市街地を見つめる
昨日、懐かしい善龍寺を訪ねた帰りに、建福寺の墓地に「河井継之助君埋骨遺構」をお参りした。
北青木の建福寺前の十字路に「長岡藩総督 河井継之助埋骨地参道」と彫られた案内の石柱があり、裏には「明治戊辰百年祭記念 昭和四十二年八月 長岡藩殉節顕彰会」とあった。
建福寺裏の静かな山道を少し登った高台に遺構はあった。継之助はそこで静かにお城を見つめながら眠っていた。
長岡藩家老で奥羽越列藩同盟総督だった河井継之助は、明治元年(1868)長岡城落城の際負傷した傷が悪化して、只見町塩沢で亡くなった。遺体は荼毘にふされて鶴ヶ城下の建福寺に運ばれた(長岡藩藩主牧野公が、当時滞在していた由縁からという)。
10年ほど前、只見の塩沢に河井継之助記念館を訪ねた。その折りにも墓に参った覚えがあったが、その塩沢医王寺の墓所は荼毘の後、拾い残された細骨を村民が集めて建てたものらしい。
継之助については、司馬遼太郎の「峠」と「風雲児」でその人柄、才知を知るが、かれもまた、ときの流れに翻弄された傑物だ。諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていくことを志向した継之助だが、その先進的な考えは理解されず、開戦へと突き進み、戦いのなかで落命していった。
以下は、記念館を訪ねたときのエッセイ
************************************
「一人の英傑の生涯から学ぶ」 (1998.10.28 福島民友新聞に掲載)
大河テレビドラマ「徳川慶喜」も終盤を迎えた。維新史に精通した父の残した書籍を読み返しながら戊辰の戦いを振り返っている。
秋の深まる南会津塩沢に河井継之助記念館を訪ねた。父の思い入れもあり、私にとって河合継之助は特別な人だった。だから来館者名簿にはあえて今は亡き父の名を連署した。前の欄には、会津と同じ運命をたどった長岡の人の記載があった。
館内のビデオ「塩沢に逝く」では、当時の日毎の記録が語られ、背筋が震えるほどの感動を覚えた。近代国家誕生の大きな犠牲を払った長岡と会津の歴史、何人もどうすることもできない時の流れの中に散った継之助の運命を思った。傷を負い戸板の担架に仰臥して八十里峠を越えた継之助の目に、木々のそよぎはどう写ったのであろうかと想像した。
一人の英傑の生きざまから多くを学ぶと共に、戦いの空しさがこみ上げてきた。
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「長岡藩士殉節の碑」が門田飯寺の本光寺にある。今度訪ねたいと思っている。
(戊辰戦争で長岡城落城の後、長岡藩藩士山本帯刀を隊長とする一隊は八十里峠の難関を越えて会津に入り奮戦した。しかし早朝の濃霧の中飯寺河原で新政府軍に包囲され、隊長以下44名が戦死した。明治23年村民が供養の碑を建てて霊を弔ったが、その後昭和31年会津史談会が新たにこの殉節の碑を建てて供養した。)
昨日、懐かしい善龍寺を訪ねた帰りに、建福寺の墓地に「河井継之助君埋骨遺構」をお参りした。
北青木の建福寺前の十字路に「長岡藩総督 河井継之助埋骨地参道」と彫られた案内の石柱があり、裏には「明治戊辰百年祭記念 昭和四十二年八月 長岡藩殉節顕彰会」とあった。
建福寺裏の静かな山道を少し登った高台に遺構はあった。継之助はそこで静かにお城を見つめながら眠っていた。
長岡藩家老で奥羽越列藩同盟総督だった河井継之助は、明治元年(1868)長岡城落城の際負傷した傷が悪化して、只見町塩沢で亡くなった。遺体は荼毘にふされて鶴ヶ城下の建福寺に運ばれた(長岡藩藩主牧野公が、当時滞在していた由縁からという)。
10年ほど前、只見の塩沢に河井継之助記念館を訪ねた。その折りにも墓に参った覚えがあったが、その塩沢医王寺の墓所は荼毘の後、拾い残された細骨を村民が集めて建てたものらしい。
継之助については、司馬遼太郎の「峠」と「風雲児」でその人柄、才知を知るが、かれもまた、ときの流れに翻弄された傑物だ。諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていくことを志向した継之助だが、その先進的な考えは理解されず、開戦へと突き進み、戦いのなかで落命していった。
以下は、記念館を訪ねたときのエッセイ
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「一人の英傑の生涯から学ぶ」 (1998.10.28 福島民友新聞に掲載)
大河テレビドラマ「徳川慶喜」も終盤を迎えた。維新史に精通した父の残した書籍を読み返しながら戊辰の戦いを振り返っている。
秋の深まる南会津塩沢に河井継之助記念館を訪ねた。父の思い入れもあり、私にとって河合継之助は特別な人だった。だから来館者名簿にはあえて今は亡き父の名を連署した。前の欄には、会津と同じ運命をたどった長岡の人の記載があった。
館内のビデオ「塩沢に逝く」では、当時の日毎の記録が語られ、背筋が震えるほどの感動を覚えた。近代国家誕生の大きな犠牲を払った長岡と会津の歴史、何人もどうすることもできない時の流れの中に散った継之助の運命を思った。傷を負い戸板の担架に仰臥して八十里峠を越えた継之助の目に、木々のそよぎはどう写ったのであろうかと想像した。
一人の英傑の生きざまから多くを学ぶと共に、戦いの空しさがこみ上げてきた。
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「長岡藩士殉節の碑」が門田飯寺の本光寺にある。今度訪ねたいと思っている。
(戊辰戦争で長岡城落城の後、長岡藩藩士山本帯刀を隊長とする一隊は八十里峠の難関を越えて会津に入り奮戦した。しかし早朝の濃霧の中飯寺河原で新政府軍に包囲され、隊長以下44名が戦死した。明治23年村民が供養の碑を建てて霊を弔ったが、その後昭和31年会津史談会が新たにこの殉節の碑を建てて供養した。)