エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

晩秋の庭に充実した日々を誓う

2006-11-30 | 日々の生活
 今日、庭はみぞれ混じりの冷たい雨に煙っていた。ときが静かに流れていた。
クマシデの幹の間からひときは明るく見えるモミジを、書斎からぼんやり眺めていた。                       

 他の庭木が色づいた葉をすっかり落とした庭に、紅と黄色のイロハモミジが燃えるよう輝いていた。色づきも庭で一番遅かったこのモミジは、キリの木の下でいつも庭に最後の錦を誇っているのだ。
 
 カメラを持ち静寂の晩秋の庭に出た。幾重にも落ち葉が降り積もり、冷たい雨に鮮やかだ。折れたキリの枯れ枝にオレンジ色のシュタケが生えていた。傘のうしろの管孔がよく観察できた。アキノキリンソウの白い冠毛が輝き、何とも言えない晩秋の佇まいを感じた。

【書斎から晩秋の庭】


 冬を迎える庭のそれぞれに美しい樹木をながめながら、限られた年月を意識しながらの1年がまた過ぎ去ろうとしていると思った。
 11月も今日で終わり、明日から師走だ。1年を締めくくる時期、忘れられない日々の思いに、意識を新たにしなければならない。
 生かされて4度目の暮れを迎え、退院後まとめた闘病記を読んだ。とかく忘れがちな、新しい出発を誓ったこころを取り戻したい思いだった。
 闘病中の生活が断片的に浮かんできた。辛かった日々の1コマ1コマを思い、健康に感謝してこれからの楽しい充実した時を誓った。

【シュタケ】
【シュタケの管孔】




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【 「○○闘病記」序文より 】
長い入院、療養の日々、毎日の心の動きをメモせざるを得なかった。
病の回復を神に祈り、平凡でも幸せな明日を願うために綴った、○○、○○
それぞれのノートのメモをここにまとめる。
家族がそれぞれに「一つの病」を見つめた数ヶ月、その思いの一端をいつも
忘れたくないと思う。
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政治的な教育論争はいらない

2006-11-29 | 教育を考える

 教育基本法の改正案が実のない論議だけでいつの間にか衆議院を通過してしまった。唖然としている。現行法のどこが問題で、なぜ改正をそんなに急ぐ必要があるのだろうか。また同時に進められようとしている学校選択制や教員の評価制度など、教育行政に大きな疑問を感じ、いらだちを禁じ得ない。どうしても、教育現場の実態をよく知らない机上の論理に聞こえてならないのだ。
法律を変えても今の教育や子どもたちの閉塞状況は変わらない。今もっとも大切なことは、教師と子どもが和やかなはつらつとした学校生活を送ることで、そのための教育環境を整えることだと思う。管理的な学校であってはならず、教員や保護者、地域が互いに協調する学校教育という根本認識は当然だ。
 立ち止まり、子どもたちの毎日をじっくり見つめるゆとりを持って、子どもたちを本当の大人に育てなければならない。


俳句を詠んでみたい

2006-11-28 | 文芸
 いつも、何人かの俳句を載せるブログを楽しみにし、感心している。
 素晴らしい俳句に出会うとき、いつも、自分も俳句を詠んでみたいと思う。でもなかなか詠めない。
目に入ったものを写生する文なら何とか書けそうだが、なにしろ、繊細な心の動きを五・七・五の十七文字で表現するのだから簡単ではない。
 目や耳から入る情報が感性豊かなこころと結びつくとき、大きな世界が広がる。俳句ってそんなものだと思う。ならば、情報は同じでも感じるこころがないと、俳句は詠めないと言うことだろう。
 いい句を詠むには、感性を育まなければならないと思う。技法ではなく、まず内面の感受性がなければならず、表現力はその後に付いてくるものだろう。
 これまで生きてきた心の動きの蓄積がこの内面の感受性であれば、この年になっては、もう遅いような気がする。


《静寂の庭にまだ残る紅葉を眺めながら》
菊の香に我が青春は旅立ちぬ
打ち込みし半生報わる秋紅葉
連れ添いし35年秋の雨
人生の別け隔てなく落ち葉舞い




紅葉をラミネート

2006-11-27 | エッセイ
昔、紅葉した葉をラミネートしたことがあった。
美しく色づいた葉を新聞紙に挟んで数日おく。乾燥した葉をラミネートフィルムに挟んで、ラミネータでラミネートする。それだけで、きれいなしおりができる。
しおりにして、本に挟んで使っている。使い切れ図に数十枚が箱の中にしまってあった。思い出して並べてみた。
 当時、楽しくて、何枚も作った。サクラ、モミジ、カエデ類、ケヤキ、ヤマイモ、レンギョウ、エノキ、ニシキギ・・・あらゆる葉っぱをラミネートした。
 10年も前に作ったそのままだ。いろいろな葉の形や色、特に葉脈や葉の端のつくりを観察した。表も裏も見えるからいい。
ソメイヨシノ葉は、所々虫に食べられたり、葉の端のギザギザを見ていると飽きない。
ツタの葉もきれいで気に入っている。黄色から赤へのグラデーションに、所々緑が斑に残っている。

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エッセイ
「こたつで紅葉をながめる」(2006.1.6)

 読みかけの本から、しおり代わりにしている紅葉したソメイヨシノの葉が落ちた。秋の日に押し葉にして、透明フィルムでラミネートしたものだった。
 葉は赤から黄色のグラデーションが実に美しい。ルーペで覗いてみた。葉脈の網目や鋸状の縁取り、虫の食痕などが鮮やかで興味深く、不思議の世界だった。
 無限に舞い降りる枯れ葉は、やがて分解されすべてが土へ帰る。でもその前の輝く生命を残したかった。何枚かのラミネートには、他にイロハモミジ、エノキ、ニシキギなど、それぞれに美しい新鮮な色合は、秋そのままだった。これら、自然の造りものはいずれも美しく整い、あらためて感嘆させられた。
 冬、こたつに当たりながらの読書に、はからずも身近な自然の造形を見つめることとなった。ふと、ついこの間過ぎ去った季節を思い、時の流れに沿いながら生きる日々をぼんやり考えた。
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雪囲いを終える

2006-11-26 | 日々の生活
              《書斎に取り込んだ鉢植え》

 冬近くを感じる候となった。庭の冬支度をしなければと思いながらも、吹き始めた寒い季節風に、躊躇していた。少し暖かい日にと思っていたが、今日は寒かったが風がない快晴、小春日に家回りの冬支度をした。
 今朝はこの秋1番の寒さで、最低気温が氷点下2.6度だったが、日中は12度まで上がった。
 冬を越せない鉢物はずいぶん前に部屋の中に取り込んでいた。書斎、廊下に一杯になったが、何となく部屋が落ち着いたような気がして、緑が一段と元気を出したようだ。1年草のたぐいも、ここ数年冬を越して残った株から花を咲かせている。

 脇で遊ぶ孫達を世話しながらなので、午前中一杯かかって庭中の植木類の雪囲いを終えた。耐寒性の鉢物の盆栽類は、ツツジやアジサイなどの根元に並べた。雪が降っては締まりながら1㍍は積もるので、背の低い木は枝はやられてしまう。杭を何本か打って、そこに枝を塩ビの紐で括る作業だ。シオン、アキノキリンソウ、ハナトラノオ、オイランソウ、シュウメイギク、ホオズキ、シソ、アイ等など、冬を間近に庭に寂しく立つ枯れ始めた茎を切った。毎日集めていた落ち葉もかなりの量だ。
 昼からは、西側の窓側に、毎年使っている波板を枠にはったものを7~8枚立てかけたた。夏に痛めた肩が上がらないので、休み休みの大仕事だった。もう明日雪が降っても大丈夫だ。

 冬を越さなければ春は来ない。
 この冬の雪はどうだろうか。大雪にならなければいいがと思っている。(11/24)

晩秋の風物詩「野沢菜漬け」

2006-11-24 | 日々の生活
            《 信州の風物詩 野沢菜を洗う 》

 暮れから正月、雪の季節から春先まで、我が家では信州の野沢菜漬けを楽しんでいる。
 今年も、昨日宅急便で妻の実家からみずみずしい野沢菜が届いた。年によっては、旅行がてら野沢菜の収穫に帰ることもあった。 今年は温かかったが、強い霜が2回ほど当たったので少し早めに送ってくれたそうだ。霜が当たると葉が柔らかくなるそうだ。
 もみじ葉が一片ごとに散り始める穏やかな小春日和に、庭で、妻のいつも変わらぬ「信州の風物詩」である。
 野沢菜漬けはお菜洗いから始まった。ほとんど洗わなくてもいいくらいきれいにして送ってもらった。野沢菜の丈に合わせた漬物ケースに漬けるが、ぴったりの丈だった。。塩をふり、少し砂糖を入れる。砂糖を入れると、野沢菜の灰汁っぽさが抜けてまろやかな優しい味になるそうだ。いつもは鷹の爪を入れるが、孫もいるので今年は入れない。
はじめは重い重しを乗せ、水が上がってきたら軽い重しに替える。10日ばかりで食べ始められる。
 野沢菜はご飯によく合う。あの茎の歯ごたえが何とも言えない。食後茶碗に注いだ白湯に葉の部分を広げて飲む味がまた格別だ。そして、野沢菜漬けは春が近づくとどうしても飴色に変色する。でもその野沢菜も油で炒めてチャーハンにしたり、砂糖で煮詰めて佃煮風にして懐かしい味を楽むこともできる。
 信州では、真冬には氷の付いたままの青い野沢菜が食卓に出される。
 冷たい、緑の鮮やかな野沢菜をいただいた、さわやかな信州での懐かしい青春がよみがえってきた。


《信州から届いた野沢菜》  

     《重しを乗せ 水が上がるのを待つ》

 

美しい自然の営みを発見

2006-11-23 | エッセイ

 盛りを過ぎた生き様はあまり注目されないようだが、アキノキリンソウだろうか葉は紅紫色に凛々しく、咲き誇った花は丸い綿毛となり幻想的で美しい。ポプラやサクラはすでに九分通り葉を落とし土をおおっている。プラタナスのだいだい色の輝きが碧空に映え、そのコントラストがひときわ麗しい。そして、つるバラの赤い実が小春の陽に輝いている。
 自然を観察し野の草をスケッチする手にアカネが静かに舞い降りた。誰もめったに踏み入ることのないグランドの片隅にも、秋の終わりの精一杯の美しい自然の営みがあった。
 久しぶりに自然の中にある自分と、冬を目前にした木々が共有する感懐をうれしく思った。それは情景からくる一抹の寂しさであり、一年を巡りここに到った道のりを振り返る思いでもある。晩秋のひととき、この小さな自然を見つめながら、時が明日へ遷ろい、会津から遥か彼方の大地へと連なる思いにしばし時を忘れた。

晩秋の鶴ヶ城

2006-11-22 | 街中散歩
      【木々も葉を落とした 鶴ヶ城 天守閣】

 天気予報では、午後からは冬型に変わり、風も出て寒くなり、雨から雪に変わるかも知れないという。午前中、穏やかな晴れ間に誘われ、久しぶりにお城・鶴ヶ城を廻ってきた。
 四季それぞれに美しいお城をときどき訪ねているが、少し遅い紅葉に囲まれた天守を見たいと思った。
                                  【会津嶺の歌碑】
 

 三の丸跡の県立博物館側から本丸を目指した。途中の万葉歌碑と秋月悌次郎の碑の前のモミジは真っ赤で目が覚めるように美しかった。
会津嶺の歌碑 (「会津嶺」は、現在の磐梯山)
  会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね
 (巻14-2326)
【安比豆称能久称平佐杼抱美安波奈波婆
     斯努比称勢毛等比毛牟須婆佐称  萬菓集巻十四陸奥國歌】

 二の丸では、はらはらと黄色いケヤキの葉が散り、晩秋のたたずまいが実に素晴らしかった。南向きの土手に、季節はずれのリュウキュウツツジがきれいに咲いていた。珍しいのではないだろうか。













     【雪吊りの作業が続く本丸】

朱塗りの廊下橋を渡って本丸へ、 橋の両側には「忍者落とし」と呼ばれる、長さ130㍍、高さ50㍍の見事な石垣が広がっていた。
 
本丸は、今は雪吊りされた多行松が美しく植えられた広場で、現在は南東の一隅に茶室麟閣だけが昔の姿を残す広い広場になっている。回りを鉄門と、最近復元された走り長屋で囲まれている。
 南西の隅の月見櫓跡からの天守閣がまた美しい。手前のサクラはすっかり葉を落として、枝だけになってしまった。この月見櫓の前に荒城の月の碑があるが、土井晩翠は旧制二高時代、取り壊された鶴ヶ城跡を訪れ、名曲「荒城の月」の作詞のきっかけを得たといわれている。
鉄門(くろがねもん)を通って西出丸へ回り、お掘りを眺めた。
 静寂のお堀は、錦に色づいた紅葉が水面に映り美しかった。カルガモがゆっくりと泳いでいた。西出丸から北出丸へ回り、本丸、武者走りの石垣を通って廊下橋へ戻った。あちこちで白亜の天守閣を写真に撮りながら、一周約40分の散歩だった。
 今度来るときは、お城は雪に埋もれているだろう。
【美しいお堀の水面】




蕎麦、温泉旅行

2006-11-21 | 旅行
  《北山から飯豊連峰を望む》


晩秋の大峠を越えると米沢までわずか、一昨日の日曜日、田沢の道の駅「なごみ」で新そばに鼓を打った。
いつも、大盛りのもりそばを頼んでいる。どこのそばより好きで、ほぼ、月に1度、昼にそばを食べ、温泉に浸かって帰るだけの贅沢旅行をしている。



おもての売店で珍しい赤かぶを見つけ買った。大きい玉4株が150円。玉の上半分がアントシアニンで、下半分が土に埋まっていたのか白い。
 山形の温海町で栽培されていた庄内藩名産の赤かぶ、温海かぶが有名だが、色合いを見ながら信州の野沢菜を思い出した。
 また、いつものように山形名物の温かい玉こんにゃくに辛子を塗って食べた。


 米沢街道、米沢の入り口の道路沿いの果樹園で大きなフジを求めた。ここも、毎年同じ思い出がある。おまけにと、千秋というリンゴを沢山いただき、うんと得した気分になった。

 小一時間ほどのドライブだが、途中、頻繁に車を止めて晩秋の景色を撮影をするのが常だ。イチョウの大木を囲む、敷き詰めた黄色い落ち葉に、銀杏がころころ落ちていた。北山あたりからは、すっかり雪化粧した飯豊連山が雄大に見えた。収穫を待つ真っ赤なリンゴがたわわに実ったさわやかなリンゴ畑等など、心に響く里山の風景が広がった。


 妻のありきたりのスーパーでのショッピングに付き合い、帰路小野川温泉に浸かる。尼湯の入湯料は200円、熱いお湯だ。のんびり心の洗濯をして、帰りに温泉玉子を求め帰路についた。
 繰り返す「蕎麦、温泉旅行」はささやかな贅沢だ。

(参)拙ブログ 3/11「蕎麦と温泉を楽む」


浦上玉堂を鑑賞

2006-11-20 | 文芸
   【(東雲篩雪図) 川端康成記念会蔵 国宝】

 昨日の新日曜美術館を視聴し、浦上玉堂という江戸時代の文人画家を初めて知った。
玉堂の人となり、生き方に興味を持ち、さらに会津藩との関わりがあることを知り調べてみた。
 ネット情報によると、浦上玉堂は鴨方藩(現在の岡山県)の上級藩士であったが、詩書画にふける生活を送っていたことから、周囲の評判は芳しくなく、50歳で2人の息子をつれて脱藩。以後、全国各地を遊歴しながら得意の琴や書画を中心とする自由な生活をおくったとある。
 脱藩直後、会津藩は藩祖保科正之を祀る土津神社の神楽復興のため、音楽の能力を買って玉堂を招いたそうだ。これが縁で、二男秋琴は会津藩士となったという。玉堂は七弦琴の名手として生涯手離さず、自ら玉堂琴士と称した。
 浦上玉堂の山水画を鑑賞したが、どれも独創的で、これまでの水墨画とは違った、一風変わった独特の画風であった。
 代表作の山水画、国宝「東雲篩雪図」は、雪国・会津の冬を思い描いたのではないだろうか。
【 川端康成は二点の国宝、浦上玉堂の「凍雲篩雪図」と、池大雅・与謝蕪村の「十便十宜図」を所有していたそうだ。】

5,6年前、勤務校の創立100周年の学校祭で、布に藍の濃淡で、磐梯を描いた。約200枚描き、額入りで販売したことがあった。以来、水墨画に興味を持ち真似ごとをしていた。
 初めて見る玉堂の画の良さは十分に分からなかった。自分の頭の中にある、いわゆる山水画のイメージとはかけ離れ、何か自由奔放な独自の画風に驚いた。
いくつかの画にふれるうちに、自分も型にはまらず、もっと好きなように描いてみようと思った。

 《布絵 麗しの磐梯》


《玉堂の水墨画》
〈山高水長図〉 岡山県立美術館蔵


〈山水画帖〉


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●NHKの番組紹介より
/ ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが「日本のゴッホ」と評した浦上玉堂(1745~1820)の画業を紹介する。玉堂は備中・鴨方藩の重役まで務めながら50歳で脱藩した。その後の生涯はほとんど旅の空で過ごし、自由奔放、豪放磊落(らいらく)な絵を描き続けた。モチーフは専ら山水で、風の動きや木のさやぎまでも感じられる山水画は高い評価を受けている。ただ、玉堂自身は職業画家であることを拒否し、心の赴くままに筆を執った。玉堂は古来、中国の教養人が理想とした琴、詩、書、画に造詣が深く、傍らにはいつも琴を置き、詩もよくした。作品は現在確認されているだけで300点に及ぶ。本邦初公開となる作品を含め、玉堂絵画の面白さ、独自性を鑑賞する。 /

にんげんドキュメント 「再起の棚田」

2006-11-19 | 日々の生活
     【中越地震前の山古志村の棚田 ネットより】

11/17夜 NHK にんげんドキュメント「再起の棚田」を視聴した。
いくつもの感動の人間模様を見ることができ、人の生き方を考えさせられた。
 困って人を助け、大事なことをやり遂げるために人と人とが協力しあう。美しく素晴らしいことだと痛感させられた。
 今、中越地震で壊滅した新潟の棚田の復興に力を注ぐ五藤さんは立派だと思う。
自分の過去を振り返り、家族を、自分の生き方を語る五藤さんの思いに、そして今の立派な生き方に涙が流れた。五藤さんの優しさ、強さに感動した。

 振り返り、毎日あまりに自分本位の生活だと思った。もっと人のため、身近な家族のためにやれることをしなければならないと。自分の怠惰な生活が恥ずかしいと思った。 大病を克服した自分だが、身に染みて感じた反省もまだまだ甘いと思った。とかく失いがちな生きるこころを取り戻さなければならないと思った。

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【ネットの解説】
中越地震で壊滅した新潟の棚田に、2年ぶりにコシヒカリの姿が戻ってきた。蘇らせたのは、棚田復活のために全国から集まった60人の有志。「代々続いた棚田が消えてしまう…」という地元の叫びに応え、自ら進んで復興作業に身を投じた。
 日本一のブランド米「魚沼産コシヒカリ」の産地・新潟県小千谷市吉谷地区の棚田。中越地震で大被害を受けたが、複雑な地形で重機も入れない場所が多く、復旧作業は難航。田んぼを放棄する農家が相次いだ。
 棚田復活に駆けつけた有志のリーダーは、奈良県の五藤忠雄さん(63)。五藤さんは9年前に離婚、娘や孫と会う機会もほとんどなくなり、「このままダメ親父で終わるのか」と自問自答していた時、偶然この話を聞きつけた。「全身全霊で打ち込む自らの勇姿をもういちど娘や孫に見せたい」と考えた五藤さんは、新潟への移住を決意し、残りの人生を棚田復活に賭けた。この秋、五藤さんたち60人は、文字通り泥まみれの奮闘の末、ついに収穫を迎えた。
 様々な夢や希望を抱いて棚田復活に賭けてきた人たちの2年間を追った。
再放送は 「総合テレビ11/21(火)午前0時00分~(11/20月曜深夜)」
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会津大学の自然

2006-11-18 | 街中散歩

《グランドから雲に隠れた磐梯山を望む》


 家から会津大学まで2キロほどの距離、ときどき自転車で静かな空間が欲しくなって出かけている。
 図書館の他、広い大学構内の自然を見たり、メニュー豊富な食堂も利用させてもらっている。図書館には、主に技術専門から、文学、教育、情報等々、実に沢山の雑誌類が備わり、ときどき見せてもらっている。数週間ぶりの新聞各紙に目を通したり、学生の生活ぶりも垣間見ることができる。

 昨日の朝、いつものように孫達を連れ、晩秋の空気を楽しんできた。会津大学構内のグランドの脇に昨年ビオトープが整備され、秋の池を眺めてきた。
 とてもいい自然環境に恵まれた広大なグランドやビオトープ公園は、昼前の授業中で学生の姿はほとんどなかった。
 池にはカルガモが数十羽、のんびり浮かんでいた。池の周囲には多くの蜻蛉や生き物の棲息環境が整えられ、今後身近な生き物の楽園となることだろう。来年はときどきトンボなどの観察に訪れたいと思った。
                         
                               
《ビオトープ:水辺の公園》 




今年の紅葉

2006-11-17 | 日々の生活
   季節は晩秋から、冬へと移ろい始めた。

 例年、秋の紅葉を楽しみに小旅行を計画するが、この秋は色づく紅葉を目的に奥日光を訪ねた。奥日光は本州では一番早い紅葉のスポットで、特に戦場ヶ原の草紅葉は印象的で、改めて四季の移ろいの貴さを感じた。【拙ブログ10/14「奥日光の紅葉を楽しむ」】
 その後は、庭や近くの里山で木々の紅葉をファインダーで鑑賞した。

 先日は猪苗代 亀ケ城に、最後の紅葉狩りを楽しんだ。久しぶりに会う野口英世の胸像越しに、やわらかな陽に透けて、燃えるような紅葉が素晴らしかった。秋の寒さと日差しで色づいた葉をそっと手のひらに乗せてみた。

 色合いは種類や生育環境によって違ってくるのだろう。多少の条件の違いが化学反応を変え、微妙な色合いの変化が美しい。
 庭のドウダンは、近年見たことのないほど、燃えるような赤が美しかった。また、今朝は、このところの冷え込みにニシキギが一気に色づき、黄、赤、その濃淡が、朝日に美しく輝いて見えた。 我が家のカエデ類は、ハウチワカエデは、紅くならず、黄色いままで散ってしまった。トウカエデは梢が紅く変色し、時間をおいて黄色く変わる様が美しかった。また、イロハモミジの紅葉は、残る緑と所々染まった紅やそれらに混ざる黄色と色の違いが特にきれいだった。

 今年の紅葉は特にきれいだったと思う。そして、今年ほど緑の葉の彩りの変化を眺め、秋を堪能したことはなかった。

《ドウダンツツジ》


《アオシダレ》

受賞小旅行

2006-11-15 | 旅行


 11/15 はからずも、ささやかな表彰を受けることになった。体調も心配だったが、折角なので、産業教育功労者表彰伝達式に出席することにした。
 自分の打ち込んだ半生の足跡を振り返り、見つめてみたいと思ったからだった。

 ○ 前日は飯坂温泉に泊まることにした。午後三時過ぎに妻と土湯回りで福島へ向かった。中ノ沢までの晩秋の風景は、峠が近づくにつれて一気に冬に変わっていった。数日前の雪が道路の端に残り、すっかり葉を落とした木々が冷たい風をいっそう寒々感じさせた。夕暮れが近い木々に白樺の幹が特に美しく見えた。

 ○ 当日は昼食を兼ねての表彰伝達式だった。何年ぶりかの背広、ネクタイで旅館を出た。リンゴ畑を眺めながらフルーツラインを走らせ、途中、直販所でサンフジ、王林などを、また白菜、葱などの野菜を沢山求めた。
 受付までの時間、会場近くの旧日本銀行の福島支店長役宅:御倉邸を見学した。
 絹の集散地として栄えた福島市には、東北で初めて日本銀行が設置され、阿武隈川河畔にある歴代の支店長宅は、現在一般に公開されている。静かな落ち着いた庭から、光る阿武隈川が美しく見えた。円筒状に苅られたサザンカの大木が、うすピンクの大きな花を咲かせていた。所々に、松が美しく、根元にはシャリンバイの実がたわわに実っていた。
 式の最中、妻はもう30年ぶりになるか、すっかり変わった福島の街を散策、ショッピングに自分だけの世界を過ごした。

 ○ 帰路も土湯回りにした。土湯峠手前の「原郷のこけし群 西田記念館」を見学した。こけしの蒐集、研究、指導者西田峯吉のコレクションで、もう数十年も近くを通過するだけで、何時か見たいと思っていた。
 東北地方独特の湯治の習慣と木地師の存在が、こけしを発生させ、東北地方の厳しい風土が育んだこけしが所狭しと並んでいた。現在東北6県に11系統のこけしが見られるという。木地は昔はミズキやマンサクなど利用価値の低い材を用いていたが、今は、木地の美しさを見せるためサクラやツバキ、ナシなどの有色材を用いているとのことだ。
 同時に展示されていた写真家、矢田金一郎の作品に目を奪われた。七が宿を中心とした
今はない、過ぎ去ってしまった山村の、貧しいが豊かな生活が克明に撮されていて、強い郷愁を覚えざるを得なかった。
記念館からは、真っ白に冠雪した吾妻小富士や一切経山の雄大な景色が広がっていた。麓の晩秋の紅葉とのコントラストが何ともいえず美しかった。

 ○ 秋の錦の彩りの世界は、今、無機質の、水墨の世界へと移りつつある。木々が葉を落とし、冬が景色を支配していた。ダメを押して雪の美しさが厳しい冬の始まりだとおもった。土湯峠は沿道に積雪、木々が一面の銀世界と変わっていた。
もうタイヤ交換をしなければ峠越えは無理となった。いよいよ本格的な冬の到来だ。





核の廃絶を訴える

2006-11-14 | 日々の生活
 【広島 原爆ドーム(ネットより) 】

今、自分より若い政治の指導者が、非核3原則を堅持するとしながらも、核武装を含め核についての議論をしようと言い出している。人にはそれぞれの考えがあるし、生い立ちが違えば年齢に関わらず、当然ものの見方や考えは違う。しかし、戦争体験のある、真実を知る人たちの、戦後の日本をつくってきた人たちの認識はどうだろうか。もう戦争は嫌だ、平和な世の中を、との思いは特に強いに違いない。
 唯一の被爆国である日本は、核保有国も含めてもっと積極的に核廃絶を訴えるべきではないのか。もっと核の恐ろしさを正しく認識しなければならないと思う。核を持とうなど言語道断だ。核論議に関わる新聞各紙の社説も認識が甘いと思う。

昔、非武装中立論という理想論があった。なぜ理想論なのだろうか。それは、愚かな人間が、現状では国同士、人間同士の争いのない世界を具現する術を知らないからにすぎない。殺し合いの戦争を容認する軍備による安全保障はどうしてもおかしい。これ以上の核の拡散も絶対許してはならない。
 ところで、北朝鮮に核を放棄させることは当然だが、すでに核兵器を所有している国が、イランや北朝鮮の核開発を止めさせようとしていることは何かおかしいと思う。核拡散防止は不公平なのだ。今こそ、愚かな人間を悔いて、全世界は核廃絶へ進まなければならない。日本は核廃絶を訴える責任と義務がある。日本の役割はそこにあるのだ。
 
先日(11/6)、NHKテレビで【ラストメッセージ 第2集「核なき世界を 物理学者・湯川秀樹」】を視聴した。平和を求め、核廃絶を訴え続けた湯川秀樹(*)は正しいと思った。争い、殺し合いの続くこの人間社会は空しい。あらためて人間の愚かさを悲しく思わざるを得なかった。
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 (*)『ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹は、第五福竜丸が被爆したビキニ事件に衝撃を受け、科学者の先頭に立って核兵器の廃絶運動に乗り出した。核抑止論を根拠に米ソ超大国が核開発競争を繰り広げた1960年代、彼は「核抑止論では兵器開発は止められず、核保有国は拡散する」と警告し、絶対悪の核はあくまで廃絶しなければならないと主張した。
彼は核戦争の危機の下で、平和の問題に深く関わり、ラッセル・アインシュタイン宣言の賛同者となりバグウォッシュ会議に協力した。
一日生きることは一歩進むことでありたい」は彼の言葉
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職業柄、政治的な自分の考えはいつも心の中に止めていた。でも、仕事を離れてからは、すべての問題について自分の考えをまとめておきたいと思っている。そして、できれば少しでも自分の考えを実現できるように行動していきたいと思っている。