エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

4人目の孫に恵まれる 

2010-12-31 | Weblog


12/28、息子に第二子、女の子が誕生した。
大雪のあと、若松市内の道路はでこぼこ、普段は10分ほどのところを約1時間もかかってようやく高速道に乗った。
高速はしっかり除雪されていて、昼前に郡山の西病院に着いた。
 息子と紗英ちゃん、そしていわきから応援にお母さんが来てくれた。
 皆でお昼を食べて赤ちゃんの誕生を待った。夕方5時すぎ、待ちかねた元気な女の子が生まれた。
 大きな産声だったと、医師と看護婦さんが廊下で誕生したばかりの赤ちゃんを見せてくれた。
 若松の孫も一緒に、赤ちゃんをのぞいた。新しい命の誕生をみんなで囲んで祝福した。感動に目頭が熱くなった。
 どんな人生を歩むのだろうか。この子の幸多き人生を祈った。
 8時前に霧の中の我が家へ戻った。高速を下りると、下道はやはりのろのろ運転、
 雪道運転と、病院での待ち時間とからか、どっと疲れが出てきた。

12/29
 娘から、妻と一緒に温泉一泊の家族忘年会への招待を受けた。
 孫たちは、何日も前からそれぞれ持ち物をリュックに詰めて、温泉行きを心待ちにしていた。
 午前中までおつとめのママを待って、一路芦ノ牧温泉を目指した
 市道までの道は少し寒さもゆるみ、雪がざけて車が心配だった。朝から時間をかけてがんばって除雪した。
 ようやくの思いで車を出したが、案の定、市道への出口でガス運搬車が雪道にはまっていた。
 トランクのスコップを出してまた雪をかたずけた。ようやくメインストリートへ出ると、またも渋滞だった。
 門田の運動公園まで40分以上もかかってしまった。でも、121号へ出るとしっかり除雪されていて、順調に芦ノ牧へ到着した。

 孫は大はしゃぎ、早速風呂へ入る。武琉と渓谷を見下ろす露天風呂に浸かった。
 雪が一段と激しく降っていた。細かい雪が照明に輝いて静かに落ちてくる。ときおり湯煙が降る雪を隠した。
 対岸には雪山が険しく聳え、眼下に大川の渓谷が美しく流れていた。
 雪を眺めながら、しばし静かに1年を振り返った。

夕食は別の個室に準備された。家とは違った雰囲気で、孫中心に賑やかな時が流れた。 
 お品書きを見ながら、おいしい料理を楽しんだ。



 前菜にはニシンの山椒漬けや馬刺し、ゼンマイなど地元の一品が並んだ。特にタラバガニのお造りは絶品だった。
 思い出すままにあげると、豚しゃぶ、ズワイガニは蒸籠蒸し、揚げ物は海老、長いも、山ごぼう、銀鱈の照り焼き、山菜の釜飯、
茶碗蒸し、蟹汁、デザートのアイスと、食べきれないほどの贅沢料理に舌鼓を打った。
 朝はバイキングと子どもたちは期待していたが、部屋食で静かにいただくことが出来た。
 一夜温泉に浸かり、ごちそうをいただき過ぎ去りし一年を振り返る。なんと贅沢なことであろうか。



12/30  お見舞いに
 ゆっくりくつろいだ温泉から自宅へ戻り、その足で、今度は妻と二人で郡山へ向かった。
 昼の面会時間に会わせて、息子と紗英ちゃんも到着した。
 西病院は、子どもは病室へ入れないから交代で面会だ。
 赤ちゃんはお母さんの横で寝ていた。2995g、母子共に紗英ちゃんの時とは違い、回復が早いようだ。
 赤ちゃんを預けて、昼の面会時間を待合室で食事しながら過ごした。

12/31 大晦日、これから午後、息子と紗英ちゃんが年越しに来る。
 健康に恵まれ、楽しくいい年だった。すばらしかった行く年を送り、新しい年を迎えたい。
 しばらくお正月気分に浸り、ゆっくり穏やかな日々を過ごしたいと思う。
 ここへ来て大忙しの慌ただしい年末だったが、いい年のまま終えることが出来た。


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大雪のあと、冬晴れの雪かたし

2010-12-26 | Weblog
 

丸一日降り続いた雪も朝の内にやみ、陽が差し始め、快晴となった。
 一日中、家族総出で雪かたしに明け暮れた。嫁いだ娘も手伝いに来てくれた。

 

 朝7時の気象庁の記録で、若松は115cmの積雪と言うが、実際にはそれ以上あるようだった。
磐越道もきのうから通行止めが続き、下道の49号では昨日の深夜から300台の車が立ち往生し、
夕方のニュースではまだ止まったままで復旧のめどが立たないという。
ともかくドカ雪には参ってしまう。

市道までの除雪は大変だ。近所からも除雪に出て、みんなで道路の両脇に雪を積み重ねた。
昼過ぎには何とか開通した。すっぽり雪に埋もれた我が家の車も、夕方ようやく出せるようになった。
 つくづく体力の衰えを感じた。腕力はあるが、すぐに息が上がってしまい、心臓や肺が追いつかないのだ。
でも。黙々と雪をかたしながら、よくここまで健康になったと実感し幸せに感じた。

 孫たちは有り余る雪にそり遊びに興じていた。



腰ほどまで積もった裏庭に、物置から雪踏み俵を持ち出して細い道を付けた。
 40年も前に叔父からいただいたもの、昔はどこの家にもあったのだろうが、今はまづ使われないだろう。
とても重宝な素晴らしい道具だ。



 大雪のあとの磐梯山がいよいよ厳しく聳えていた。
 また明日は雪の予報、そして、お正月までずっと雪空が続きそうだ。



 夕飯には、何となくのども渇いた。雪に冷やしたビールにしよう。お疲れ様!。





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大雪

2010-12-25 | Weblog
     【大雪の気配】

 早朝窓をのぞくと積雪は10cmくらい、安心していた。
ところが、朝食をとりながら窓越しに見た降りは尋常ではなかった。
その後雪は瞬く間に30,50cmと積もった。

 我が家から市道までは130mもあるが、雪かきをする人は少ない。
 下の半分はHさんが何度か雪かきしてくれた。あと半分の坂の部分は、妻と二人、老体に鞭を打って除雪した。
 近所の若いGさんにもお世話になった。

 久しぶりの大雪で、夕方の全国ニュースでは若松の積雪が82cmと報じていた。
 まだ降り続くという。たぶん1mを越えるだろう。
 すぐ息切れして、昔の体力はない。妻にもいつも無理をさせたくないと思うが、ともかくよく雪かきをする。
 数日車を出せなくても問題はない。焦ることはないと二人で言い聞かせあっている。 



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クリスマスイブ

2010-12-24 | Weblog

明日はキリストの降誕を祝うお祭、今晩はクリスマスイブだ。
よくクリスマスを「X'mas」と書くが、実はアストロフィは不要のようだ。
ネットで調べたら、ギリシャ語でキリストを表すΧΡΙΣΤΟΣの第一文字で、
キリスト"Christ"のミサ"mass"の意味だ。よく知らないできたものだ。

 幼いころから自分の中ではイブにはチキンのごちそうを食べそのあとケーキがあった。
ケーキはいつも兄や妹はすぐに食べたが、なぜかおいしいものは後にと、翌日まで残したりした覚えが浮かんでくる。
 
 今も、孫たちも変わらない。
 早くからツリーをにぎやかに飾り、踊るサンタの人形でジングルベルを歌っている。
 今晩は、サンタさんに欲しいプレゼントを紙に書いて靴下に入れていた。
萌ちゃんは、いまサンタさんはどの辺にいるのかとか、じいちゃんの小さいとき何をもらったかなど聞く。
あの頃、サンタさんからの贈り物は何だったか、思い出せない。
武くんは、萌ちゃんのまねをして希望のものをかいていたが、半信半疑でいるようだ。
 ばーちゃんは、孫に暖かいパジャマを用意していたが、ママの準備はOKだろうか。
 

今年の幸せを感謝

2010-12-22 | Weblog
今年もあと残すところ10日、少しづつ大掃除のまねごとをしている。
 きのうは台所中心に、明日は応接間と妻と計画的に大掃除を進めている。
 今日は神棚のすす払いをした。だるまさんや起き上がり小坊師も一つ一つ丁寧にほこりを払った。
だるまさんは毎年大きいのに替えるようだが、我が家は何年も前の,目の入っただるまが神棚に残っている。
だるまの後ろに、新築した年昭和54年と墨書してある古い大きなだるまを丁寧に手に取った。
 神棚のほこりを払い、お灯明を上げる。
 目をつぶり、柏手を打つと、なんと心がすっきりすることか。
いつも、神仏に自分の心を報告する心を大切にしたい。
 暮れに4人目の孫が誕生の予定、幸せいっぱいのいい年が暮れる。
 来る年も、健康に恵まれるいい年でありますようにと祈った。


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赤瓦の鶴ヶ城

2010-12-21 | 街中散歩
 
今年の春から、お城の瓦の葺き替え工事が進んでいる。天守閣再建から50周年を目指しての整備事業だ。
シートで覆われて見えなかった天守閣の上半分が見えるようになったと聞いて、見に行ってきた。
 冬には珍しい穏やかな陽気に恵まれ、平日でもあり観光客もほとんどいないお城をゆっくり散策してきた。
吹き替えられた実際の瓦の色は赤と言うより茶色か、、以前より落ち着いた美しいお城に見えた。








 完成は3月予定の城は、まだ石垣や下の方は足場が組まれブルーシートで覆われていた。
このお城は、芦名氏が築いた黒川城が前身で、その後、蒲生氏郷が入城して1593年に7層の天守閣を持つ近世城郭に改築、城の名前も自分の幼名鶴千代にちなんで鶴ケ城とした。
1611年の大地震で天守閣や石垣が損壊し、28年後の加藤氏の時代に現在の5層の天守閣(黒瓦)となった。
 文献や発掘調査から、1648年に黒瓦から赤瓦にふき替えられ、戊辰戦争当時も赤瓦だったらしい。
同時に、「御三階」も復元される計画で、本丸の東側では土台部分の発掘が行われていた。
 この整備計画にはあまり関心もなかったのか、知らないうちに決められあっという間に完成間近となった。
 総事業費が約4億3千万円と聞くと、そんなにまでしてとも思った。
 国の補助金や若松城整備等基金で賄われるようだが、市税の投入も大きいことだろう。
 それにしても、雪を待つ雪つりされた多行松の緑が美しかった。



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終の棲家

2010-12-17 | 日々の生活

夜の間に、今年初めての雪景色になった。
 動かない愛犬がこの冬初めての雪景色を眺めている。
 これくらいの雪景色であれば、毎日でもいいが・・・。



 毎日のように、静寂の夕暮れを眺める。裏庭に佇み、夕日に輝く磐梯を仰ぎ見た。
 厳しい寒さに麗しの磐梯、すがすがしい磐梯が聳えていた。



 新雪は5cmくらいだろうか、厳しい寒さに雪は朝のまま残っていた。
 新雪を音をたてながら踏みしめた。
綿毛を楽しみにしている咲き終わったツワブキの花にも、雪がかぶっていた。



 この美しい静寂の空間が、我が終の棲家となることが嬉しく思えた。
 葉を落とし空に伸びる細い枝越しに、美しい黄昏の空が広がっていた。

   黄昏に雪踏みしめし裏庭の終の棲家に磐梯かがやく 



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白きたおやかなる磐梯に夕日輝く

2010-12-16 | 日々の生活

 寒い一日が暮れた。
 きのうは、いよいよ雪が積もると思われたが、ちらちら舞っただけ、山形はひどかったようだ。
今日は、日中は陽も差したが、気温は3℃止まり、一段と寒さが厳しくなった。

 夕方、三分の青空に、少しの雪に覆われた磐梯山が、実にすがすがしく聳えていた。
西に連なる雄国の山並みも薄ピンクに明るかった。

 赤紫色のサザンカは、もう11月から咲き始めているが、門柱前の白いサザンカもひとつ、ふたつと開き始めた。
この八重のカップ咲き品種は「朝倉」と言うようで、つぼみは濃い桃色だ。

【朝霧に孫らの登校サザンカの花】

 ひと月前に家の中に取り込んだカニサボテンが、徐々につぼみをふくらませ、とうとう開いた。
 夏場の管理よろしく、挿し芽をしたものも含めて、ほとんどの枝先に見事に花芽をつけた。
 玄関前の風防室はオイルヒーターで暖かく、生き生きしている。元気に冬を越せそうだ。



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書棚の整理 

2010-12-14 | 日々の生活

【葉の落ちたケヤキの枝にアシナガバチの巣が揺れる】

年末に、長い間ほこりをかぶっていた本棚の整理をしている。
 何気なく手に取った文庫本は、ほとんど忘れていた小林秀雄のエッセイ、懐かしい名前だ。茶っぽく変色した本は時代の臭いさえした。
 かつてページをめくったのだろう、ぽつりぽつりくねくね曲がった傍線やチェックが入っている。かすかな記憶の中に数行の文字をたどるも、読んだ覚えは浮かんでこない。
 しばらく読み進めながら、よくこんな難解な文章を読んだことかと感心した。40年の歳月は、目を悪くさせ、頭の回転も鈍らせたに違いない。やがて静かなまどろみさえ誘発するのだった。
 よく経験することだが、かつて明らかに目で追った文字も、また新鮮に思えことがある。
 しばらくは冬の季節に、昔手に取った、我が家の床が抜けんばかりの蔵書を再探検してみようと思っている。


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カモたちと遊ぶ

2010-12-12 | Weblog

数日前、朝方から悪寒がしていた。いつもの炎症とは違い、風邪か?と心配した。
 その前に生あくびが頻繁に出ていたが、たぶん眠られない夜が続いたからかと思っていた。
 案の定少し熱が出はじめ足が重くなった。
 昼食後、時々の炎症を抑える常備薬のR錠を飲んだ。その効果もあってか、2時間足らずだったがよく眠れた。
 夕飯も軽くとって、もう1錠R錠をのみ、早めに休んだ。
 翌朝、熱が下がり、すっかり調子を取り戻した。風邪の症状も無かったので、いつもの軽い炎症だろうと推定している。

 孫たちが休みの土曜日、朝方は厳しい寒さだった。
 午前中は月一度の検診日、しばらく自転車だったが寒い、濃い霧の中を車を走らせた。
 血液検査は、HとLがちらほら、可もなく不可もなくだ。ほぼ普通に過ごせる体調を幸せに思うしかない。
 数日前の発熱のせいか白血球が少し高めだった。


気温は低かったが、時々陽が差す穏やかな日となった。
 昼過ぎ、ママの帰りを待って、お昼を兼ねて、みんなで久しぶりにカモを見にいくことにした。
猪苗代湖の湖畔の中華レストランで食事をとった。


  中華レストランで

 孫たちと、準備したパンをあげると、カモが寄ってきた。
 日中、この浜にはコハクチョウははいない。ほとんどがオナガガモだ。
 オナガガモに混じって、キンクロハジロ、ホシハジロ、スズガモなどがいた。数羽のユリカモメもいた。
 見たことのないカモは、ホシハジロの雌だろうか?。


 スズガモ ♂?


ホシハジロ♀か?


 ユリカモメ

 孫たちにカモの特徴を話しながら観察すると、いろいろ新しい発見もあった。
 キンクロハジロの潜水が長いこと、ホシハジロの虹彩が赤いこと、そして雄、雌の違いなど。
 ところで、名前の由来はどうなだろう。
 これからのきびしい雪の季節、カモたちをじっくり観察してみたいと思っている。(2010.12.11)


キンクロハジロ♂
 

 ホシハジロ♂


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 お気に入りの茶碗

2010-12-07 | Weblog
   先日、N先生から絵付けを頼まれた茶碗が届いた。
 実は、預かった60数個の素焼き茶碗のうち、了解を得ないで3点を自分用に勝手にデザインしてしまった。
 もちろん、絵付けが済んで茶碗を渡すときに、快く事後承諾していただいた。

 磐梯山の絵は、顔料に青と黒の呉須を使って、手持ちの小筆で描いた。いつもの猪苗代湖に浮かぶ磐梯だ。
 一つは、茶碗の内側にも一周、湖と山並みを描いた。また、別のは、良寛のいつもの漢詩をデザインした。
 透明釉をかけて、焼成温度は1230~1320℃くらいだろう。 
 ガス釜焼成なので、地色が白く、色がくっきり出ていた。



 近頃は、この気に入った茶碗でお茶や、ぐい飲み代わりにお酒をいただいている。
 昔作った自作の皿も出してきて、今日も一段とおいしい晩酌を楽しめそうだ。

 *)呉須について
 磁器の染め付けに用いる鉱物質の顔料。酸化コバルトを主成分として鉄・マンガン・ニッケルなどを含み、
還元炎により藍青色ないし紫青色に発色する。
 日本では16世紀に美濃焼でコバルト呈色の染付が行われたが、17世紀になって伊万里焼が中国製の呉須を入手する。
天然に産した中国の地方名から生まれた日本名で、現在では合成呉須が広く用いられる。  


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幾たびも涙こみ上げ「荷車の歌」

2010-12-03 | 文芸
             【 映画「荷車の歌」フィナーレ 】
 

 近頃、涙もろくなったような気がする。
今日も泣かされた。つまりは何度も感動したということか。

思えば、ここに出あったいづれの出来事も ”意味ある偶然 ”であろう。

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○ 昨夜も寝床に入り、いつもの海坂藩の心に響く物語を読む。
藤沢周平の海坂藩大全 (上、下)だ。
手が冷たいこともあり、だいたい一編を読了し、目を閉じる。
******************
○ 眠れそうにない、ふと傍らの本棚の原民喜の著した「夏の花」に手が伸びた。
著作の『壊滅の序曲』『夏の花』『廃墟から』を、「夏の花三部作」という。
いつか8/6に手に取ったことがある、自身の被爆体験を基に書いた作品だ。
その扉には
  「わが愛する者よ請う急ぎはしれ
   香わしき山々の上にありて(のろ)の
   ごとく小鹿のごとくあれ
」とある。
書き出し部分は
私は亡き妻と父母の墓に、なんという名称か分からないが、黄色の可憐な野趣を帯びた、いかにも夏らしい花を手向けた。
その翌々日、街に呪わしい閃光が走り、私は惨劇の舞台に立たされる。
川に逃げ、次兄と出くわす。次兄と上流へ遡って行く際に、私は、人々の余りにも目を覆う惨状を目の当りにする。
やがて、私と次兄は甥の変わり果てた姿を確認する。
次兄の家で働いていた女中も落ち合い、一緒に避難する。
彼女は赤子を抱えたまま光線に遭い胸と手と顔を焼かれていた。
「水を下さい」と哀願し続け、一か月余りして死ぬ
。》と。
今の夢のような平和のなか、写実的に描写される、あの悲惨な生き地獄を思った。
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○ 眠れずに1時を回った。
 ラジオ深夜便のインタビューで 県立新潟西高校教諭…栗川治氏の
「NHK障害福祉賞入賞者に聞く」、思いがけずに大切な話を聞くことが出来た。
  後日 栗川治氏のHPを見つけた。
 http://homepage2.nifty.com/samusei_syoukyouren/kurikawa.html           
 これから、視覚障害を持つ現職教師の心打たれる提言をゆっくり読んでみたい。
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○ NHK朝ドラ「てっぱん」またまた泣かされた。
 19年前に、あかりの母が残した手紙を、家族全員で見るシーンだった。
 毎回、家族一人一人の心の動きを見つめて楽しんでいる。
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○ 睡眠不足で本調子でない午後、炬燵にあたりながらBS放送の映画「荷車の歌」を視聴した。
50数年前の『荷車の歌』、山本薩夫監督、主演 望月優子 三國連太郎
《広島県の山村にくらす貧しい農家の娘セキは、荷車引きの茂市と結婚、義母のいじめに耐えながら毎日荷車を引いて働き、2男3女の子供を育てる。
やがて人がひく荷車から馬車の時代になり、戦争の足音が近づいてくるなか、セキの苦難の人生は続く。
明治から昭和にかけての激動の時代を懸命に生きた一人の女性の苦難の半生をつづった年代記。
農業協同組合の婦人部320万人のカンパによって制作された山本薩夫監督の力作。》
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毎日、悩みながらの日々だが、今日も慰めとなる、涙流れる感動をいっぱい貰った。
明日もまた・・・。
(2010.12.3)

ミニ門松が届く

2010-12-03 | Weblog
娘が、嫁ぎ先から、今年も門松を届けてくれた。早速、お礼の電話をした。
毎年いただくミニ門松は、お正月に我が家の玄関を飾ってくれる。
末娘のおじいちゃんが、一つ一つ心を込めて作った手作りのミニ門松だ。
竹三本をむしろで巻き、シュロ縄で結び、松と梅が飾ってある。



一緒に、『赤べこ倶楽部通信12月号』が添えられていた。
初めて見るチラシだが、東北土木グループ・月刊コミュニティ情報通信とある。
その1ページ全面に、「こだわりのお店紹介」として『竹問屋 平出吉平商店』が載っていた。
 サイトを検索すると、こだわりのお店紹介に更新(http://www.akabekoclub.jp/kodawari/ )されていた。

師走、ここへ来て何かせわしさを感じている。
学校、幼稚園もあとわずか、すぐにクリスマス、年末、そしてお正月か。
いち早く届いた門松を見ながら、来年もいい年であってほしいと思った。
しばらく居間に飾り、暮れに玄関に供えたいと思っている。


幼稚園のフェスティバル 女白虎隊

2010-12-02 | 教育を考える
 文化センターで、萌香ちゃんの幼稚園のフェスティバルがあった。
 長い間の練習の成果の発表会だ。
 いよいよ年長組「女白虎隊」の出番だ。
 萌香ちゃんの真剣に踊る姿はとても凛々しかった。
”唇かんで 眉上げて ~”
 あの齋藤京子の切ない、しかし凛とした歌が流れた。



 【萌香 女白虎隊】

萌香ちゃんの成長を見ていたら、胸が熱くなった。
 もうしばらくの幼稚園生活の締めくくり、凛々しい姿で素晴らしい剣舞だった。

2年前に、武琉くんが同じ発表会で「白虎隊」を踊ったことを思いだした。

(武琉 白虎隊 2008.12.5)
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 (拙ブログ 「感動の幼稚園発表会」 2008-12-05より )
《年長組の武琉君は、オペレッタ「ぬまのほうせき」と「白虎隊」剣舞を立派に踊った。武琉君の舞う、凛々しい白虎隊の姿には目頭が熱くなった。声を出して泣きたいくらいだった。こんなに素直に良い子に育つ孫たちの成長が嬉しかった。これから郷土・会津を背負って生きていく孫たち、そのけなげさや精一杯演技する姿などが複雑に絡み合い、涙が流れた。剣舞は年長3クラスから抽選で選ばれた12人、さぞかしずいぶん練習をしたのだろう、整然と、誰一人乱れることなく真剣に舞った。その姿に久々の感動を覚えた。隣の妻も同じ気持ちで見ていたのだろう。暗がりで頬に手をやる気配が見えた。》
http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/m/200812
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図書の返却

2010-12-01 | Weblog

公民館の付属図書で借りた本の返却日だった。ついでに、国保の今期分を払いにでかけた。
歩きながら、数行目で追うと、もう少し読みたいと思った。
 師走とは思えない温かい日だった。
あまりに穏やかな小春日に、公民館の前の墓地公の一角で腰を下ろした。
 冬のたたずまいの中、大塚山古墳が静かに広がっていた。


 今回借りた本は、司馬遼太郎著『この国のかたち』(4)と(5)、関川夏央著『司遼太郎の「かたち」』、江藤淳著『妻と私』だった。

○ 司馬遼太郎はエッセイ「この国のかたち」で、時代を超えて変わらない不易なもを探りたいと述べていた。
また、この著作の背景には、「人は無人広野に産まれず、そ民族やその国家、社会さらにはその文化のなかにうまれてくるのである。
さらに言えばの歴史の中にうまれてくる。」という感懐があると。
 先日の小学校の授業参観で、各教室や廊下に掲げられる“あいづっこ宣言”を見た。



もちろん、その底流には、日新館の教え「什の掟」がある。
 什の掟
    一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
    二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
    三、虚言をいふ事はなりませぬ
    四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
    五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
    六、戸外で物を食べてはなりませぬ
    七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬものはならぬものです

これは、我が子の時代にはなかったが、孫に聞いたら、毎日朝の会でみんなで唱和しているそうだ。
 会津で生まれた子供たちには、会津の新しい道を作っていってほしいと思っている。

 人は郷土の歴史の中に生まれてくる。まずは歴史を学びたい。
 会津と言うとどうしても維新の頃の歴史が中心となりがちだが、最近はそれ以前の会の深い歴史を学びたいと思っている。
しばらくは進んで郷土のいにしえを訪ねたいと。

○ 『妻と私』変な本を借りてきてしまった。昨年、愛犬を亡くししばらく立ち直れなったことが浮かんだ。
最愛の妻を癌に奪われ、1年を待たずして後を追った江藤氏の慟哭の手記だ。
死とは、妻のこと、人生とは・・・。

彼の遺書に言うように、諒とする気持ちが半分ある。
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心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の藤淳は、
形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。
乞う、諸君よ、これを諒せられよ。  平成十一年七月二十一日 江藤淳
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 江藤氏のつらいこころをたどり、今を大切にしなければと思った。



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