9年前、長期入院中に励まし合ったKさんの奥さんが会津を訪ねて来られた。
昨夜猪苗代に宿を取り、今朝10時に妻と若松駅へ出迎えた。
地元伊勢原市在住のKさんは同じ福島県人、福島市の出身で病室が同じ階で、私より元気だった。
具合の芳しくなかった私の病室をよく訪ねて励ましてくれた。
退院後も、1~3ヶ月の検診に上京した際も、偶然病院でお会いしたことも二度あった。
その後、数年してKさんの訃報に接した。ことしはKさんの7回忌という。つかの間のだったような気がする。
いまは一人になった奥さんはようやく落ち着き、あちこち旅行を楽しんでいるそうだ。
何時しか妻とはメル友に、ときどきメールでやりとりしている。
市内を案内するつもりでいたら、「塔のへつり」へ行きたいとのこと。意外だった。
下郷までの車の中で、Kさんの病気のこと、孫たちのことなどいろいろな話をした。
運転しながら二人の会話を聞き、入院中の辛かったこと、そして健康で過ごしている今の幸せをつくづく思った。
塔のへつりは、もう30年ぶりくらいになるか。
子供が小さいころ、狭い「へつり」部分でお弁当を広げた覚えがあったが、立派な吊り橋も架かり、その頃とはかなり違っていた。
売店で、その頃求めたナメコの木工の置物を見てとても懐かしかった。
今は川口に住む彼女の帰りの電車が2時過ぎ、少し時間があるので、折角来られたので、近くの大内宿へ案内することにした。
かやぶき屋根の宿場が連なる大通りをゆっくり歩いた。さわやかな五月の風が気持ちよかった。
お昼は名物の一本ネギ蕎麦を楽しく食べた。冷たい汁をネギ一本で食べる。ネギは根元はいいが、食べ進むと辛くなった。
初めての体験だったが、結構食べやすく、おいしかった。おいしい蕎麦を味わうことが出来て、いい思い出になった。
帰りはコブシラインを本郷へ抜けた。思い出の地で、新しくできた本郷焼きの資料館や陶磁器会館で、窯元の作品を見ることができた。
駅まで送り、お互いの健康を祈念してお別れした。Kさんの奥さんには、楽しい思い出の旅となったことだろう。
Kさんもご一緒だったらとの思いがわいて切なくなった。
土曜日、赤井谷地から国道への近道の道路脇で、なにやら発掘作業が行われていた。
尋ねると、旧石器時代の遺跡の発掘調査で、郡山女子大、東北大、県などの共同研究調査のようだ。ジャージ姿はザベリオの女子高校生だった。
この付近は、最近1980年代からの調査で遺跡群が確認され、急速に資料収集されたようだ。昔、「岩宿の発見」を胸躍らせて読んだ記憶がある。その後、遠路、岩宿遺跡を見に行ったこともあった。 【(参)拙ブログ「岩宿の発見」(2009-09-30) 】http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/bff234bfdb2bc14fc7a97884356a8618#comment-list
当時の、「日本にも旧石器時代があった」の時代から、いつ急速な研究調査が進んだのだろう。
今、会津の笹山原遺跡は東北地方でも有数な遺跡密集地として注目されている。
特に後期旧石器時代前半期の石器群と、終末期の細石刃を主体とする石器群の確認例が多い。
日曜日、武琉を連れて発掘の様子を見せに行った。笹山原の公民館前の駐車場にはバスが止まっていた。
郡山女子大の附属高校の生徒が小さなスコップを手に熱心に発掘していた。
粘土層は2万7千年前の地層、そこに埋もれてる石刃を丁寧に見つけていた。
発掘している遺跡の中央には、縄文時代の墓と見られる石ころ集まって出ていた。
武琉も興味深そうに見つめていた。
粘土地層の上には5,60センチの黒い土があったが、その中に見える小さい石粒は、2万年前の金山の大噴火の火山灰らしい。
ついでに、里山を一巡りと思ったが、彼の興味がいまいちだった。
帰路、ヒメシロチョウの郷に寄ると、この前草刈りがされていなかった土手がきれいに刈られていた。残念でならなかった。
先日、ヒメシロチョウが遊び、産卵していた土手のツルフジバカマもきれいに無くなっていた。
かろうじて、土手の半分が残されている。また見に来ようと思うが、このまま残して欲しい。
わずかに1頭が、寂しそうに舞っていた。
何とかならないか、行動を起こしたいと思った。
いよいよハラビロトンボが出現した。本日初見、額のブルーが懐かしかった。
午前中ウスバシロの楽園へ行くと、今最盛期だった。黒化した個体も結構いた。
路傍のセイヨウカラシナに5,6頭が集まって、時も忘れて吸蜜していた。
毎年、毎年、いうもこの時期、楽園にたおやかに舞うウスバシロチョウへの思いを書いてきた。
他のチョウ、トンボが減っている中、ウスバシロチョウは強く、たくましく生きながらえているように思える。
キマダラヒカゲも初見したが、ここはヤマキマダラヒカゲのようだ。
いよいよ夏の訪れだ。
ツバメシジミ♂
今年初めて赤井谷地周辺を歩いた。まだ虫たちも少なく、沈黙の湿原に磐梯山がくっきり聳えていた。
湿原周囲では、コサナエと、エゾイトトンボ、オオイトトンボが出始めた。
コサナエは今羽化したばかりか、初々しい羽が光っていた。
雄はくすんだ緑いろ、鮮やかな黄色は雌だ。若干雄は小さいように見えるが、色のせいだろうか。
オオイトトンボ
エゾイトトンボ
「衆生」は仏教では「生きとし生けるもの」を意味する。一切衆生が愛おしい。
人も、野鳥も、小さな虫たち、そして庭の木々も皆同じ、地球で生きる命だ。
ファイダーで見つめる小さな虫たちを、いつも愛おしく感じている。
新しい発見は、真新しい花崗岩の天然記念物境界が点々と埋められていたこと。
昨年秋かこの春だろう。私有地もあるのだろう、以前から会津若松市の境界石はあったが、不思議なことに間隔がまちまちだ。
狭いものはわずか数メートル、小川や農道から湿原への入り口当たりは50センチほどが並んでいた。何故だろうか。首をかしげたくなるような疑問が残った。
いつも心配している湿地帯もまだ草丈は低いが、大分植生が変わってきている。その後の乾燥化を防ぐ保全対策はどうなっているのだろうか。 (2012.5.26)
久々に妻と買い物、郊外の大型量販店へ。今朝の広告はバカでかい。
広告に比例するのか、広い駐車場は満杯状態、レジも長蛇の列だった。
妻は早速お目当ての品を買い求めた。
最近は、園芸がさかんになったものだ。家庭菜園だろう、野菜の苗がずいぶん売れているようだった。
我が家も、庭はほとんど花でいっぱい。野菜を植えるスペースはわずかだが、ずいぶん前にトマト、キュウリの苗を数本植えた。
種を蒔いたエンドウやインゲンも大分伸びてきた。いまから収穫が楽しみだ。
特別欲しいものはなかったが、大分傷んできたサンダルを新調した。
あまり行かないスーパーへも寄った。
身欠きニシンが目に入った。勢いよく伸び始めたサンショウの新芽が浮かんだ。
毎年、ニシン鉢に自分の味付けで漬けていたが、つい、隣に並んでいた出来合いの漬け汁に手が伸びてしまった。
ま、いいか! 早速、庭の山椒の新芽を摘んで、ニシンと交互に並べた。
容器も、重く大きいニシン鉢をやめて、今年はタッパーに漬けた。 手抜きも良いところだ。
ニシンの山椒漬けは会津の郷土料理で有名になった。
江戸時代初期から新潟から阿賀川を上り会津に運ばれた身欠きニシンは、山椒の特性を利用して
腐敗を防ぎ、ニシンの生臭さを取り除き、味のアクセントを付けるという、先人の知恵で生まれた。
2週間もすればおいしく浸かるだろう。 しばらく酒の肴で楽しめそうだ。
きのうの不動滝行きは快適だった。今日も自転車で行けるところへと思い出かけたが、日差しが強く暑かった。
これから夏に向かっては、やはり気をつけなければいけない。
田植えの済んだ広い田園風景、遠くに残雪の飯豊の山並みが美しかった。
源義経と皆鶴姫の悲恋物語を伝える碑「皆鶴姫の碑」を見てきた。
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「義経伝説と会津」(石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」)より
源義経が、京都の鞍馬寺に預けられているとき、兵法書を吉岡鬼一法眼が持っていることを知り、見ることを願い出るが許されず、娘の皆鶴姫に近づき、兵法書を写し取ることに成功する。平氏の追っ手が近づいていることを知り、義経は平泉に逃れた。皆鶴は、義経の後を追い、会津に来たが、追っ手により発見され、義経との間にできた帽子丸がとらえられ、沼で溺死。皆鶴は、藤倉の難波沼まで来たが、身を悲観し、沼に身を投じて亡くなった。墓が造られ、難波寺が建てられたが、寺は廃寺となった。この碑は、寛政5年(1793)に会津藩で建てられた。
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また、皆鶴姫の碑のすぐ南には、3基の板碑「暦応の碑」があった。南北朝時代に造られたもののようだ。
右から、阿弥陀如来を表す「キリク」、観音菩薩を表す「サ」、勢至菩薩を表す「サク」が彫られている。
田の畦のヒメジョオンにウスバシロチョウが吸蜜していた。のどかな田園風景だ。
ときどき、身近な文化財を訪ね郷土の歴史に触れたいと思っている。
おそらく20年ぶりくらいだろう。自転車で滝沢不動滝(別名:白糸の滝)へ行った。
旧滝沢本陣を真っ直ぐ東へ、不動川林道へ入る。林道から神社への参道入り口までは2、,300メートルか、滝への下り口に新しい石碑が建っていた。
「第18番観世音菩薩 不動尊 白糸神社 北向稲荷神社 参道」と彫ってあった。
参道の両脇には赤いのぼり「南無不動明王」が数十本、滝まで続いていて、昔より大分整備されていた。
娘が小さいころ、ここで蜂に刺されたことを思い出した。
滝に向かって右側に白糸神社が、橋を渡り左手に滝沢観音堂、右手滝の左に滝沢不動尊が建っている。
ひんやりする林の中で、それぞれに手を合わせた。
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観音堂は慶安3年一箕山の八幡神社に建立され、それ以後、観音堂は神社内にあるにもかかわらず会津観音18番札所として一箕山滝沢寺と呼ばれるようになる。
つまり一箕山滝沢寺は、神仏混合の神社だった。しかし、明治期の廃仏毀釈によって現在の滝沢不動院内に移された。
滝沢の落ちて流るる滝の水
かかる末々弥勒なるらん
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左が観音堂 不動明王
今朝はヒメシロチョウの分布調査だが、ほとんどツマキチョウだった。
他には、日当たりの良い林道に、カラスアゲハ、オナガアゲハ、テングチョウが吸水に来ていた。
チョウの種類が少ないのは、杉が主体の山だからだろうか。
帰路、林道の入り口のO大先輩を訪ねたが、ひっそりしていて、お留守だった。もう85才位になられるだろうか、お元気だろうか。
何年もお会いしていない思い出の先輩だ。
自転車で家を出たのが 9時過ぎ、10時半にはもう帰宅できた。
日中晴れていたが、午後からは風が出てきて肌寒い一日となった。
天気の良い日には、なるべく歩くようにしたいが、明日は何処へ・・・・。
武琉くんが科学実験クラブで作ってきた「太陽めがね」を使って、家族で日食観察をした。
北側の庭で、朝食中にときどき外に出て覗いた。ラッキーなことは、きょうは土曜日の運動会の代休だった。
ピンホールボックスでも作ってやろうと思っていたが、出来ず、急遽、観測用のプリントを印刷して、それぞれに記録をとることにした。
6時半過ぎ、太陽メガネを覗くと、太陽の右上から欠け始めていた。約10分おきに月の黒い部分をスケッチした。
何故か、ばーちゃんが一番積極的で、頻繁に覗いていた。
小生も、もう見ることは出来ないか?と思うと、この目でよく見ておこうと、食事もそこそこにしょっちゅう覗いていた。
スケッチは子供たちには結構難しかった。欠けているところを、時計の文字盤に当てはめ、明るい太陽部分の幅などに注意して書かせた。
データでは7時38分頃に最大食となる。わずかに右下側が太陽光が見えなかったが、劇的なショーにみんな感動した。
朝食中、各地のライブ映像、東京での金環食などをTVで見た。天気に恵まれたひとときの天文ショーに魅せられた。
東京都墨田区で見えた金環日食(午前7時34分):小川智撮影
成長した暁に、今日の観察の様子が子供たちの記憶にどのくらい残るだろうか・・・と想像した。
「金環日食」は、日本では、1987年9月に沖縄で観測されて以来、25年ぶり、次に見ることができるのは、北海道で18年後の2030年6月だそうだ。
もう一度見ることが出来ればいいが。
ブログ「京の辻から」(http://blog.goo.ne.jp/kyoto-10nen)に「五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする。」(萩原朔太郎)とあった。
今日も里山を巡ったが、街の雑踏を離れると、少しばかりの林の中にも五月の風が清かに吹いていた。
たしかに、五月の新緑と薫風に心癒され、煩雑なことをすべて忘れさせる贅沢な気分は、貴族の生活だ。
深閑の林や森はすべて5月に包まれ、山川草木のすべてが美しかった。
せせらぎ、野鳥のさえずりを聞きながら、山道を一歩一歩進んだ。目の前の大木の幹に、黄緑色のアオゲラが止まった。
赤い頭は見えなかったが、お腹の横縞模様はコゲラを思わせた。 眼下の田では田植えが始まり、遙か残雪の飯豊山が雄大に聳えていた。
時期が来れば、チョウが舞い、花が咲く。待ちかねたウスバシロチョウが五月の風に乗って、たおやかに舞っていた。
モンキチョウが盛んに産卵していた。最近あまり見ないレンゲの群落を見た。ヒメシロチョウやスジグロシロチョウが蜜を吸っていた。
カラスノエンドウに産卵するモンキチョウ ムラサキケマンに吸蜜するヒメシロチョウ
レンゲソウに吸蜜するスジグロシロチョウ 野生化したレンゲソウの群落
ウツギやフジも咲き始め、レンゲツツジが、満開だった。
人も同じ、このさわやかな時の流れの中に佇み、しばしたゆたい、癒されたい。
ようやく舞い始めたウスバシロチョウ、例年より大分遅い。
♂
会津に多い黒化異常♀
健康であればこそ、でしばし貴族の気分を味わうことが出来た。
こんな幸せはない。
遠い親戚のTさんが亡くなった。きのうの通夜、今日告別式に参列した。
十数年前までは、盆の墓参りにはご一緒していたが、もう何年もお会いしていなかった。
92才、戦争で軍医だったご主人を亡くしてから、気丈にお一人で過ごしてこられた。遺影を見つめながら読経を聞き、しばし、察するに余りある辛い人生を思った。そして、一族の家系に思いを巡らせた。みんな年をとり、代替わりした若い方々は初めてお会いする人が多かった。
みんな、忽然と生まれたわけではない。それぞれに縁有りて、親類縁者としてこの世で過ごしてきた。我が家の家系図にも、若い世代を加筆したいと思っている。
きょうは孫たちの運動会、妻と娘は昨夜から弁当つくりだった。娘は、今朝早くにグランドの場所取りにいった。
じいちゃんは葬儀の時間まで、雰囲気を撮りに行ったが、残念ながら、孫たちの活躍を写すことは出来なかった。
午後、葬儀から戻り、一人里山へ出かけた。きっかけは、庭にコミスジ、クロアゲハを見かけたからだ。
コミスジ クロアゲハ
良い天気で、里山で新顔を見たい気持ちを抑えられなかった。
予想したウスバシロチョウは1,2頭見かけたがまだ早いようだ。例年からは2週間ほど遅い発生のようだ。
でも、トンボは、シオヤトンボの♂、ヨツボシトンボ、エゾイトトンボ、オオイトトンボを初見した。
オオイトトンボ エゾイトトンボ
シオヤトンボ♂ ヨツボシトンボ
エゾイトトンボ オオイトトンボ
イトトンボはほとんど羽化したばかりでひらひら弱々しく飛び、体色も出ていなかった。最近までいた、ホソミオツネントンボは姿を消した。
ヒメシロの楽園を訪ねると、土手はまだ草は刈られず、ツルフバカマも大分伸びていた。初めてペアを見た。
いろいろな花に止まるヒメシロチョウを撮った。ヒメシロチョウは今が盛り、やはり食草さえ刈らなければ、絶滅の心配はないと思えた。
ベニシジミ
ツバメシジミ ♂ ♀
Hさんのりんご園に寄った。満開のリンゴの花の彼方に、わずかに残雪の残る麗しの磐梯がさわやかに見えた。
ツガル
連休のころ、ギフチョウが舞い始めるが、今年は雪が多く、寒さも厳しかったせいか発生が遅れていた。連休前半に様子を見に行ったときは、まだまだ雪が深く、折角の遠出だったので鳥追い観音と大山祗神社に参拝してきた。ブログに書いた。
5/4(月)、朝からめったにない快晴に恵まれ、期待のギフチョウの撮影に出かけた。
高速で30分、インターを下りてポイントのギフチョウの生息地に向かった。多くはないが、このあたり、杉の林の中にギフチョウの食草コシノカンアオイが自生している。少し丸みのあるのはヒメカンアオイらしい。
村の通り端の家々の軒先に筵を敷いて、ゼンマイを作っていた。この風物詩、この前来たときは例年より遅く、見ることが出来なかった。
約2週遅れ、どの家でもゼンマイを揉んで乾燥させているところだった。
農家のおばあちゃんと立ち話をしていて、早々に嫌な話を聞いた。連休中にも、捕虫網を持った輩を見たという。ギフチョウを採って、ネットで販売しているようだ。数年目にも、行き会ったそんな自称虫屋から名刺までもらったことがあった。絶滅が心配されるギフチョウだ。町で採集禁止の条例を作るべきと思っている。これも何度かブログにも書いた。
きょうは3カ所で1頭づつのギフチョウに会えた。1年ぶりの再会が嬉しかった。そして、愛おしかった。もう遅いかと思っていたが、部分的な写真だったがなんとか撮影できた個体は、羽化したばかりのように翅がよれよれに見えた。羽化が始まったところかも知れない。別の場所では、今まさにキクザキイチゲに止まりかけたところを、寸前で撮れなかった。他にも、エンゴサクに吸蜜に来たが残念ながら撮れなかった。
帰路、また大山祗神社に寄り道して参拝、今度は、約4キロの山奥にある御本社(奥宮)を目指した。しばらく急な山道は歩いていないので心配もあった。なんとか昔取った杵柄とは言え、病後弱った体調だ、大いに不安があった。
結構きつかったが、途中いろいろ写真に撮りながら、無事に参拝を済ませることができた。
でも上りに約1時間30分もかかってしまった。途中の山道の脇にはまだかなりの積雪箇所もあった。
杉並木を行くと、足下はミヤマカタバミの群生、他にカタクリ、エンレイソウが一番の見頃で可憐に咲いていた。せせらぎを聞きながら、深閑の森を一人歩を進めた。
一歩一歩山道を行くと、いろいろな思いが巡った。今こうして健康でかなりの距離を登り下りできることを心から感謝した。
家族のこと、日々の生活のこと、これからの生き方などが次々と巡った。お遍路道もそんな思いで巡礼しているのだろう。普段の里山では考えないことが浮かんできた。
途中は、やはり山が深く、トチの木を食草とするスギタニルリシジミが多かった。濡れた路傍に吸水したり、アブラチャンの梢に蜜を吸ったり、なかなか活発に飛び交っていた。
特に、西日を浴びて、すっかり伸びたコゴミの原でのスギタニルリの入り乱れての乱舞は、ゼフィルスを思い出させる飛翔だった。
裏面の地色はルリシジミは白いが、明らかに暗い褐色だ。なかなか開かない翅表も藍色部はルリシジミより暗く紫がかっている。開かない翅の縁が何となくルリ色に輝いて見えた。
暗い紫の翅表♂
他にはトラフシジミやコツバメを初見できたできた。
毎年、6月1日から30日まで、家内安全・五穀豊穣を祈願する大山まつりが行われる。境内では野点や御神楽奉納などが行われるらしい。
大山祗神社は「野沢の山の神様」で、一生に一度の願いは三年つづけてお参りすればかなうと聞いた。
来年、再来年と、3年つづけてお参りしてみようと思っている。 (2012.5.14)
水が入った田の土手をヒメシロチョウが静かに舞っていた。ベニシジミ、ツバメシジミも現れた。
ツマキチョウ♂ ♀
ベニシジミ
ツバメシジミ♂ ルリシジミ♀
根の乾かないシオヤトンボが倒木に日向ぼっこ、不順な天候が続いているが、ようやくいつもの初夏のさわやかさを感じた。
山あいに田が伸びているが、どの田の土手も伸び始めていた草がきれいに刈り取られていた。一番奥の田の土手だけが、緑が残っていた。
白いか弱いチョウたちが、伸び始めた種々の草の間にツルフジバカマを見つけて産卵していた。ひっそりした日曜日の里山はヒメシロチョウの楽園だ。
食草のツルフジバカマ 産卵時は、腹部を直角に曲げている。
ヒメシロチョウのデート 結構長い時間、ストローを伸ばし、触角を触れ合って仲良くしている。残念ながら交尾は確認できなかった。
エゾタンポポに吸蜜するヒメシロチョウ、こんな光景がいつまでも続いて欲しい。
ヒメシロチョウは弱々しく飛ぶがなかなか止まってくれない。自動でピントを合わせて連写する。下手な鉄砲だが、数枚なんとかみれるものがあった。
準絶滅危惧種に指定されているヒメシロチョウ、年々少なくなっているような気がする。
この土手の食草も何時刈られるのか、おそらく成虫まで育つことはないだろう。切ない気持ちでいっぱいだ。
いつか山の公園の除草で気づいたことを訴えた。
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一面の芝生のわきに小川が流れ、境の土手には豊かな秋の草むらがあった。そこで紫色のきれいな花をつけるツルフジバカマにヒメシロチョウがさかんに食草の産卵していた。 翌日行くと、その草むらが跡形もなく除草されいた。ヒメシロチョウは、県の準絶滅危惧種に指定され、ほんのわずかな空間で生き長らえてきたチョウだ。落胆し言葉もなかった。
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結局、翌年からヒメシロチョウを見ることはなかった。
行動範囲が狭い種である。食草が刈られてなくなれば、種は絶滅する。
土手の草刈りがとてもさかんだが、特に田の稲に影響の少ない土手の草は遺すようにできないのだろうか。
ジャコウアゲハも同じ運命にある。しょっちゅう土手の草刈りが行われ、ウマノスズクサは育つ閑がない。運の良いジャコウアゲハチョウがなんとか種を遺している現状だ。
我が家にも数本のウマノスズクサがあったが、訪れるジャコウアゲハが結構産卵していく。
かわいい幼虫も令を重ねると食欲旺盛、伸びた蔓にもお構いなし、途中の太い茎を食いちぎってしまう。今年はまだ芽が出ていないので心配している。
町中の庭でウマノスズクサを殖やせないものだろうか。
こうした議論は、生態系のバランスを考えると賛否あろうが、営々と生き延びてきたチョウを守りたい一心だ。
隣の宮城や栃木でも絶滅のおそれがあるようだ。なんとかこの弱々しいチョウを守ってやりたいと思っている。 (2012.5.13)
気温12,3℃は寒い。例年こんなに不安定な春だったろうか。
連休の後半から、ほとんど雨模様、今日も曇り空からときどき雨が降った。
初夏のこの時期、例年はウスバシロチョウが舞いさわやかな初夏を堪能していたと思う。
昨年のブログを見てみると、晴天続きだったようだ。やはり庭の小さな自然を眺め、村民の詩を書いていた。
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二度と無い人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでゆこう
・・・・・
・・・・・
二度と無い人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめて見つめてゆこう
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少し厚着して、目に付いた庭の花を撮った。
百花繚乱といったところ、素晴らしい。早く天候が回復し、快適に里山を巡る日を期待したい。
カリン ライラック
八重ヤマブキ 白侘助
ナデシコ スノーフレーク
リュウキュウツツジ スズラン
マイズルソウ ルナリア(大判草)
ドウダンツツジ ユキツバキ系
サクラソウ ツルニチニチソウ
ツツジ 君子蘭
多少のずれはあっても、年々歳々花相似たりだ。
いつも我が家の近くの里山を巡っているが、きのうは市内の南、門田御山の里山を目指した。ヒメシロチョウの分布状況を知りたかった。
穏やかな日だったが、チョウは少なかった。でも、知らない土地を訪ねる楽しさはあった。
御山地区は身知らず柿の産地、普段は国道から柿畑をみていたが、地区に入ると山の裾野一帯に広大な柿畑が広がっていた。
何軒もの果樹園の表示があった。柿畑の中に郷社八幡神社にお参りした。
さらに南へ向かうと、堤沢字上村に会津五薬師の南方薬師 野寺薬師があった。説明板には徳一菩薩が東西南北と中央に五薬師を創設した、とあった。
中央薬師は勝常寺、東方薬師は慧日寺だ。そもそも徳一が薬師信仰を会津にもたらした理由は2つある。1つは、法相宗の信仰対象が薬師如来であったこと、2つは、薬師如来は人々が生きている間、病気や災いから守ってくれるものであるため、死後の世界を守る阿弥陀如来などの信仰よりもわかりやすく、人々に広く浸透しやすいものだったという。
大戸方面に向かうと鹿嶋神社があった。急な石段を登ってお参りした。
しばらく馬越しまでの山沿いを歩くと、かなり翅の傷んだクジャクチョウがまだ元気に飛び回っていた。今年初めてヒガシカワトンボをみた。
たまに舞ってくるシロチョウはツマキチョウとスジグロシロチョウのようで、ヒメシロチョウには会えなかった。
家から5,6キロか、折角ここまで来たので、本郷を回って帰ることにした。
馬越のまこと橋を渡った。橋のたもとに小さな取水施設があったが、新しいもののようだ。
昔、会工の競歩大会は、蟹川橋から大戸の馬越しを通り、本郷を走る、約20キロのコース、この付近の監督をしたことを思い出した。
その頃はアユのヤナ場があって、子供たちが小さいころにここで塩焼きを食べたことが浮かんできた。
本郷方面へ進むと、左下り観音入り口の表示、そうか、会津33観音の21番札所として有名なところ、急ぐ旅でもないので参拝することにした。
観音堂まで約1000メートルという表示、急な坂道を上り始めると、今年初めて見るミヤマセセリが先導してくれた。
まだ、ヤマツツジはつぼみが膨らんだところ、山道にイカリソウやスミレががきれいに咲いていた。
岩肌の見える山道を進むと、途中に 「うがい清水のアカマツ」の標識、でも、樹齢550年とあるアカマツは苔むした切り株だけが残っているだけだった。
少し汗ばんできたころ、急に左手の岩にへばりつく観音堂が現れた。
通称左下りが原の山腹に、高さ15メートルの3階建て、広さ36㎡の観音堂が厳然と聳えていた。趣きある観音だ。830年徳一の建立と伝えられている。
柱に手をやると、長い年月風雪に耐えた古い木材のぬくもりが感じられた。古くて乾燥した木材は強度も優れていると聞く。
わずか30年前後で解体してしまう最近の住宅とは、比べようもない重みがあった。もっと木の命を大切にしなければならない。
三十三観音巡りは、保科正之が会津の領主となった際に三十三カ所の霊場を会津領内に選んだのが始まりといわれている。(霊場・観音堂自体はそれ以前から存在)
当時は伊勢参宮や熊野神社参拝、西国三十三札所順礼などに出向く者が多く、多額の費用が領外に流出したため、その防止策として領内に大神宮や熊野神社を勧請し、巡礼のための霊場が選ばれたようだ。人々は一切の苦から救われるとの思いで三十三ヶ所を巡ったのだろう。これを機会に、いずれは巡ってみたいと思った。
三十三の霊場それぞれに御詠歌がある。
「左下(さくだ)りは 岩に聳えて懸造り いつも絶えせぬ 峯の松風」
本郷へ抜けると、陶石を削っている本郷山が見えてきた。
懐かしい大久保陶石採石場で、会津本郷焼の磁器の原料となる陶石や、飴釉、白釉の原料石を、今も採掘している。
かつて勤務した本郷分校は既にない。その跡地には、今小学校が建設中だと聞いた。
懐かしい瀬戸町商店街を通って帰路についた。
チョウの撮影を目的に出かけたが、会津の歴史の一端を巡ることになってしまった。
これからも、時間をかけて郷土の文化、歴史を見直してみたいと思った。
今朝、連休後半の発熱がぶり返した。思うに、炎症の再発のようだ。
終日、寒気に炬燵に入って静かにしていた。R錠は相変わらずよく効いている印象だ。
夕方、やっと落ち着いてきたが この時期、要注意だ。 (2012.5.9記)