エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

河井継之助の墓

2009-03-31 | 街中散歩
市街地を見つめる

昨日、懐かしい善龍寺を訪ねた帰りに、建福寺の墓地に「河井継之助君埋骨遺構」をお参りした。

北青木の建福寺前の十字路に「長岡藩総督 河井継之助埋骨地参道」と彫られた案内の石柱があり、裏には「明治戊辰百年祭記念 昭和四十二年八月 長岡藩殉節顕彰会」とあった。
 建福寺裏の静かな山道を少し登った高台に遺構はあった。継之助はそこで静かにお城を見つめながら眠っていた。
長岡藩家老で奥羽越列藩同盟総督だった河井継之助は、明治元年(1868)長岡城落城の際負傷した傷が悪化して、只見町塩沢で亡くなった。遺体は荼毘にふされて鶴ヶ城下の建福寺に運ばれた(長岡藩藩主牧野公が、当時滞在していた由縁からという)。

 10年ほど前、只見の塩沢に河井継之助記念館を訪ねた。その折りにも墓に参った覚えがあったが、その塩沢医王寺の墓所は荼毘の後、拾い残された細骨を村民が集めて建てたものらしい。

継之助については、司馬遼太郎の「峠」と「風雲児」でその人柄、才知を知るが、かれもまた、ときの流れに翻弄された傑物だ。諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていくことを志向した継之助だが、その先進的な考えは理解されず、開戦へと突き進み、戦いのなかで落命していった。


 以下は、記念館を訪ねたときのエッセイ
************************************
「一人の英傑の生涯から学ぶ」 (1998.10.28 福島民友新聞に掲載)

 大河テレビドラマ「徳川慶喜」も終盤を迎えた。維新史に精通した父の残した書籍を読み返しながら戊辰の戦いを振り返っている。
 秋の深まる南会津塩沢に河井継之助記念館を訪ねた。父の思い入れもあり、私にとって河合継之助は特別な人だった。だから来館者名簿にはあえて今は亡き父の名を連署した。前の欄には、会津と同じ運命をたどった長岡の人の記載があった。
 館内のビデオ「塩沢に逝く」では、当時の日毎の記録が語られ、背筋が震えるほどの感動を覚えた。近代国家誕生の大きな犠牲を払った長岡と会津の歴史、何人もどうすることもできない時の流れの中に散った継之助の運命を思った。傷を負い戸板の担架に仰臥して八十里峠を越えた継之助の目に、木々のそよぎはどう写ったのであろうかと想像した。
 一人の英傑の生きざまから多くを学ぶと共に、戦いの空しさがこみ上げてきた。
*************************************


 「長岡藩士殉節の碑」が門田飯寺の本光寺にある。今度訪ねたいと思っている。
 (戊辰戦争で長岡城落城の後、長岡藩藩士山本帯刀を隊長とする一隊は八十里峠の難関を越えて会津に入り奮戦した。しかし早朝の濃霧の中飯寺河原で新政府軍に包囲され、隊長以下44名が戦死した。明治23年村民が供養の碑を建てて霊を弔ったが、その後昭和31年会津史談会が新たにこの殉節の碑を建てて供養した。)

日記@BlogRanking

なつかしい善龍寺界隈

2009-03-30 | 街中散歩
            なつかしい善龍寺山門


 かつて、若松に戻ったころ門田北青木に1年半住んだことがある。借りていた家は善龍寺のすぐ脇にあり、いつも山門までの道で子どもたちと過ごすことが多かった。
買い物の帰りに善龍寺界隈を歩いた。実に30年ぶりだ 昔リンゴ畑が広がっていた付近には、いま御山へ抜ける小田橋通りができ、大型のホームセンター、スーパー、電気量販店が軒を並べている。かつての面影はない。一歩大通りを脇に入ると、小さく残ったリンゴ畑に30年前と同じのどかな春が感じられた。

 懐かしい善龍寺の山門からお城を望むと、過ぎ去りし日々が今更のように蘇った。
境内にある「なよ竹の碑」に立った。戊辰の役に殉じた233名の名前が刻まれている。その碑の前には、花を付けるアセビに囲まれ、会津藩家老・西郷頼母の妻千重子の辞世の碑が建っている。
 「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け
 切ない戊辰戦争の悲劇を語る歌だ。
 
 この寺には西郷頼母一家の墓がある。今回、初めて頼母夫妻の墓参りをさせてもらった。 墓の脇の解説文には
「 ・・・生前から保科家歴代の墓所に用意されていたが、祖先の墓石のいずれよりも小さくその人柄が偲ばれる・・・」とあった。

 西郷頼母は藩主・松平容保の京都守護職就任をやめるよう強く進言し、又、戊辰戦争では和議恭順を主張した人物でもある。
 慶応4年(1868年)8月23日西軍が若松城下についに侵入、西郷頼母は城中にあったが、城外の家老屋敷に残された頼母の母律子、妻千重子など家族9人と一族12人は戦いの足手まといとならないよう邸内で自刃して果てた。
 
 今度青木山へ登ってみようと思っている。。



春の朝の雪景色

2009-03-29 | 自然観察
              雪を被ったサンシュユ

このところ、カーテンを開けると春の雪の朝が続いているが、いつまで見れるだろう。毎朝の春の雪景色がとても趣き深い。夜のうちに降る雪が、美しい墨絵の世界を演出してくれる。やがて朝日が当たるまでのはかないいのちだが、それぞれに趣きありその美しさに堪能している。
 
 ここ数日、庭の温度計は零下2、3度だが、今朝の雪は湿っぽく重そうだった。
 春の朝の一コマを写真に撮る。生きている喜びを感じるひとときだ。
 こんな雪景色もそろそろ見納めだろう。


   ウメ膨らむ

   ほのかに紅い ジンチョウゲ

日記@BlogRanking

歯科に通う

2009-03-28 | 健康
           今朝の 春の雪 

 正月から歯科通院が始まった。爪楊枝を使っていたらかぶせた銀歯がぽろりと取れてしまった。この前、数十年放っておいた歯を本格的に治療したのが14,5年まえ、その後も適当な歯磨きのせいもある、かなりの治療を受けることになってしまった。
 今日も親知らずの神経を抜いた。麻酔の威力はすごいものだが、やはり痛い。

 治療を受けながら、遠い昔、歯に苦しんだことを思い出した。あれは、学校に上がった頃だった。歯が痛く、泣きながら母に背負われ歯医者へ通った頃のことを断片的に思い出した。あれから半世紀の時が流れた。あのときの奥歯だろう。
 小さいころから歯には苦労してきた。長い間歯にはお世話になりながら、粗末に扱ってきたツケがときどき回ってきたのだ。後悔しきりだが、しばらくはやむを得ない歯医者通いが続きそうだ。
 歯磨きの具合をチェックされ、日頃の歯磨がいかに大切かを今更のように知った。歯は健康の源、ときどきのつらい体験が健康管理の反省になればと思っている。
 

キクザキイチゲ

2009-03-24 | 自然観察
          咲き出したキクザキイチゲ

キクザキイチゲが一輪可憐に咲き始めた。
フクジュソウも数日前に咲き出したと思ったら、大分背が伸び葉が茂ってきた。いよいよ春の始まりだ。例年今の時期、話題にする庭の花は同じだ。サンシュウの小さな黄色い玉が1,2個開き始めた。昨年のブログを見ると、どの花も今年は1週間ほど早いようだ。
 冬の間家の中に取り込んでいた鉢物を、一部庭に出した。久々の陽の光のもと、水をたっぷりあげた。でも、この時期は夜はかなり冷えるから、また家に取り込むようにしないといけない。
 穏やかな春日和に孫たちもずーっと外に出っぱなしでよく遊んだ。ボール蹴りや自転車乗り、植木の水やりや土いじりとめいっぱい動いていた。プラスチックのテーブルを組み立て、庭でお茶を飲んだ。私はマスクをしながら・・・。
 葉がすっきりしていて好きなワサビも花芽を付け始めた。今年も一株を鉢に上げて楽しもうと思っている。


庭に野鳥の巣箱をかける

2009-03-23 | 自然観察

冬の間は、ウメやサクラの枝に刺したリンゴにヒヨドリがよく来ていた。また、車のサイドミラーにはしょっちゅうシジュウカラが遊んでいる。スズメやカワラヒワはいつも数匹で庭の地面に集まっている。


 先日、庭にバードテーブルを作ってやった。そして昨日は、巣箱を作った。少しでも小鳥たちが訪れる機会を多くしたいと思っている。
 秋口から孫と巣箱を作る約束をしていたが、なかなか約束を果たせないでいた。
きのう、適当な板を買うつもりで近くのホームセンターへ行ったら、板の切れ端を売っていた。袋に詰め放題で200円だ。適当な大きさの板をいっぱい袋詰めにした。さっそく武琉君と一緒に板を適当に組み合わせて巣箱2個が完成した。製作費は1個100円だ。
 武琉君は釘打ちに興味を持ち、すぐに慣れて上手に打ってくれた。完成した巣箱を、桐の木の下のモミジの枝の股と、西側のケヤキの安定のいい枝に取り付けた。 車が入ったり人が通ったりする場所で、この巣を利用してくれるかどうか心配だが、しばらく観察してみたい。これから葉が出て隠れれば、案外いいかもしれないと期待をしている。

 あとからネットで調べてみたら、巣箱をかける最も良い時期は、やはり秋のようだ。また、巣箱を利用する野鳥は、スズメ、ムクドリ、シジュウカラ、ヒガラなどで、出入り口の穴も種類によって寸法があるようだ。矩形に空けた出入り口は少し大きすぎたようだが、どうなるものか楽しみにしている。


会津彼岸獅子 春の訪れ

2009-03-22 | 文芸


  彼岸の墓参りの帰りに、街中を廻っている彼岸獅子にであった。天寧 彼岸獅子だった。
長い冬に終りを告げる春彼岸の会津の風物詩、春の訪れを喜びあう会津の伝統行事だ。3体の獅子が笛と太鼓の音色に合わせ、美容院、寿司や、ラーメン屋の前で舞っていた。
古式ゆかしい舞をみながら、ほんとうの春の訪れを感じた。長い伝統があるこの舞いを、昔の庶民がどんな目で眺めていたのだろうか。
 舞い終った獅子に、孫たちとの記念に写真をお願いした。


会津若松市内では、天寧・下居合・神指・北会津・小松などの獅子団がある。磐梯町、会津高田、西会津、喜多方市でも伝統の舞いが守られている。

*****************************
○ 会津彼岸獅子の歴史 (ネットより)
天喜四年(西暦1056年)前九年の役に源義家が安倍貞任を征討の際、士卒の戦死者を弔い、士気を鼓舞するため、従軍の兵卒に笛太鼓の勇壮な調子に合わせて舞をさせたのが起源で、当時は木彫の獅子頭をかぶって踊ったと言われています。
 今でも木流村にある頭はその類であるが、現在のものは大体張子になりました。
 今から約300年(天正二年・西暦1573年)前、会津一円に悪疫が流行し死者数知れぬ惨禍があった時に、主な社寺に獅子舞を奉納し平癒を祈願したところ次第に終息したと言う。
 折しも春彼岸であったために彼岸獅子と呼ぶようになったと伝えられています。
 寛永二十年(西暦1643年)に保科正之公が出羽の国「最上」(今の山形県)から会津藩主として移封された時、獅子を先頭にして若松城に入城し、大いに士気を鼓舞したと伝えられています。
 また、戊辰の役(西暦1868年)のこと、日光口の総督「山川大蔵」が帰城する際、小松の獅子団を先頭に大楽団を組織し、威風堂々と銃列を敷く敵中を行進して城中に入るという話はあまりにも有名です。
 *******************************

日記@BlogRanking

花粉症に苦しむ

2009-03-21 | 健康
   スギ林に抱かれる我が家


今年は花粉症がひどい。突然のくしゃみ、鼻水と目の痒みに辛いときもある。
我が家の庭の西側にスギの林があるし、直線距離20mには有名な天狗杉がある。だから、この時期は仕方ないとは思っている。雨の日は何となく気が落ち着く。
 ちょっと庭に出ると、くしゃみと鼻水だ。目もこすると返って痒みがひどいことになる。しょっちゅううがいをしたり目を洗ったりしている。対策はマスクだ。ちょっと庭に出るにもマスクを欠かせない。最近の使い捨ての薄い不織布などは安価で良いが、メガネが曇って煩わしい。少し厚手のガーゼマスクにウエットフィルターを付けると良いようだ。
 初めて花粉症の症状が出たのは、いわきへの転勤の年、昭和63年だったことを覚えている。もう約20数年も苦しんでいることになる。
 昔からスギ花粉はあっただろうに、花粉症は最近の病だ。どうも大気の汚れにも一因があるようだ。今日も花粉が飛びそうな陽気になりそうだ。

清楚な紫の花

2009-03-20 | 自然観察
         【ベルフラワーはキキョウの仲間】

 毎朝5時近く、ラジオ深夜便の終わりに『今日の誕生日の花』が紹介される。
今朝の花は「スミレ」(菫・スミレ科)、花言葉は「謙遜・誠実・真実の愛」だった。
 すみれと言うと、思い出すのは芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」だが、私の中では「ゆかしい」というより「清楚」な印象だ。
 ついこの前、ビオラやパンジーの苗を沢山買ってきて寄せ植えにしたりしたが、これらも品種改良されたすみれの仲間だろう。いろいろな色や模様がきれいだが、清楚さは野のすみれには及ばない。
 また、いま豪華に咲き誇っているベルフラワーは「すみれ?」と思っていたが、実はキキョウの仲間だ。観れば花の作りはキキョウそのもので、すみれとは違う。でもベルフラワーも豪華ではあるが、あくまで清楚である。薄い紫色がそう感じさせるのだろうか。
 庭にも、冬を耐えたすみれが大きな葉の間に茎を伸ばしている。じきに、紫や白いすみれが咲くだろう。今度しっかり観察してみたい。

 彼岸のお中日、昨夜から雨降りだがじきに上がりそう。
 年に何度か、先祖を思い、自分のこころを見つめたい。これから、父に、母に会いにお墓へ参る。

スピーチ「壁と卵」

2009-03-19 | 文芸

                【ミスミソウ咲き始める】

イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞が2/15、作家の村上春樹氏に贈られた。
「文藝春秋」4月号で、村上春樹の『独占インタビュー&受賞スピーチ 「僕はなぜエルサレムに行ったのか」』を読んだ。
有名になった「壁と卵」のスピーチ全文を英文と和訳を見比べたりして静かに読んだ。素晴らしい内容だ。授賞式がイスラエルのガザ攻撃の時期とも重なり、周囲からは辞退の勧めがあり、本人も悩んだようだが、彼の言うように「受賞を断るのはネガティブなメッセージ、出向いて授賞式に話すのはポジティブなメッセージ」になったと思う。

【心に残ったスピーチ】
 ○熟考のすえ、最終的に私はここに来ることを決心しました。私がここに来ると決めた理由のひとつは、あまりにも多くの人々が「行くべきでない」と言ったことです。・・・ 私は立ちすくむよりもここに来ることを、目を反らすよりも見つめることを、沈黙するよりも語ることを選びとりました。
 ○個人的なメッセージを送らせてください。これは私がフィクションを紡ぐ時、常に心に留めていることです。私はそれを一枚の紙切れに書いて壁にはっておくというよりもむしろ、私の「心の壁」に彫りつけられていること……それはこういうことです。
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."
「もしここに高く、固い壁があり、そこにぶつかれば割れてしまう卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。」  

○このメタファーはいったい何を意味しているのでしょうか? それはいくつかの場合において、とてもクリアで単純です。高く固い「壁」とは、爆撃機であり、戦車であり、ロケット砲であり、白リン弾です。そして「卵」とは、それらに壊され、燃やされ、撃たれる非武装市民……、これがそのメタファーが意味することのひとつです。
○私たちひとりひとりが、多かれ少なかれ「卵」なのです。私たちは唯一かけがえのない魂を内包した、壊れやすい殻に包まれた卵なのです。これは私にとっての真実であり、皆さんにとっての真実でもあります。そして私たちはそれぞれ――多少の違いはあっても――高くて固い壁に直面しています。その「壁」の名は、そう、「システム」です。
○僕が小説を書く理由は、ひとつしかありません。それは個々人の魂の尊厳を立ち表わせ、光りをあてることです。
○今日、皆さんにお伝えしたかったことはただひとつです。
 私たちは誰もが人間であり、国籍や人種や宗教を超えてみんな一人一人の人間です。システムという固い「壁」に直面する「卵」だということです。・・・私たちにはそれぞれ、手に取ることが出来る生きた魂がある。システムはそれを持っていません。
*************************

  最近、アメリカの救世主、オバマ大統領の演説を聴いた。今スピーチを読み終え、改めて「言葉の力」を再認識させられている。

土門 拳を観る

2009-03-18 | 文芸
            【土門 拳 記念館】

 昨日は朝から梅雨を思わせる雨降りだった。時折みぞれに変わるが、寒さもそれほどではない。
「文藝春秋」の四月号を見に、短大図書館へ行った。大学はもう春休みに入り、図書館も貸し切りだ。年度末でもあり、学校ではいろいろな工事が入り、春休み特有の雰囲気だった。 
 「文藝春秋」を月に1度楽しみにしている。ゆっくりソファーに座ってのくつろぎのひとときだ。4月号の広告で、2月にエルサレム賞を受賞した村上春樹のスピーチに関する記事を読みたいと思っていた。独占インタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」だ。

 グラビアの生誕100年「土門 拳が見た日本と日本人」を興味を持ってみた。そこには、【一貫して日本の文化の本質を追い求めた彼が写し取った「原日本人」の肖像】とあり、あの土門らしい作品が載っていた。
 以前、山形の酒田市に土門拳記念館を訪ねたことがある。そのときの感動を思った。
家に戻り、その際に求めた【土門拳の昭和②「こどもたち」】を書棚から出してきてあらためて鑑賞した。もう一度訪ねてみたいと思っている。
 
 
  以下は、10年前の感動。
*************************************
酒田・土門拳記念館での感動 1999.9

 待ちかねて開館時間の九時前に土門拳記念館を訪ねた。丁度、土門拳生誕九〇年の特別企画展「古寺巡礼」と「筑豊のこどもたち」を鑑賞することができ、あらためて写真の意義を見つめ直した。特に戦後まもなくの「こどもたち」の写真には感慨深いものがあった。それは当時の自分の思い出に重なる懐かしさと、反対に思い出したくない脳裏に残る風景でもあった。同じ年頃の自分が確かにその中にあり、昭和三十年頃の自分の家庭での生活はどうだったか、かすかな記憶をたどった。
 写真の素晴らしさは、どれだけ見る者の心に響くかだと思う。仏像の心やこどもたちの心が伝わって、作品の前で込み上げる感動があった。説明のパネルにある、「実物以上に実物である写真が本当の写真」「写真は肉眼を越える」などの土門拳の文章をすべての作品が如実に示していた。日本人の心を写しきった彼の芸術を静かに鑑賞し、充実した満足感に浸ることができた。
*************************************
 


懐かしい花瓶に生ける

2009-03-16 | 文芸


 従兄弟から、孫の武琉君に入学祝と生花が届いた。そうか思えばもうお彼岸だ。
 物置から花瓶を出してきた。自分で絵付けした懐かしい花瓶にした。



 花瓶のデザインは3つの絵が青い呉須単色で書かれてあった。
○松の枝の絵に「霜幾たび降れど松ヶ枝の永遠に緑の美しきかな
○コスモスに  「年々歳々花相似 歳々年々人不同
○磐梯山に   「養浩然之気
花瓶の底に昭和61年作とあるから、もう25年も前のもの、当時のそれなりの人生観を表現したものだろう。懐かしいかぎりだ。勤務校での現職教育で、窯業科の窯で焼いてもらった作品だ。

     

 明日は彼岸の入り、暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。
 ユキワリソウ、フクジュソウが花を開いた。昨年より10日ほど早いようだ。
 穏やかな春の陽に、庭の寒暖計も昼前に10℃近くまで上がった。

白のミスミソウ

祝 卒園

2009-03-15 | 日々の生活
卒園!
 武琉君、幼稚園卒園おめでとう!。こんなに嬉しいことはない。
 昨日の吹雪で積もった雪がさわやかな朝だ。新しい門出にふさわしいと思った。
 家を出るときには、武琉君の明日を祝うように雲間から朝日が燦然と降り注いできた。 式には、ばあちゃんと萌香も武琉君の晴れ姿を見ることになった。
 玄関前で記念の写真撮影をした。ファインダーを見つめながら、いろいろな思いが巡り、目頭が熱くなった。
 今、武琉君が、素直にすくすく育ってきたことをこころから喜んでいる。思えば、我が子は核家族で、妻と二人で育てたが、孫二人は、じじ、ばばもいて幸せだと思っている。じじ、ばばとしても、毎日身近にいて我が子以上に愛情を注いでいることが生き甲斐でもある。
 4月からはピカピカの1年生。「期待と不安」を抱いているであろう孫の気持ちを想像している。武琉君のこれからの幸せを心から祈っている。
 お夕飯には、みんなでささやかなお祝いを計画している。




会津藩の北方警備

2009-03-14 | 文芸
北方警備

3/12夜、TUFのTV番組「200年の絆 会津藩樺太出兵」をみた。
新聞の番組紹介欄には
「 200年前、ロシアの東方進出を防ぐため、幕府の命令で会津藩約1600名が樺太(サハリン)、宗谷そして利尻島(北海道)の警備についた。ロシアの東方進出を防ぐためだった。しかし敵はロシアならぬ水腫病だった。ビタミン不足から顔がむくみ腹は膨れ、苦しみながら多くの人が死んでいった。その子孫が先祖の足跡を訪ね、遥か200年前に思いをはせる。」とあった。

 TVを見て驚いた。その旅人はかつての勤務校でお世話になった先輩、古河憲治先生だった。吹雪のシベリアや北海道最北端の海岸を歩く古河先生の、先祖の立った土地、景色をどんな気持ちで眺めたであろうか。地図を便りに200年前に思いをはせる先生の気持ちが痛いように伝わってきた。厳寒の慣れない風土に、過酷な日々を過ごした会津の先人がいたのだ。
 先生は、仙台、花巻五戸、三厩、稚内、宗谷岬、利尻・・・と、当時の会津藩の先人がエゾ警備に赴いた道を辿った。そこここに眠る会津藩士の墓に手を合わせる。
ナレーションは会津出身の俳優・佐藤慶だ。その後戊辰戦争までの会津藩の辿った歴史をふり返り、小田山、日新館などを訪ねる番組でもあった。また、ニシン山椒漬け、こづゆ、棒タラなど会津の食文化なども紹介された。
 古河先生は、本泊の海岸に先祖の茂右衛門さんの墓に行きついた。1808.9.1シベリアから会津へ戻る途中、北の海で船が難破し、漂着した利尻で亡くなった。墓石の雪を払い、会津から持参した砂利を置いた。
 いずれのお墓も、その土地の人が会津人のお墓を手厚く守っていてくれた。
 先生の会津を思い先祖を思う気持ちが切なく、こころ動かされた。

昨年は「北方警備」から200年、会津若松市では各種の記念事業が行われた。
 歴史シンポジウムでは直木賞作家の中村彰彦さんが「会津藩のルネッサンス―田中玄宰の改革と北方警備の精神」と題し基調講演があった。

(参) 会津藩の北方警備(樺太出兵)について (ネットより)            **************************
文化四年(1807)徳川幕府の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のレザノフは実力での通商を図ろうとロシア皇帝の許しなく海軍による樺太・千島への襲撃を開始した。幕府は奥羽諸藩に蝦夷地(北海道)への出兵と防備を命じた。
 それでも十分ではなかったため、当時会津藩家老の田中玄宰は幕府に会津藩の樺太出兵を内願。文化5年(1808)正月、軍将内藤信周指揮の下会津藩兵が若松城下を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、番頭梶原景保が利尻島に派遣された。さらに北原光裕指揮の下樺太に上陸し本格的な警備陣営を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。(本営:北原光裕、西側:丹羽能教、東側:日向次明)

実際のロシア兵との交戦はなかったが、樺太からの帰路会津軍は台風に遭い船が難破、一部は天売、離島焼尻島へ避難した。現在宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられている。また利尻島、焼尻島にも会津藩士の墓がある。
会津藩の樺太出兵はその後の間宮林蔵らの北方探検に大きく貢献する事にもなった。
  *************************

春を訪ねる 3  早春の花見山

2009-03-12 | 旅行
 
川俣から福島へは、阿武隈川沿いに走った昔の道は今は昔、トンネルが2つ通り、花見山入り口まではあっという間であった。30年前に、約1時かけてバスに揺られたこともあった。

【妻は家に写メールを送る】       【紅梅が満開】




花見山の春、どんな花が咲いているかを楽しみにしていたが、まだこの時期、ロウバイは盛りを過ぎ、ウメが5分咲きで、マンサクが満開、サンシュユがほころび始めたところだった。山頂付近に咲き始めたサクラがあった。花弁に特徴があるがなに桜だろうか。静かな春の野山をゆっくり散策してこころがすっきりした。山からの県都・福島の街の眺めは素晴らしく、十分に堪能出来た。
 あの花見山のポスターにある桃源郷までは後一月くらいだろうか。レンギョウの花芽もまだ想像していたほどではなく、若松とさほど変わらないようだった。

 花見山は「日本を代表する写真家故秋山庄太郎氏が「福島に桃源郷あり」と毎年訪れていた場所で、梅、ハナモモ、数種類の桜、レンギョウ、ボケ、サンシュユ、モクレンなどの花々がいっせいに咲き競う。まさに「桃源郷」の言葉がふさわしい場所。」(福島市観光物産協会HP)で、花木栽培農家の阿部一郎さんが私有地を無料で開放している公園だ。 まだ花も少ない平日で、シーズン中は交通規制があるが、山の入り口の阿部さん宅の駐車場まで行くことが出来た。訪れた人もまばらで、静かな山里の春のはじまりを十分に楽しむことができた。

  【マンサク満開】


 宿には4時半にチェックイン、孫が心配でめったに旅に出ないが、突然思いつきの小旅行は妻へのささやかなくつろぎの旅となった。


【ウメの咲く福島飯坂から吾妻連峰を望む】

 翌朝はゆっくり宿を出て、土湯街道近くの園芸店に寄り春の花を沢山求めた。帰りはまだまだ雪の残る土湯峠を越えて帰った。
 温かな福島から若松に戻ると、午後からは急に冷え込み、昨日は寒い吹雪の冬に逆戻りであった。良い天気に早春を感じた旅だった。(2009.3.9~10)

   
     【園芸の季節】                         【雪の残る高森川】


(追記)
去年の拙ブログ「健康なうちに 2008-03-19」に、同じ飯坂温泉の宿に泊まったことが書いてあった。そこに、夕食会場にある書について、「「憂い無く、楽しみを?」3字目が読めない。何と読むのだろうかいつも気になっている。」とあった。今回旅館の人に尋ね、ようやく3字目は「而」であることが分かった。


《無憂にして楽しむ》・・・「憂い無くして楽しむ」これこそ幸せそのものだろう。 

日記@BlogRanking