠き落日」の英世が、小さいころ遊んだ猪苗代の湖畔に、今、切ない冬の使者の叫びを聞いている。良く来たな!、こころから歓迎するぞ!と、こころの中で叫んだ。
 周囲の山並みを背に、それぞれ5~6頭ずつのグループで大空を羽ばたく白い鳥。その連れ添い、たおやかに飛んでいるハクチョウの叫びは、また訪れた美しい故郷への到着を喜んで鳴いているように思えた。
 しばらく、この美しい猪苗代湖で、ゆっくりしあわせなときを過ごして欲しいと願った。

    《長旅の疲れを癒し羽を休めるコハクチョウ》

今井繁三郎作品集

2006-10-18 | 文芸
        《初冬の鳥海》1998年 F20 (今井繁三郎作品集より)

「鶴岡への旅」をブログにアップ(10/9「文学作品ゆかりの地を訪ねる」(鶴岡への旅 その1))した折りに、久しぶりに今井繁三郎美術収蔵館のHPを見た。そこで、収蔵館が「次代につなぐやまがた景観賞」の最高賞に選ばれたこと、作品集が発刊されたことを知った。すぐにメールで受賞のお祝いを述べ、作品集の購入をお願いした。
 早速送って頂いた作品集に添えられた、娘さんの「ごあいさつ」には、
「 ・・・ 死の直前まで常に将来を見つめ、未来のビジョンに向かって生きてきた人間でした。 ・・・ 今井が生涯を通して伝えたかった想いが少しでも伝わったとすれば・・・ 」とあった。
 作品集で、あらためて先生の簡単ではない作品に触れ、その一枚一枚に添えられた先生の簡潔明瞭な一文に、信念の画家を垣間見た想いがした。生前、ちょっとしたご縁をいただいたが、もっといろいろ教えていたたきたかった。
今井先生の風景画は寡作であったと思う。私は風景画が好きで、いでは文化記念館で見た大きな月山?の絵や、確か美術館に1点だけ展示されていた羽黒山?の絵の記憶がある。
 今回、先生の作品集で、青い麓に悠然と聳える鳥海山を描いた「初冬の鳥海」と、紫の麓に泰然と聳える月山を描いた「秀峰月山」を見ることができた。私もこれらの色合い、タッチを真似て「麗しの磐梯」を描いてみたいと思った。
  今、8年前に出羽三山への旅に始まった、今井美術館に関わる数々のこころの旅路を振り返っている。

 以下に昔のエッセイを掲げる。
 _________________________________
 1.ユニークな今井美術館を初めて訪ねて             
        ・・・・「一芸術家知り思わぬ「収穫」」       
 2.そこで見た詩を染め抜いた1枚の藍染めの布          
        ・・・・「念願かなった總右を知る旅」        
 3.この詩の語るこころについて              
     ・・・・「東北学を学びたい」          
4.NHK 新日曜美術館で視聴   (拙ブログ2006.2/19を再掲載)
   風土を背負って光る色▽色彩の画家・今井繁三郎▽      
_________________________________

1.「一芸術家知り思わぬ「収穫」」  (福島民友新聞 1998.9.30)
 出羽国の羽黒山に参拝した帰り道、今井繁三郎美術館に立ち寄った。田や畑の間を縫いながらたどりついた柿畑の中に、鶴岡から移築されたという三百年も前の土蔵が見えた。背丈ほどの壺がいくつも並ぶ庭はヤマゴボウの黒紫の実が印象的な不思議な空間であった。
 監視人などいない館内には大きな絵画が並び、壁には民族衣装やお面が架けられ、屋根瓦やドライフラワーが床に置かれていた。美術館の主は個展開催に上京していたが、これら世界各地の民芸品の数々は、彼の心動かされた宝なのであろう。
 特に早春の月山の風景画に魅せられたが、小さなタンスに何気なくかけらた古ぼけた藍染の布の文字が心に残った。
 「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で ふるさとの雪はめざめる
 通りすがりに尊敬できる一芸術家を知り思わぬ収穫であった。そしてここに本当の美術館のあり様を見た思いがした。      

2.「念願かなった總右を知る旅」  (山形新聞  2002.6.4)
 数年前、山形県羽黒町の今井繁三郎美術館で一枚の古びた藍染めの布に出会った。
 「そこは新しい風の通り道/吹き抜ける風の中で/ふるさとの雪はめざめる
 東北の冬からの爽やかな力強い宣言に感動を覚え、以来作者佐藤總右という人物とこの布について知りたいと思っていた。總右さんが山形市の詩人で、未亡人が駅前の小路で居酒屋を営んでおられると今井先生からお聞きした。雪の季節にと思いながらも、桜の季節に念願のお店を妻と訪ねた。旅の目的はこの詩に魅せられた自分がいることを知ってもらうことであったが、この詩を添えた磐梯山の布絵と、感激した思いを納めた拙著を土産にした。近くに宿を取り、夕刻お店を訪ねた。彼の書斎を改造した部屋で郷土料理をいただきながら、胸につかえていた總右さんのことを伺うことが出来た。翌朝、桜花爛漫の霞城公園にこの詩が刻まれた詩碑を訪ねた。読み上げると改めて素晴らしい感動が蘇った。

3.「東北学を学びたい」  (朝日新聞 2005.12.21)
 最近、書店の郷土コーナーには地域を掘り起こす数多くの本が並んでいる。「会津学」や「会津の群像」など興味深い本を求めた。
 「東北学」という科学を知ったのはいつのことだったろうか。地域や時間軸を変えて、東北地方の自然や人文、すべての科学を認識した地域学の目的は何なのだろうか。
数年前、山形県羽黒町の今井美術館を訪ねたことがあった。そこで出会った一枚の藍染めの布が、今も印象深く心に残っている。
 そこにはローケツの白抜きの文字で
 「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で 故郷の雪は目ざめる」と書かれてあった。これは、東北地方の忘れてはならない心やこれからの時代の方向性を示しているように思えた。
 私は、これから東北地方を隅々まで旅して、各地の風土を肌で感じ、我々を育て培った故郷の山河の恩恵に感謝しながら、歴史や文化、人間を見つめ、そこで学んだすべてを自分のものにしていきたいと考えている。

4.【2月19日(日) 9:00~10:00 NHK教育 新日曜美術館
     風土を背負って光る色▽色彩の画家・今井繁三郎▽
 今朝、今井繁三郎の生涯を視聴した。私が初めて出逢った先生の絵は、いでは文化記念館の「霊峰月山」?ではなかったろうか。風景画が好きな私は、帰路立ち寄った今井美術館で風景画を探した。でも風景画は1つしか展示されていなかった記憶がある。8号くらいの羽黒山の絵だったと思う。
今回番組でいろいろな作品に触れた。ほとんど初めて見る作品だった。あらためて非凡な芸術家を知ることができた。
 暖かくなったらもう一度美術館を訪ね、作品をじっくり鑑賞し亡き今井先生とお話がしてみたいと思っている。
 -番組を視聴して-
○今井の心を静かに伝えていた。後半生ふるさと風土を切り取った画家の、雪国からのメッセージが伝わるすばらしい放送だった。
○「風見鶏」「稲田」「メリタの女」「北国」:色鮮やかな作品
 「茜雲」「農村の子ども」:長崎という、異郷に身を置いて見えてくるふるさとを表現。
 「慟哭」「飢餓」:人間が引き起こしたものに心を痛め、「この世に生を受けた者は幸せ  に生きる権利がある」と言った。
 「涅槃」「埋葬」:妻の死後の、生と死をテーマにした
○90歳から「聖少女」という作品を沢山書いた。最後の作品のタイトルは「夢を見るも のに終わりはない」だった。
 「子どもの心に帰りたい」が彼の晩年の口癖だった。
○彼の心の底にあったものは ・ふるさと ・戦争 ・生と死など
○いろはかるたをつくる。て→「天地自然を描くのではなく、天地自然から学ぶのです」
○竹久夢二:「芸術はもういい。本当の人間にして、本当の人間の悲しみを知る芸術家が いてもいい」に共感。
○長崎に通い続け、長崎で40回の個展。
 インタビュ-に答えて、「人々のプラスになる絵を描きたい」
○毎年、個展3回開いた(東京2回、長崎1回)。個展は自分が自由に表現が
 できる。バラティーに富んだ作品を皆見て欲しかったのでは。
番組紹介欄から
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 ◇生涯、自分の世界を守り、純粋に美を追い求め続けた画家・今井繁三郎(1910~2002)を取り上げる。今井は20代の時、「人間の悲しみを知る画家が出てもいい」という竹久夢二の言葉に深く共感した。その後、交流の続いた画家・山口薫の影響、40年間、通い続けた長崎の色彩と文化、そして40代で初めて経験したヨーロッパの芸術から、今井は強烈な印象を受けた。こうしたさまざまな体験が今井の絵画世界をより豊かなものにしていった。老境に入った今井は心の赴くまま筆を執り続け、84歳の時に「埋葬」、88歳で「聖少女」、89歳の「殉教者」、90歳の「大衆ではない」など、次々に傑作を生み出す。画商との付き合いを拒み、個展を発表の場としていた今井は、広く知られぬまま一生を終えた。だが、最期までいい意味でのアマチュアリズムを持ち続け、夢を追う画家であった。東北の生んだ鬼才・今井の全容に迫る。後8時から再放送。 (NHK)
司会/はな 山根基世  その他/今井繁三郎
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いわきの思い出

2006-10-17 | スケッチ


スケッチブックを整理していたら、いわきにいた頃の絵が出てきた。
いわき勿来への単身赴任は41才、もうあれから20年にもなる。
そのころ、子どもが中学、高校生の多感な時期で、休日にいわきに居たことはほとんど無かった。 4年間の、土、日曜日はほとんど会津へ帰っていた。
 2晩を我が家で過ごし、月曜日の朝5時、妻の持たせてくれる食料品を袋一杯持って1週間の出勤だった。冬はいやだった。まだ真っ暗な雪の道を150キロ、いわきへ向かった。当時は高速もなかった。郡山、須賀川、石川、古殿、いわき と今思い出すだけで辛い。
夕食は毎晩しっかり飲んでいたので、おかずや麺類で済ませることが多く、転勤の時求めた小さな炊飯器を使ったのは数回だった。
 そんないわきでのわびしい日々の夕方、ときどき海を見に行った。スケッチは、そんないつか描いた海の風景だ。勿来海岸で、打ち寄せる波を飽かず眺めていた。絵を眺めていると、寂しかったその時の思いが甦って来るようだ。また、時には活気あふれる県境の隣町、港を訪ねたこともあった。
 海は広かった。この広い果てしない海原を見て育ったら、もっと心の広い人間になれたかなと思ったりした。
 スケッチを見ていたら、いろいろな思い出が甦ってきた。

以下に、いわきの風景をスクロールギャラリーで載せる。

  いわきの風景   
<
<><><><><><>

     静かな入り江                                勿来海岸                                     海を描く                                      塩屋崎灯台                    活気あふれる平潟港                            植田堂の作踏切前                           
 
<
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【オンマウスで止まる】


奥日光の紅葉を楽しむ

2006-10-14 | 旅行
 昨日、思い立って奥日光へ出かけた。前日にネットで宿を取った。紅葉のこの時期、奥日光はどこの旅館もほとんど満室だったが、偶然「湯守釜屋」へ宿泊予約が取れた。
 昼12時、出発、国道121号で田島へ。道の駅田島で、昼食、山菜蕎麦を食べる。
 五十里湖から、川俣温泉を経て山王峠越えで日光へ行くことにした。
 紅葉は、田島あたりはそろそろ始まり、山王峠付近はちょうど見頃であった。4時過ぎ戦場ヶ原3本松に寄り、展望台から広々した戦場ヶ原の草紅葉を眺めた。山の頂を覆う雲の切れ目から、日没前の秋の陽の光線が空一杯に散乱していた。
 宿に入り、すぐにかけ流しの温泉に浸かった。乳白色のすばらしい温泉(硫化水素泉)で、これまでに入った3本の指に入る良い湯だった。夕食を美味しく、つい調子に乗りすぎたようだ。最近体調も良くなり、また飲み始めたが注意!注意!、それが原因ではないだろうが、もう一度温泉に入ったころから様子がおかしくなった。ほどなく寒気がし始め急に発熱、体温計はなかったが、多分38℃を超えていたと思われる。いつもの手術後の炎症によるものかも知れないと、常備薬を飲んで、上掛けをもう一枚重ねふるえていた。妻に、濡れ手ぬぐいを替え続けて介護してもらったが、良くない。いよいよ仕方なく、フロントに氷枕をお願いした。12時を廻っていたが、旅館の方がすぐに持ってきてくれた。その対応はとても感じが良く有難いと思った。
 このまま入院になるのではとか、息子、娘に迎えに来てもらい帰るしかないかなどと思った。大手術から3年が経って、今が一番調子が良かったが、ちょうど1ヶ月前に半年ぶりに発熱、約3週間苦しんだ。ようやく良くなり落ち着いたと思っていたら、先週また発熱。微熱ですぐに治まったが、また同じかと思い覚悟を決めた。
ところが翌朝、奇跡的?に熱は下がった。お腹が空いて、朝食も腹8分目食べることができた。朝食会場では私の大好きなアルビノーニのアダージョが静かに流れていた。神様が付いていてくれたと思った。熱が下がり、気をつけながら計画通り奥日光の紅葉を楽しむことにした。
 湯の湖畔を散策して、日光湯元ビジターセンターを訪ねた後、戦場ヶ原へ向かった。
【男体山:小田代が原より】

                                    【小田代ヶ原の草紅葉】












【西の湖までのシラカバ林】


赤沼から小田代ヶ原まで、約1時間、カラマツ、ズミ、ミズナラの紅葉の林の中を、すがすがしい気持ちで歩いた。小田代ヶ原は鹿の食害から生態系を守るため、電気柵で囲まれていて驚いた。原の向こうには太郎山、男体山が聳え、ジュウタンを敷き詰めたような草紅葉が本当に美しかった。草紅葉の赤い模様はホザキシモツケのようだ。
小田代ヶ原脇の林道に出て、低公害バスで西の湖へ寄ることにした。西の湖入り口で下車、約1キロのシラカバや樹齢千年を超えるミズナラの林を抜けると静かな湖がひっそりと佇んでいた。途中の中禅寺湖へ注ぐ清流沿いの紅葉はたとえようもなく美しかった。
 竜頭の滝では、滝に沿って整備された遊歩道を、上流から売店のある下流まで、滝の流れに映えるすばらしい紅葉を堪能できた。
 中禅寺湖畔の日光自然博物館で遅い昼食を取り、館内をゆっくり見た。日光のすばらしい自然、文化を改めて知ることができた。
 いろは坂を下り、今市から会津西街道を会津若松へ急いだ。今回は紅葉が目的だったが、来年は、蝶、トンボなど虫たちや高山植物を楽しみに、夏に訪れたいと思う。
 今回の小旅行では、助からない命を長らえ、この秋の美しい錦にふれ本当に幸せを感じることができた。反省をもとに、いつも医者に何時も言われていること、「身体を動かすこと」「食べ過ぎに注意すること」を守って、おだやかに大切な日々を過ごしたいと思っている。

【竜頭の滝】

トンボの思い出

2006-10-12 | 昆虫
 トンボの思い出はあまりない。でも、小さいころムギワラトンボ、シオカラトンボを鳥もちで追ったことを思い出す。ギンヤンマのあの水色、緑のコントラストは何とも美しく、あこがれだった。ムギワラトンボがシオカラトンボの雌であることを知ったのは、かなり大きくなってからだった。
 小学生のころからチョウに魅せられ、採集、飼育の楽しさがつのり、大学までチョウを求めて行ってしまった。田淵行男に見せられ、山野を駆けめぐったそんな青春時代も遙かな昔となった。飼育から調査、研究を経たチョウとのふれあいも、社会に出ると次第に遠ざかってしまった。
 青春時代にチョウを通して自然を見つめたこころは、その後自然環境問題へと関心が移っていった。最近は、チョウからトンボ、甲虫、その他あらゆる虫たちにレンズを向けている。そして、知らない世界が広がっていく楽しさを感じている。
 今年出会ったトンボをいくつか、スクロールで挙げてみる。

【 アオイトトンボ・アキアカネ・オオシオカラトンボ・キトンボ・コシアキトンボ・オオルリボシヤンマ・ギンヤンマ・ミヤマアカネ・マダラナニワトンボ・ヨツボシトンボ 】


 今年出会ったトンボたち   
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       アオイトトンボの産卵                                      アキアカネ                                             オオシオカラトンボ♂                                     オオシオカラトンボ♀                                        キトンボ                                                 コシアキトンボ                                         産卵するオオルリボシヤンマ                                  ギンヤンマの産卵                                         ミヤマアカネ                                            マダラナニワトンボ♂                                         ヨツボシトンボ♂         
 
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鶴岡への旅 (その2)

2006-10-11 | エッセイ
          【庄内藩校致道館】

 拙ブログ10/9「鶴岡への旅」に関連して、その時のエッセイを2つ

【エッセイ】 「藩校致道館を訪ね教育の根本を思う」 (2005.10)
 山形県鶴岡市にある庄内藩校致道館を見学した。致道館は東北地方に現存する唯一の藩校建築物で、表御門から講堂を望む落ち着いたたたずまいに、少年達の素読の声が聞こえるような気がした。
 講堂には藩校で使用された教科書やその版木などの資料が展示され、深い感動を覚えた。また、「敬天愛人」の大きな額が掛けられ、西郷隆盛と庄内藩の関係に思いを巡らした。 「致道館」は論語の中の「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」からの命名で、その教育方針は、趣意書によると、自主性を重んじ各自の天性に応じ長所を伸ばすことに主眼がおかれていたようだ。これらの自学自修や個性の伸長は、正に今日の学校教育の指針に通ずるものである。
 会津藩の日新館や米沢藩の興譲館など、江戸時代の藩校教育は、それぞれ独自の気風を生み、すぐれた人材を輩出した。致道館を訪ね、教育の根本とは何かと考えさせられ、改めて”古きを温ね新しきを知る”思いであった。  

【エッセイ】 「県内にも欲しい先人記念館」 (2005.10)
 先日、山形県鶴岡市の鶴ヶ岡城址で大寶館を見学した。大寶館は猪苗代の天鏡閣を思わせる大正初期の擬洋風建築で、現在は郷土人物資料館として無料で公開されている。明治から昭和にかけて各方面でその道を究めた、鶴岡ゆかりの先人を一堂に集め、その足跡を顕彰、紹介していた。いつか、岩手県の盛岡先人記念館を見学し、そこでも郷土の文化人に触れ心から感動した覚えがある。こうした施設が福島県にもあればと思った。
 地産地消というの言葉が使われるが、教育も同じと思う。野口英世を知らない人はいないだろうが、会津の山川健次郎、松江豊寿はどうだろうか。郷土の先人の業績、生き様を、特に子供たちに教えることは、彼らの豊かな人生を送る糧となるに違いない。
 鶴岡が生んだ先人の偉業に触れながら、福島県内にも、個々の記念館、美術館でなく、こういう観点から多くの先人を顕彰し学ぶ施設が欲しいと思った。

雑踏を離れて豊かなひととき

2006-10-10 | エッセイ

遥か北に、磐梯が青空に映える。会津本郷から高田へ、無数のイナゴの飛び交う、半ば稲刈りの済んだ畦道を歩いた。
たわわに豊かに実った静かな広い空間に、コンバインの音が響く。忘れかけていた昔のように小川が静かに流れ、きれいに敷き詰められたもみがらに、爽やかな風が吹き渡る。  
畦に腰をおろししばしたたづむと、別の世界が広がる。紅色のイヌタデにルリシジミが輝き、ノコンギクにはキタテハ、ベニシジミが密を求める。夏の暑さを耐えた草々、草むらでコウロギが鳴いている。目にするすべてが秋の陽にうるわしく、どんな芸術作品も及ばぬ美しい造形が身近にあった。じきに訪れる寒い季節を前にした生き物の、精一杯の生活を静かに見つめた。
 畑のリンゴも赤く色づき、三角のソバの実が黒く熟して来た。
 年に一度めぐり来た秋を、心から観察してみたかった。雑踏を離れての、ぜいたくな、豊かなひとときだった。