玄侑宗久氏の『なんのための改名か!』(福島民報「日曜論壇」4月13日付)を読んだ。
以前から「差別用語」と言われる言葉自体良くわからなかったが、すっきりした。そうした言葉を発する人間の侮蔑的な感情こそが問題なのだと思った。
聾学校を「聴覚支援学校」と改名しようとする動きがあるという。いろいろ考えさせられた。また、「登記簿謄本」も「全部事項証明書」と改名されたらしが、私にも「全部事項証明書」は日本語でさえないと思った。さらに、日本語だけではない、何かがおかしい世の中だと思う。
玄侑宗久氏の公式ホームページ【http://genyu-sokyu.com/】を何時も読ませていただいている。玄侑宗久氏の「清潔な文章」にいつも胸がすっきりさせられている。アップされている「エッセイ」「メッセージ」「インタビュー」など、「清潔な文章」をじっくり読ませていただき、特に禅の心を学ばせてもらっている。有難いことだ。
【今を生きる:庭のハクモクレン満開】
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『なんのための改名か!』 (福島民報4月13日付)
このところ、聾学校を「聴覚支援学校」と改名しようとして、当の聾学校の人々の反撥を招いている。つまり、彼らは「聾」という言葉に誇りさえ持っているのに、「支援されるべき」人々と見られたことでその誇りが傷つけられたのである。
思えばこの手の言葉は、どんどん酷く改名されてきた。たとえば「聾」や「つんぼ」という言葉も、「耳を聾する」「つんぼになるほどの」大音声と云うように、本来誰にでも起こる「状態を示す」言葉だった。「めくら」も「びっこ」も、じつは「目がくらんで見えない状態」や「傾いて歩く状態」を意味したから、誰にでも起こりうるし、そこに差別的な視線はなかったのである。
ところがこれが、いつからか「聴覚障害者」「視覚障害者」そして「歩行障害者」に改名された。状態を指す言葉から人物を限定する言葉に変わったばかりでなく、そこには「害」という嫌な文字が紛れ込んでしまった。もともとは「障害」も「障礙」と書き、いつかは取れる差し障りやつっかかりを意味した。しかし字が簡単だからといって「害」にしたのが大間違い。まるで「きずもの」のような意味が付加されてしまったのである。
明らかに、こうした改名の背後には、欧米の「ハンディキャップト」という考え方が色濃く反映している。要するに神の似姿としての「スタンダード」に比較して、劣った人々という見方である。「スタンダード」そのものを認めない日本には馴染まない考え方が、安易な訳語めいた日本語で、無理矢理に流入してしまったのである。
今回の「聴覚支援学校」だって、ああ、サポートを訳したんだ、英語が先にあったんだと、誰もが思うに違いない。
最近私は住職になり、そのため法務局に登記する必要が生じた。耳に馴染んだ「登記簿謄本」も必要だったので、これも求めたのだが、なんとこの「登記簿謄本」も改名されていた。新しい名前は「全部事項証明書」というのだが、いったいこれはどういう日本語だろうか。
まず訊きたいのは、何の必要があって改名したのかということだ。もしや「謄本」の「謄」が難しすぎるから、円周率を三ぴったりにしてしまったのと同じように、簡単にしたのだろうか? しかし、たとえそうだとしても「全部事項」というのは簡単な日本語どころか日本語でさえないのではないか。
いったいどうしてこういうことが起こるのだろう。日本という国柄も日本語も理解しない人間が、そういう言葉を作る権力を持っていることを、私は心底悲しむ。英語を訳してそのまま使えば洒落ているとでも思うのか、その感覚が日本や日本語を壊していることに、気づいていただきたい。 (玄侑宗久)
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以前から「差別用語」と言われる言葉自体良くわからなかったが、すっきりした。そうした言葉を発する人間の侮蔑的な感情こそが問題なのだと思った。
聾学校を「聴覚支援学校」と改名しようとする動きがあるという。いろいろ考えさせられた。また、「登記簿謄本」も「全部事項証明書」と改名されたらしが、私にも「全部事項証明書」は日本語でさえないと思った。さらに、日本語だけではない、何かがおかしい世の中だと思う。
玄侑宗久氏の公式ホームページ【http://genyu-sokyu.com/】を何時も読ませていただいている。玄侑宗久氏の「清潔な文章」にいつも胸がすっきりさせられている。アップされている「エッセイ」「メッセージ」「インタビュー」など、「清潔な文章」をじっくり読ませていただき、特に禅の心を学ばせてもらっている。有難いことだ。
【今を生きる:庭のハクモクレン満開】
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『なんのための改名か!』 (福島民報4月13日付)
このところ、聾学校を「聴覚支援学校」と改名しようとして、当の聾学校の人々の反撥を招いている。つまり、彼らは「聾」という言葉に誇りさえ持っているのに、「支援されるべき」人々と見られたことでその誇りが傷つけられたのである。
思えばこの手の言葉は、どんどん酷く改名されてきた。たとえば「聾」や「つんぼ」という言葉も、「耳を聾する」「つんぼになるほどの」大音声と云うように、本来誰にでも起こる「状態を示す」言葉だった。「めくら」も「びっこ」も、じつは「目がくらんで見えない状態」や「傾いて歩く状態」を意味したから、誰にでも起こりうるし、そこに差別的な視線はなかったのである。
ところがこれが、いつからか「聴覚障害者」「視覚障害者」そして「歩行障害者」に改名された。状態を指す言葉から人物を限定する言葉に変わったばかりでなく、そこには「害」という嫌な文字が紛れ込んでしまった。もともとは「障害」も「障礙」と書き、いつかは取れる差し障りやつっかかりを意味した。しかし字が簡単だからといって「害」にしたのが大間違い。まるで「きずもの」のような意味が付加されてしまったのである。
明らかに、こうした改名の背後には、欧米の「ハンディキャップト」という考え方が色濃く反映している。要するに神の似姿としての「スタンダード」に比較して、劣った人々という見方である。「スタンダード」そのものを認めない日本には馴染まない考え方が、安易な訳語めいた日本語で、無理矢理に流入してしまったのである。
今回の「聴覚支援学校」だって、ああ、サポートを訳したんだ、英語が先にあったんだと、誰もが思うに違いない。
最近私は住職になり、そのため法務局に登記する必要が生じた。耳に馴染んだ「登記簿謄本」も必要だったので、これも求めたのだが、なんとこの「登記簿謄本」も改名されていた。新しい名前は「全部事項証明書」というのだが、いったいこれはどういう日本語だろうか。
まず訊きたいのは、何の必要があって改名したのかということだ。もしや「謄本」の「謄」が難しすぎるから、円周率を三ぴったりにしてしまったのと同じように、簡単にしたのだろうか? しかし、たとえそうだとしても「全部事項」というのは簡単な日本語どころか日本語でさえないのではないか。
いったいどうしてこういうことが起こるのだろう。日本という国柄も日本語も理解しない人間が、そういう言葉を作る権力を持っていることを、私は心底悲しむ。英語を訳してそのまま使えば洒落ているとでも思うのか、その感覚が日本や日本語を壊していることに、気づいていただきたい。 (玄侑宗久)
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