エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

初めてのスケート

2011-02-28 | Weblog

このところの日曜日、孫の機嫌取りが続いている。
 孫たちには初めてのスケートをしに、磐梯熱海へ連れて行った。
 昔、千石町にあったスケート場は既に無くなり久しい。
もう30年も前には、学校のホームルームに生徒を連れて行ったり、町内の子供会でも行ったことがあった。
その後、神指の温泉施設にもしばらく併設されていたが、最近これもなくなった。
 フィギィアースケート人気もテレビの世界のようだ。

 午後から、折角なので下道を走り、長浜でハクチョウやカモと遊んだ。
北帰行が始まったのだろう、水鳥たちも大分少なくなったようだった。







 熱海に二つある、郡山アイススケート場は屋外リンク、隣のユラックス熱海の郡山アイスアリーナは屋内だ。
いい日が当たっていたが、風が強いので屋内に入った。
 靴を借りて孫たちは初めてのスケートリンクに立った。
 孫たちのはじめの一歩はどんな気持ちだったろうか。
 立ち方や滑り方を簡単に話したが、論より実践、子どもたちはそれなりに滑り始めた。
約2時間、飽きることなく滑った。孫たちが、あっけなく上手に滑れるようになり驚いた。



 スケート場で借りた靴を履きながら、あのスピードスケート用の刃の長い靴は、以来どこにいてしまったのだろうか。
 あったか無かったかわからない記憶がよみがえった。
もう45年くらい昔の話。大学生活が始まった初めての信州の厳しい冬の遊びはスキーだったが、たまたま訪ねた友達の下宿の裏に全面結氷した常田池があった。
夜間、地域の子どもたちがスケートを楽しんでいた。中には自転車を乗り入れる馬鹿な大学生もいた。
そこで初めて滑ったスケートだったが、何回か滑るうちにスケート靴を買って、何シーズンか滑った思い出がある。

 大分滑ったが、孫たちは二人ともかかとの上に豆ができはじめていた。ひどくならないうちにとなだめて、初めてのスケートを終えた。
すっかり楽しそうだったので、また近いうちに来てやろうと思った。
 大人は寒いくらいだったが、孫たちはスキーウエア、ヘルメットもあってか、かなり汗をかいていた。
おあつらえ向き、隣のユラックスでゆっくり温泉に浸かった。
 また遊び歩いた日曜日、大分疲れたが、孫たちの笑顔が嬉しかった。

ぼくは12才

2011-02-26 | Weblog

 月一度の診察日に、いつも何か本を持参する。結構な時間になる病院での待ち時間を埋めるためだ。
また、妻の毎月末の診察日にも同様に、駐車場での待ち時間を読書で過ごしている。
不思議なことに、その一時が、しばし惰性の時の流れを止め、今を、明日を考える貴重な時間となっているように思える。
 
 昨日、妻を病院まで送る間際に本棚から何気なく手に取った本は、岡百合子著「白い道を行く旅」だった。
題名を見て随筆と思い取ったが、本の帯に「僕は12才」と見えた。そうか、あの高史明さんの奥さん、「ぼくは12才」高真史のお母さんの半生史だった。
 本の後ろの扉には「1993.12.12郡山・東北書房で求む」とメモがあった。たぶん、いろいろな場面で、高史明の思いに触れていた時期に求めたものだろう。
 すっかり忘れていたあの高史明さんを思い出しながら、ページをめくった。
本の中のアンダーラインから、遠い記憶がかすかに浮かんできた。
 そこには、反戦学生同盟に参加し、レッドパージ、血のメーデー事件などの時代に高史明に出会い反対を押しきっての国際結婚、
日本と朝鮮の大きな溝、共産党活動での行き詰まり、そして一人息子の突然の死…。
彼女の苦難の中で仏のまなざしに気づくまでの波瀾に満ちた半生が書き綴られていた。

家に戻り、「わたしは12才」をもう一度開いた。
併せて、その後、高史明さんの書いた「生きることの意味 ある少年の生い立ち」と、その後の青春編3部作を本棚から取り出した。 
 「わたしは12才」は、中学一年生の一人息子真史君の残した、優しい、聡明な詩集だ。
その中の「アルバム」に真史君の写真を見ながら、「悲しみの中から」の両親の思い【同行三人 岡百合子】と【あとがきとして 高史明 】を読んだ。切なかった。
 両親が、12才で命を絶った真史くんに、繰り返し繰り返し「なぜ」と問いながら、少年の心理、世の中の環境、民族の狭間・・・と思いを語る。
真史君の死の前に「生きることの意味」が書かれたが、真史はそれをまともに読むことなく自らの命を絶ってしまった。
父、史明氏は〈どうして、せめて一度でいいから、あの本を終わりまで読んでくれなかったんだ」〉とつぶやく。
  両親が、一人息子の死を見つめ、悩み苦しみ、そして教えられたことを胸に、もう一度「生きることの意味」を読ませていただきたいと思った。
 今手元に高史明の歎異抄の講義がある。この彼の行き着いた思いも、もう一度読んでみたいと思っている。

 しばし自分の子どもたちを育ててきた道を振り返った。子育てもただ一生懸命だった。]
試行錯誤で、子どもたちが人として豊かな人生を歩んでくれる心を持って欲しいと。
そんな子どもたちもそれぞれに社会人となり、それぞれの人生を歩んでいる。
良かったか悪かったかはわからないが、既に手は離れた。
 でも、今、日々接する孫たちには少し手を貸せるかもしれない。

「白い道を行く旅」の中に
《・・・人間とはなんと悲しいものだろう。わたしは息子の瞳に映る我が姿を見、小さないのちを全身で抱きしめながら、
、そのとき同時に、わたしの瞳にも息子の姿が映っているであろうことは考えなかった。
わたしは見る側の人間なのであった。わたしも向こうから見つめられる存在である、と言う思いが全くなかったのだ。・・・》」とあった。

せいぜい、孫の目、こころに立って対応していかなければと思っている。


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うず高き残雪に春輝けり

2011-02-24 | Weblog
【快晴 朝7時40分 2Fから】

 まだまだ朝の冷え込みは厳しく、零下7℃まで下がった。でも、今日日中は初めて10℃を超えた。
 明日は雪も降りそうだが、週間予報にも、曇りや傘マークも現れた。そろそろ三寒四温という言葉が出てくるだろう。
 ようやく春の訪れ、まさに春うららといったところ。
 雪を踏みつけて厚く凍っている前庭の氷をスコップで砕いた。
厚いところは約10センチもあった。放っておいてもあと数日で溶けそうだが、朝方はすっかり凍って滑りやすいし、
また、少し身体を動かしたいところだ。

 10時を待って、妻に頼まれ液体洗剤を買いに量販店へ行った。
 洗濯の仕方にもよるのだろうが、最近、洗った洗濯物に溶けなかった洗剤が白く付いていることがあったようだ。
なるほど、冬期間は水温が低く洗剤が溶けにくいからかと思ったが、店内の洗剤コーナーを見てびっくり、
なんと驚くほどのスペースで沢山のメーカーの液体洗剤が並んでいた。
妻は迷わず「花王のニュービーズジェル」を手に取った。
 かつて研究所に勤務、新製品の開発にも携わったこともあったので、いつも花王製品を愛用している。
その場で洗剤の成分表示を見たら、成分は同じだが、界面活性剤濃度が粉末は17%、液体は倍の33%だった。
 家に戻りネットで調べたらうなずけた。、妻も最近使い始めたようだが、衣料用洗剤市場ではどうも昨年夏あたりから
粉末から液体へと主役交代が起きたようだ。
「泡切れがよくすすぎの回数を減らせるため、節水・節電につながる点が支持された」とは、花王の話だ。
今後、洗剤の液体化がより加速されるだろうと思った。
世の中、生活用品もどんどん変化していることをあらためて実感した。

 3時半に帰ってきた孫の武琉に悲しい知らせをした。
自分の金魚と決めていた大きなしぶん金魚が死んでしまったのだ。
一週間ばかり前からちょっと様子がおかしく、数日前からは水槽の底の方でほとんど動かなくなっていた。
今朝のぞいたら身体を斜めにして口も動かさなくなっていた。さぞ辛かったことだろう。
武琉の帰りを待ち、一緒に植木鉢の土に埋めた。
雪が消えたら庭のラックの横にお墓を作ってやろう。
慈しみ育てた生きものの死はことさら辛い。
ようやく水温む季節を迎えると言うのに 、かわいそうなことをした。

 今日も、たいした話題もなく、平々凡々とした一日が暮れた。


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北帰行を前に 

2011-02-22 | Weblog

 快晴の猪苗代湖にコハクチョウを訪ねた。
 湖水に浮かぶ秀峰磐梯が凛として美しく聳え、静寂にコハクチョウの鳴き交う声が響いていた。


【崎川浜】





 この喜びをいかんせん! 言葉に尽くせない絶景に、しばし佇んだ。
 厳しい寒さだが、やわらかな春の陽に水鳥たちが静かに浮かんでいた。
 互いに首を振り振り、叫び合うコハクチョウ。
 仲良く戯れ、羽を大きく広げ羽ばたくコハクチョウ。
 何を訴えているのだろうか、.彼女らの言葉がわからない悲しさよ。
 ほどなくの北帰行を前に、寂しさ、愛おしさがこみ上げてきた。

昨年秋、雪の降る前の磐梯山麓を羽ばたくお前たちの姿が目に浮かんでくる。
【翁島で 2010.10.24】


 あれから、食べものはどうしてきたのか。足りたのだろうか。
 会津の厳しい冬を元気で過ごし、いままた北へ旅立とうとしている。
 いつも別れは寂しく辛い。
 またおいで、しばしの別れだ。

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いつもスケッチの余白に添える詩だ。

 磐梯を讃える

  青き磐梯 うるわし
  対岸の山々 湖に浮かび
  厳寒の大自然を前に
   立ち尽くすしあわせ 

  コハクチョウ
   列をなし 静かに流れる
  大自然の使者よ
   お前たちは素晴らしい
  この静寂にしばしやすらぎ 遊べ
   生きている喜びを 共にせん
 
  全身に 豊かなる大自然
  涙あふるる静寂
  磐梯 うるわし ありがたし

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会津大仏

2011-02-21 | 街中散歩
【喜多方・上三宮の叶山願成寺 会津大仏】

 きのうの日曜日、朝早くから町内の資源物回収の手伝いに出た。
 たまっていた段ボールや新聞雑誌のたぐいを4トントラックに積んだ。
 あとに町内の役員、組長の合同役員会を控え、船頭が多すぎるくらいで作業も30分で終えた。



何年も、隠遁生活を送っていて、あまり他人と話をする機会もなかった。
この町内に住み30数年になるが、知らない人がほとんどだったが、和気藹々と作業が出来て、また違った楽しさもあった。
先ずは任期2年、ささやかなボランティアをしたいと思っている。

約1時間の会議を終え帰宅すると、娘夫婦が来ていた。
血糖値を気にしながらも、手土産の熊野屋の「イチゴ大福」を初めていただいた。
デザインも味も素晴らしく、イチゴの下にはあんとクリームが入っていた。



 最近は、孫の萌ちゃんは「折角の日曜日、温泉につれていって」などと生意気なことを言う。
 夕方、みんなで相談して、熱塩加納の温泉に出かけた。
 お湯に入る前に、しばらくぶりに会津大仏のある叶山願成寺に詣った。
杉木立に囲まれた雪に埋もれた静かな境内には、重厚な山門、本堂、庫裏などが佇んでいた。





この山門には趣き深い彫り物がたくさんある。いつもここへ来ると、彫られた干支の動物や七福神などを見上げながらぐるっと門を一回りするのが楽しみだ。
 孫たちは<見ざる・聞かざる・言わざる>の3猿の彫刻を見つけて歩いた。
3猿はそれぞれ違った方向に配されていた。
 日光東照宮に有名な三猿があるがその起源は未だ十分に解明されていないらしい。
ウィキペディアには、
《「見ざる、聞かざる、言わざる」は日本には8世紀ごろ、漢語の「不見、不聞、不言」を訳した天台宗の教えとして伝わったものだという説がある。》とある。
 また、インドのマハトマ・ガンディーは常に3匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたらしい。







 山門をくぐり、かなりの雪の中を本堂にお参りして、奥の方の会津大仏へ進んだ。
金色の木造の阿弥陀三尊像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されている。
寄木造りの阿弥陀像は高さが2.41m、小さな千体仏を散りばめた船形光背が特徴だ。
この小仏像は、お守りにと武士が懐に忍ばせて戦地に赴き、無事に環るとまた戻したといわれ、
現在、150体ほど欠けて空いているのは、戦死して戻せなかったからと伝えられている。
 脇には、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が安置され、全く動かないろうそくの炎がまるで絵に描いたように灯っていた。



 参拝者名簿に記帳してお参りし、ガラス越しに阿弥陀三尊像の写真を撮らせていただいた。
 厳しい寒さの中で、こころが静まる思いがした。
 植木の立派な雪囲いにまだ沢山の雪が残る大仏殿の前の池は、少し氷が溶け始めていた。



日帰り温泉「夢の森」にゆっくり浸かった。
 しばらく前からじいちゃんと男風呂に入るようになった武琉君、熱いのが苦手でずっと雪の露天風呂を満喫していた。
 御夕飯も外食、若松まで戻り、自宅近くのカッパ寿司に寄った。
 孫たちはマグロやネギトロが大好き、じいはあんきも、ウニ、生たこなどをおいしくいただいた。
 風呂上がりのビールがおいしかったが、一つの疑問は、メニューにお酒がないことだ。寿司には冷酒が一番なのに....。
 賑やかな、充実した日曜日を過ごすことができた。

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愛車との別れ

2011-02-17 | Weblog
                                 【お世話になったスバル レガシー250T】

 今日、10年間お世話になったレガシーを手放し新しい車に替えた。
なんだか寂しい気持ち、学校へ行く孫たちにも「さよなら」を言わせた。
 もっと大事に乗ってやれば良かったと思う。
 別れるレガシーも、言葉は聞こえないが、「元気でやれよ」と言ってくれているようだった。

 思えば、これまでいろいろな車に乗った。
 東京での会社勤めをやめ郷里の教員となった年に、初めてのマイカーは、カローラだった。
その後、マツダのグランドファミリア、スバルのレオーネ、トヨタのカムリプロミネント、そして今のレガシーに乗ってきた。
一台一台が、共に歩いた人生の伴侶だった。

 新車はレオーネだけで、あとは2,3年乗った中古車を乗りつぶしてきた。
1ランク上の車を安く買えるから、中古車で十分。所詮、車は走ればいい主義だから、洗車もほとんどしなかった。
今回も新車をと進められたが、車に乗るのもあとわずかだろう、せいぜい里山巡りか買い物の足くらいと、中古車にした。

  一台一台に懐かしい思い出がよみがえってくる。
グランドファミリアのとき、浪江に海を見に行った帰り道、季節外れの雪がうっすら積もり始めスリップして自損事故を起こした。
あわや谷底に落ちるかと思われたが、幸運にも橋桁と立木の間にぶつかり止まった。
当日は日曜日、何とか探した山の中の修理工場にお世話になった。お土産のアサリを沢山お礼に差し上げた。
なんとかのろのろ運転で川俣まで生還したことが、昨日のように思い出される。
 いわきへ単身赴任中はレオーネに乗っていた。毎週末に、いわきから150km の距離を帰省、月曜の朝は5時に「いわき」へ向かう生活だった。
この車は、高校を卒業した息子に譲った。
 そのあとに乗ったカムリプロミネントは一番の高級車だった。
すべてが電動で、高速道での長距離の自動運転が珍しく、楽しいドライブだった。ソファーも高級ないい車だった。
一番の思い出は、東北一周旅行だろうか。20万キロ近く乗ったが、最後はエンジンのオイル漏れがひどく手放した。
 今のレガシー250Tもいい車で、特にデザインが好きだった。
でも、よく山の中へ乗り入れあちこち傷だらけ、おまけにほとんど洗車もせずに酷使した
。今になってもっとかわいがってやれば良かったと反省している。
これは時々の故障で、金食い虫だった。前回の車検も修理箇所が多く30万円もかかった。
でも、10年も乗って走行距離も20万キロを超え、一番別れが惜しい車となった。

 今度の車はどんな思い出を残してくれるだろうか。いい思い出を沢山つくりたいと思っている。
そして、最後の車となるだろう。程度は十分ではないが、これまでお世話になった車の分まで愛情を注いで乗らせて貰おうと思っている。
たまにはワックスなどをかけたりしてきれいに愛着を持って乗ろうと思っている。


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穏やかな春の兆し

2011-02-16 | Weblog
                             【庭に来たキジ】
 
今朝の気温が-8℃、相変わらず寒いが昼現在+3℃、風もなく日差しは暖かい。
久しぶりにおだやかな春を感じた。
 雲一つ無い快晴に恵まれ、磐梯山も、遠く飯豊山もくっきりすがすがしく聳えている。

【麗しの磐梯 2F窓から】

a.m.11:30


p.m.5:15

【飯豊山 2F窓から】

a.m.11:30


p.m5:15

 嬉しいことにしばらくぶりに庭にキジが訪問してくれた。急いで窓越しにカメラを向けた。
こちらの様子をうかがいながら雪の上をゆっくり歩いていた。元気で冬を越したぞ、と挨拶に来たようだ。
しばらく観察していたが、目と目が合ったと思ったら、足早に雪の上を走った。




【精悍で美しい】

 餌台には、カケスが来ていた。いつも来ているヨドリよりも警戒心が強いようだ。
結構大きな身体の、翼の青い縞模様がきれいだった。



【カケス】


 ヒヨドリは、雪の上でくつろいでリンゴの皮をついばんでいた。
 乗り越えた長かった厳しい冬を振り返っているのだろうか。
ようやく春の兆しを感じている。
 

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 絵ろうそくまつりを楽しむ

2011-02-12 | Weblog
   

 
  静かに降る雪の中、家族で絵ろうそくまつりに行ってきた。
 今年は11,12の二日間、どうも一番人出の多い時間帯にぶつかったようで、かなりの人出だった。
今年は12回目を数えるが、年ごとにいろいろ趣向が凝らされていると思えた。
 メイン会場は鶴ヶ城と御薬園だが、最近は街のあちこちの商店街にもろうそくが灯されているようだ。


 市内の小中学生の作ったいろいろな切り絵をデザインした黒い紙の囲いがとてもきれいだった。
また、幼稚園や保育園児の絵で囲った灯籠も良かった。


毎年、絵ろうそくのほのかなあかりが灯る幻想的なたたずまいを楽しんでいる。
そんな雰囲気を写真に撮りたいと思うが、なかなか難しい。ストロボを焚かずに露出を合わせるのが難しい。
フラッシュをたくと雪の粒が美しく写るが、遠いお城は暗い。

  

  

「会津絵ろうそくまつり」は「ゆきほたる」と言うサブタイトルが付いているが、これは市民の応募による命名だそうだ。
 観光客を楽しませるまつりでもあろうが、どちらかというと、「ゆきほたる」と言うように、はかない静かなたたずまいがいい。
多分、御薬園ではより幻想な世界が見られるのではないだろうか。来年は行ってみたいと思う。
 いずれにしても、灯籠をはじめ、企画から制作までの実行委員会はじめ、当事者の苦労は大変だと思う。ありがたい。
 来年は少しでもボランティアなどで協力できればと密かに考えている。

「会津絵ろうそく」は会津伝統工芸品の1つ、1本1本に菊、牡丹、藤などの季節の草花が色鮮やかに描かれている。
 本丸入り口の露天で売られていた。


 


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ゆるんだ雪

2011-02-07 | Weblog

 朝から大きな雪が舞っている。
庭に吊してある寒暖計は0℃、雪かきには心地よいそよ風が吹いている。
思えば、まだ2月が始まったばかり、また寒波が来るらしい。
 圧雪の私道は少し気温がゆるんだか、くねくね曲がったタイヤ痕が付き、雪がざけていた。
ちらちら雪の舞う中を、妻とスコップを手に柔らかくなった雪をけずりに出た。
 途中、小屋の屋根の雪が大量に道に落ちた。厚さは50cmを越える雪のかたまりが道路をふさいだ。
時間をかけてようやく取り除いたころ、待ってましたとばかりに車が下りていった。
くねくねハンドルをとられながら市道へ出て行った。そのあとを削られた雪をまた一通り削った。
 いつも雪をかたすこともなく、当然と行き来している住民に愚痴の一つもこぼしたくもなる。
 正直者が馬鹿を見る・・・、世の中こんなものかもしれない。
 転倒から10日になるが、まだ左手がよく上がらない。なかなかの重労働、すぐに息が上がてしまう。
雪がひどくなってきた、ひとまず引き上げだ。くたくたになってシャベルを引きずって帰った。
 
道路に面している近所の物置の雪の布団がまた大きくまくれていた。
 おもしろい雪の布団を写真に撮った。


 午後、分厚い氷が気になって1Fの屋根の雪を下ろしをした。と言っても、じいは肩が痛いので「気をつけろよ」と見守るだけ。
若くはない、同じように歳をとった元気な妻に感謝、感謝の冬だった。
 上れない2Fの積もったままの屋根の雪はいつ消えるのだろうか。




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春から縁起がいい プレゼント当選

2011-02-05 | Weblog
 

 宅急便でお酒が届いた。思いもかけないプレゼントに当選した。
 「ご当選おめでとうございます。福島民報「こころの琴線」読者プレゼント。」だ。
 もう応募したこともすっかり忘れていたが、確か3名に当たるプレゼントだったことを思い出した。
 かなりの倍率をくぐっての大当たりだったろう。
 包みを開けてまたびっくり、桐箱入りの四合瓶の高級清酒だ。
 ラベルには、《社長の隠し酒 大吟醸原酒雪小町山田錦》とあった。
さらに、山田錦100%醸造、アルコール分17度、精米歩合40%とあり、さぞ高価に思われた。
 しばらく、この高級なお酒をじっくり楽しみたいと思う。晩酌が楽しみだ。
 早速、送り先の郡山市西田町の(有)渡辺酒造本店【http://www.yukikomachi.co.jp/】の社長さん宛に礼状のはがきを書いた。
 日々お酒を楽しんでいる身にとっては、この上ない贈り物である。


 
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豆まき、そして立春

2011-02-04 | Weblog
【麗しの磐梯 2011.2.3 p.m.3:00 2Fから】
きのうは節分、久々に晴れ渡り、磐梯が麗しい姿を見せた。


【 2011.2.3 p.m.3:00 】

 夕食前に、孫たちと一緒に豆まきをした。
  「鬼は外~! 福は内~!」それぞれに広告の紙で折った枡に沢山の殻付きの落花生を入れて、力一杯撒いて回った。
 2階の奥の部屋から順番に豆をまいた。孫たちは元気に撒いた先から拾い集めて歩いた。
 萌ちゃんが真っ暗な寝室へ入ったとたん、事件は起こった。
 大きな悲鳴を上げて転がり出てきたのだ。一瞬、何事が起きたかと驚いた。
後から続いた武くんも、逃げてきた萌ちゃんに突き飛ばされて転んだ。
中から「ごめん、ごめん」と、青鬼のお面をかぶったばあちゃんが出てきた。
萌香ちゃんが幼稚園で作ってきたお面をかぶって。本当に驚いたが、おばちゃんの言い訳は、電気を付ける前に萌ちゃんが入ってきたから・・・と。
 気を取り直して、廊下、階段、玄関、台所、洗面所、応接間、最後に居間と、大きな声で豆をまいた。これですっかり厄をはらえただろう。
 豆まきのあと、お夕飯は「福を巻く」と言うことで手巻き寿司だった。
 思い思いに、大きい海苔、小さい海苔にご飯をのせ、いろいろな具を巻いて頬張った。
 談笑しながらのおいしい夕食、「みんなの鬼は何だろう」に、孫たちは「怒りっぽい鬼」「泣き虫鬼」「わががま鬼」などと話していた。
 我が心中にもたくさんの鬼がいると思った。
 床の間には「難破心中之賊」の掛け軸が掛かっている。
 改めて、人に言えないたくさんの鬼を少しづつ退治したいと思った。
(参)拙ブログ 「叔父の掛け軸」2007.2.5)
 http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/7a7b9e6883cfaafd727e85570d7ced78

一夜明けて、今日は春、午前中は予報は外れ、時々細かい雪が降った。
立春とはいえまだまだ寒く、午後は陽が差したが庭の温度計は終日氷点下だった。
 夕方、庭のうずたかい雪の山の向こうに赤い陽が沈もうとしていた。


【 2011.2.4 p.m.4:30 】


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小説『蒲生氏郷』 を読了

2011-02-02 | Weblog


童門冬二著の小説『蒲生氏郷』を楽しく読んだ。
雪降りの縁側で、窓の雪の明るさを借りて、来る日も来る日も読書だった。

  現在の会津若松の基礎は文武両道に優れた人材・蒲生氏郷によって築かれ、郷土の恩人と言われている。
  先日十日市に行った折りに、神明通り脇の興徳寺に蒲生氏郷公の墓所を訪ねた。
 また最近、関連する拙ブログへ、keiさん(ブログ『京の辻から』)からコメントをいただき、童門冬二著の小説『蒲生氏郷』を知った。
 いつか読んでみたいと思っていた。
とかく幕末・戊辰の会津に目が向きがちだったが、古代からの会津の歴史を見つめ直したいとも思っていた。

「小説蒲生氏郷」は分厚い約700ページの集英社文庫で、カバーには
《かつて織田信長から受けた薫陶を忘れず、商人優遇の領地経営を心がける戦国武将・蒲生氏郷。
 戦場往来で出世を重ね、独自の経営哲学を実践するかれの周囲では、さまざまな商人が、新たな人生をきりひらいていく。
 乱世に芽吹いた商いの道とは何か。後に「近江商人育ての親」と呼ばれる蒲生氏郷の生涯を通じて”商いの原点”を高らかにうたいあげた異色の戦国ロマン。
 全1冊・決定版。》とある。
 また、書評には
《「信用」「情報」「忍耐」「才覚」「倹約」をモットーに一世を風靡した近江商人の「商いの原点」と天秤棒精神。
天下取りの苛烈な時代を背景に、"信用"第一の着実な歩みが生み出す世界を切り開いていった男と、
 目まぐるしい闘争が繰り返される権力の世界に生きた男の生涯を通して、現代の日本人の生き方、経営のあり方を問うた雄渾の長編小説。》と。

 読了して心に響いたシーンをあげれば、  
 ・辞世の句を詠んだいきさつ(利休の死)
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
 ・氏郷が仁右衛門の息子仁五郎に語ること(茶室の再会)
 ・ひたすらに、この世のむなしさを思う氏郷(春の山嵐)・・・などか。

  本書は、もともと『近江商人魂-蒲生氏郷と西野仁右衛門』のタイトルで発刊されたものであり、
 戦国武将としての蒲生氏郷と、近江商人の西野仁右衛門の生き方を対比させるかたちで進行していく。
 氏郷は実在の人物だが、西野仁右衛門は、武士出身の坊主の行商人・鈴木正五が教える”行商に必要なホトケの心”を具現した近江商人だ。
 調べてみたら、「天秤棒」に出てくる鈴木正五は、歴史上の人物、禅僧・鈴木正三ではないだろうか。

 今まで琵琶湖周辺の地理には疎かったが、少しわかり興味がわいた。
今年の秋には、大学の同級会が琵琶湖湖畔の彦根で開催予定である。
近くの日野や観音寺城跡、小谷や賤ヶ岳など、歴史の土地を訪ねてみたい。今から楽しみにしている。
かつて読んだ司馬遼太郎の『街道をゆく』1巻「湖西のみち」や24巻「近江散歩」などを本棚から出して読みはじめた。

(参考)
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会津若松観光公社HP(http://www.tsurugajo.com/history/index.htm)
 【蒲生氏郷時代】より。
○ 会津若松の基礎を作った、文武両道に優れた名将
蒲生氏郷は、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚しています。現在の会津若松の基礎は彼によって築かれました。黒川を会津と改めたのも蒲生氏郷です。文武両道に優れた人材でしたが、わずか40才でこの世を去りました。
1590(天正18年)・・・ 豊臣秀吉の命により伊達政宗が陸奥国岩手山城(宮城県)へと移る。会津、仙道十一郡が蒲生氏郷に与えられました。
1592(文禄元年)・・・ 氏郷は秀吉にしたがって九州名護屋にくだり、朝鮮の役へ加わる。
その間、六月から黒川城の改築を中心に城下町の建設がはじまる。
1593(文禄2年)・・・ 六月には七層の天守閣をもつ城郭の改築とともに、城下町の建設がほぼ完成し、はじめて家臣団の住む郭内ができ、庶民の住む郭外とは土居と外堀で分け、黒川を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名。
1595(文禄4年)・・・ 二月七日、氏郷が亡くる。享年40歳。京都の大徳寺昌林院に葬り、遺髪が若松の興徳寺に葬らる。氏郷のあとは、子の秀行が継ぐ。
1598(慶長3年)・・・ 秀行が宇都宮に十八万石で転封。

○ 郷土の恩人・蒲生氏郷
 このような、氏郷の功績は、今も私たちの生活に大きな影響を残しています。大町の十日市は会津の正月を彩る一大イベントですし、夏のお日市はまちまちの風物詩として親しまれています。氏郷が近江国から移入した漆器と酒造は、歴史と自然に恵まれた郷土会津を代表する2大地場産業として全国に知られています。会津若松市民が今も郷土の恩人として氏郷を讃えていることも当然といえます。
信長は安土城を築き、楽市楽座を設け、城下町を整えるなど、自由で豊かな桃山時代をおこしたことで有名ですが、その女婿でもある氏郷も会津に大きな足跡を残しました。
 氏郷は会津に入ると鶴ヶ城の整備に着手しました。氏郷の郷里近江の国からたくさんの技術者を呼び寄せ、現在も残されている野面積み(のづらづみ)の天守台を築き、七層の天守閣を建てたと伝えられています。
 また、葦名時代の手狭な城下を一新し、郭内から神社やお寺を外に出して家臣の屋敷を連ね、車川を利用して外堀を築き、郭外には庶民を住まわせ、その要所に神社やお寺を配置するなど今日の会津若松市街地の骨格を定めました。そして郷里である近江国蒲生郷の「若松の森」にちなんで黒川を若松と改めました。
 さらに商工業の発展を奨励するため、いくつかの有意義な施策を講じました。その一つは市を設けて生産物の交易を図ったことです。馬場町は「1」と「8」、本郷町は「2」と「7」、三日町は「3」、柱林寺町は「4」と「9」、大町は「5」と「10」、六日町は「6」と、日を定めて市を設けました。次に近江国から木地師と塗師を招き、会津の地場産業として今も大きな役割を占めている会津漆器の基礎を作りました。また酒造や金工など、上方の優れた技術を会津へ移入することで後世に伝えられる産業の振興を図りました。

○ 文武両道
 氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られますが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する文化人としても有名です。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです。利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあり、茶の湯を通じた利休と氏郷の交流には興味深いものがあります。
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