エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

生きる勇気を与えられた

2006-02-28 | 文芸
「千曲川」第1部を読んだ。

 数日前、また夜半に目ざめラジオ深夜便のスイッチを入れた。「心の時代」の途中で、まどろみに聞く言葉は、清貧、良寛、信州戦没画学生、祖国、赤い鳥のふるさと、上田、千曲川など、私の中のキーワードに重なった。それは実に鮮烈な内容で、一言一言が胸に響き、身を起こしてメモを取った。
 お話は小宮山量平氏の「命を大切にする哲学」だった。初めて聞くお名前だった。
 すぐに著作「千曲川」を取り寄せ一気に読んだ。
 戦争へとひた走る時代にあっての著者の生い立ち、自然と共に育まれた珠玉の幼年時代、切ない少年時代の生活、そしてその中に流れる何とも言えない温かさに心動かされた。最終章、祖母のもういないふるさとへ戻る心に、涙が止まらなかった。
 奇しくも巡り会った「千曲川」第1部を読了し、ぬくぬく生きてきた我が身を思い、残された人生に生きる勇気を与えられたと思っている。

千曲川」 小宮山量平著 理論社  
  第1部 青春誕生 第2部 青春彷徨
  第3部 青春回帰 第4部 青春新生

言葉の力は、感じる力から

2006-02-26 | 教育を考える

 約10年ぶりに改訂される、次の学習指導要領の基本的な考えがまとまった。
これまでの[ゆとりの中で生きる力を育む教育]は転換され、今度は、確かな学力のための「言葉の力」を柱に据えるという。
 言語力、表現力はものの見方、考え方を身につけるための基本的な力であり、当然重要だ。しかし、いくら読解、記述能力があっても、受け止める心、感じる心がなければ意味がないのではないだろうか。あるラジオ番組の標語に、「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の胸に響かない」とある。その通りだと思う。記録に残し人に伝える前に、まず、感じる力、考える力がなければならないと思う。
これまでの「ゆとり教育」は一体、何だったのだろうか。十分な検証が無いままに、学力低下をもたらす元凶として葬り去られようとしている。
 教育は心豊かに生き行く力を養うものだ。本当の生きる力は、知識ばかりではなく、それ以上に大切な感性、創造性などに関わるものであり、IQよりもEQ(*)が重視されなければならない。たとえば、五感で感ずるイメージで物事を思考する右脳を啓発する教育がもっと重視されなければならない。人として豊かに生きて行く大切な心、情操、感性などとのバランスの取れた、豊かな人間性の育成こそが目標で、それは「ゆとり教育」から生まれると、今も信じている。

(*)EQ(心の知能指数(Emotional Intelligence)ダニエル・ゴーマン 講談社)
(*)拙ブログ2006.1.27 『EQを重視する「ゆとり教育」を』


冬の交差点の夜景

2006-02-24 | 日々の生活
所用で会津若松駅へ行きました。
駅前の交差点で、融雪道路の噴水が信号や車のライトに光ってとても美しく、
ショーを見るようでした。
この冬は特に寒さ厳しく、真冬日が何日もあったようです。

この冬の一コマです。

日中でも零下10℃の日がありました。


雪に埋もれた庭です。

豊かなライフスタイルを心がける

2006-02-23 | 日々の生活
 勤めていたころは、毎日が気忙しく時間に追われる生活だった。でも、忙中の閑には、ゆっくり流れる時を求めていたように思う。豊かさが物差しならば、限られた人生だから急げ、という論理は当たらない。
 今、大量の生産、消費、廃棄の社会システムは、最適な生産と消費、最少の廃棄の循環型社会への移行が求められている。こうした量から質へは生き方にも言える。生きていく上で不相応な、贅沢な物質文明の真只中にいて、その不幸をおぼろげに感じている。
 いわき市の地方紙「日々の新聞」のキャッチフレーズに
 「small slow simple そんな仲間を応援します。」とあった。
本当の豊かさの底には、モノやお金や地位ではない、時間という要因、慎ましい、ゆったりした、そして簡素な生き方があるに違いない。日々の生活に、自分の心に負けないように豊かなライフスタイルを実践してみようと思っている。
    URL http://www.hibinoshinbun.com/index.html

バスツアー紀行(3の3)

2006-02-21 | 旅行
バスツアー紀行(3の2)続き

第2日 (2/16) 八ヶ岳~甲府~河口湖~アクアライン~富浦

 八ヶ岳と富士の眺めを一番楽しみにしていたが、高原は朝から霧雨に煙っていた。
雨の中、バスは至る所ブドウ棚が広がる甲府市石和のワイン工場へ。各種ワインの試飲はとても美味しかった。甘いカリン入りのワインを求めた。石和温泉には長男が1歳のころ、家族で泊まったことがあった。あれから30年余、その折りに観光ぶどう園で妻に抱かれ、ブドウに手を伸ばす息子の写真が残っている。そこで、妻に水晶の指輪をプレゼントしたことを思い出した。
 石和から河口湖へ、雨は止んだがどんよりした雲に覆われ、富士は全く望めなかった。本当に残念だった。またの機会に富士をじっくり眺める旅をしたいと思った。
後は東名道をひた走り、一路房総をめざした。途中アクアラインの海ほたるへ寄った。東京湾のど真ん中、当然のごとく横なぐりの雨降りだ。展望台で記念撮影をしてすぐにバスへ戻った。
横浜から千葉へは海の上を一またぎだった。今、高速道は木更津から君津までで、あちこちで延長工事中であった。沿道の山は海の底にありそうな形をしていて、右手に鋸山を眺めながら2日目の晩を過ごす富浦へ向かった。

第3日(2/17) 富浦~花倶楽部・水仙郷~成田~水戸~郡山

朝ホテルのロビーから太平洋を望み写真撮影。植え込みには南国を思わせる、5~6メートルもあるシュロの木が茂っていた。道路沿いの畑には菜の花がきれいに咲き、自生する枇杷の花も白い花を付けていた。その名も道の駅、枇杷花倶楽部でポピーの花摘みをした。


これから咲くのを楽しみに、同じ株の色を頼りに大きなつぼみを10本摘んだ 摘み取ったポピーのつぼみは、バスの中の暖かさではじけて、あちらこちらで華やかに咲き始めていた。安田港近くの水仙郷では、もう水仙の花は終わりに近かった。その売店でギラと言う魚の干物をあぶって試食し、土産に買った。初めて見る、小さなタナゴのような魚はヒイラギというらしい。くすぶる煙が静かに立ち上る山里の畑は、白いウメが満開で、まさに春の桃源郷であった。
 長時間の、狭いバスの旅は少々つらい。ひた走り、成田山新勝寺へついたのは午後1時を廻っていた。小学生のころ家族でお参りした写真が残っているが、まったく記憶にない。
 ご本尊の不動明王にお参りした。慈悲にすがりたいが、私のお参りはいつも自分を叱咤激励し、自己の心をまとめる所作である。
 最後の観光は水戸偕楽園。
   
数日後から梅祭りと言うが、ウメはまだ早かった。何とか早咲きの紅梅を楽しむことができた。偕楽園近くの千波湖にも数は少ないがハクチョウが飛来していた。また、ここで初めてコクチョウを見た。5,6羽いたが、珍しいので写真に撮った。後から調べたら、オーストラリア原産の鑑賞用種で、どうも飼育されているようだ。
 水戸からは約170キロくらいか、乗り継ぎの「会津若松行き」高速バスに間に合うように郡山駅に到着した。ツアー参加はほとんど福島からで、若松からの参加は、他にいないようだった。
 雪の残る自宅についたのが9時半、すっかり冬に逆戻り、雪がチラチラ舞っていた。
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 2泊3日のバスツアーを終えて、簡単な紀行をまとめた。
狭いシートに同じ姿勢で座っての長旅だったが 、ぶらりと何も考えずに気楽な旅だった。静かに、諸々こころの整理もできた。何よりも、今回の小旅行は、はからずも青春の思い出の地を巡る旅のようであった。
 たまの旅行は良い。普段と違った状況で目にするものはすべてが新鮮で貴く思われる。人生もそんな新しい出会いの旅でありたいと思った。

【バスの走行距離】 1日目:約480km、 2日目:約295km、 3日目約410km
運転手さんは一人でした。本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。

バスツアー紀行(3の2)

2006-02-21 | 旅行
バスツアー紀行(3の1)続き

上田~別所温泉~松本~諏訪~八ヶ岳

   
 かつて蝶を求めた山麓には高速道路が走り、そこに懐かしの自然はもう無かった。
昔、街を見下ろす山裾には、オオムラサキ、スミナガシ、ヤマキチョウ、メスアカミドリシジミが舞っていた。ウメの木の周囲を悠然と旋回していたオオミスジが目に浮かんだ。
 多少ショックだった。今はもう無いあの山道、あのクヌギ林など、小さな自然を犠牲にして今の景色や便利さがあると思うと、複雑な気持ちであった。
 ICを下りて上田の街へ下ると、そこにも当時の面影は見つけようとしても見つからなかった。一昔前に大学生活を送った上田の街並みが懐かしく思い出された。変わらないものは、周囲の山々だった。太郎山には逆さ霧がかかっていた。冬の時期、どんなに上空が晴れ上がっていても、山頂から上田の街の方へ霧が滝のように流れていた。学生のころ、逆さ霧だと教えられた。あれから、まぼろしのごとく過ぎ去った40年の歳月がよぎった。静かに自分を見つめながら、昔と同じ山容を写真に納めた。
 別所温泉では外湯に入った。確かに学生のころ入浴したことがあったが、全く記憶がない。脇に聳える獨鈷山は私のヒメギフチョウ観察のフィールドだったので鮮明に覚えている。北向観音、愛染カツラの大木にかすかに記憶が蘇った。思い出は限りなかった。
《北向観音(別所温泉)》
《獨鈷山》

 別所温泉から八ヶ岳のホテルをめざしたが、佐久から小海線沿いのコースを取ると思っていたが、バスはなんと懐かしの松本市へ向かった。松本は妻の里、思い出も限りない。義姉の住まいのすぐ脇を通り、中央高速道に乗った。途中の夕闇に包まれた諏訪湖も美しかった。諏訪湖では、学生のころ臨湖試験場での環境水質調査をしたことがある。ボートで湖水へ繰り出し、山の仰角で湖畔からの距離を求めながら、湖水のサンプリングをした記憶がある。
 使われずにいた引き出しから、次々と、突然に呼び起こされる記憶。閉められたままの情報の痕跡がほとんどであろうが、なんと不思議なものか。
 降り始めた雨の中、八ヶ岳山麓の1日目の宿に入った。

バスツアー紀行(3の3)へ続く


バスツアー紀行(3の1)

2006-02-21 | 旅行
            【懐かしい浅間連山】
 2/15~2/17(2泊3日)、バスツアー「別所温泉と八ヶ岳・富士・房総花めぐり」に妻と2人で参加した。
以下に、簡単に紀行をまとめる。

第1日 (2/15) 会津~郡山~前橋~小諸
 真冬の会津を離れて関東へ、畑には新しい緑が萌え陽光うらら、那須の連山がかすんで見えた。木々の広げる枝に、街の空気に穏やかな春が感じられた。
 東北自動車道を南下、佐野ICから前橋へ。郡山を過ぎてからの全行程中に雪はなかった。関越道に入り、釜飯で有名な横川SAから妙義山を仰ぎ、直線の碓氷トンネルを抜けると信州、急に視野が広がり雄大な浅間山が見えてきた。
 もう30数年も昔、学生時代に信濃追分から浅間をスケッチしたことがある。その絵の余白には、
 「絵の具を溶くに水なし、畑の吹きだまりの輝ける残雪に吐息す。
  雪水に溶けた絵の具は丁度氷ミルクの如し。
  爽やかな寒中、大自然に抱かれしばし佇む。
  今、ひとりぼっちで自然と対話する喜びがこみ上げる。
  おまえは何をしてきたのだ。・・・・山々の雄姿が呼びかける。」 とある。
車窓の浅間連山をながめながら、この信州の山懐に抱かれ過ごした、青春の6年間の懐かしい思いが込み上げてきた。
 カラマツ林はまだ冬のままで、浅間の山肌に細い雪の襞が白く流れていた。
 高速道は懐かしい小諸から上田へ。小諸の懐古園に何度か藤村の足跡を訪ねたことを思い出した。
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藤村ゆかりの土地を訪ねたい

 私は藤村が好きだ。あの七五調の心動かされる詩歌がいつもそばにあった。
 藤村との出会いは高校の教科書であった。
「ついに新しき詩歌のときは来たりぬ・・・」
「まだあげ初めし前髪の・・・」
「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ・・・」
 思えば藤村は、我が人生に影響を与えた作家の一人だ。
 この春、母の米寿にお祝いで大磯に行った折りのこと。朝散歩に出ると、旧島崎藤村邸の標識が目についた。それは全くの偶然だった。藤村とこの地がどういう関わりがあるのだろうか。晩年、未完の「東方の門」を執筆した草屋が静かなたたずまいで残されていた。これを機に、改めて馬籠、仙台、小諸、東京、大磯を結ぶ彼の生涯をたどってみたいと思った。
 先日は三十年ぶりに小諸の記念館を訪ねた。これらゆかりの地を訪ね日々の思いに接しながらまた一年が暮れようとしている。     (2001.12)
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《バスツアー紀行(3の2)に続く》


愛おしい水鳥たち

2006-02-20 | 自然観察


 昨日の午後、猪苗代湖の崎川浜に水鳥を訪ねた。しばらくぶりだったが、大自然のすべてが昔のままだった。遙かに真白な磐梯はどこまでも麗しく、対岸の雪の山並みが紺碧の湖水に低く浮かんでいた。
 神々しく聳える磐梯を背に、数羽の白鳥が湖水に舞い降りた。湖水、水辺、雪の原に数百羽のオナガガモが鳴き交い、つぶらな瞳で何かを訴えるように私を見つめた。寒気に包まれる冬の使者たちを見つめながら、愛しく切ない感動がこみ上げてきた。なぜにこんなにもこころ動かされるのだろうか。
 どう生きたらよいか訪ねる私に、大自然は答え癒してくれるようだった。水鳥たちが何の邪心もない純粋な清らかなこころで、一人たたずむ私を励ましてくれるように思えた。
厳しい寒さももう少しだ。ほどなく北へ帰る白鳥たちの叫びがいっそういとおしく厳寒の静寂に響いた。いつまでもなごりが惜しく、再会を願い湖水をあとにした。   

▽色彩の画家・今井繁三郎▽

2006-02-19 | 文芸
風土を背負って光る色▽色彩の画家・今井繁三郎▽
   2月19日(日) 9:00~10:00 NHK教育 新日曜美術館

今朝、今井繁三郎の生涯を視聴した。私が初めて出逢った先生の絵は、いでは文化記念館の「霊峰月山」?ではなかったろうか。風景画が好きな私は、帰路立ち寄った今井美術館で風景画を探した。でも風景画は1つしか展示されていなかった記憶がある。8号くらいの羽黒山の絵だったと思う。
今回番組でいろいろな作品に触れた。ほとんど初めて見る作品だった。あらためて非凡な芸術家を知ることができた。
 暖かくなったらもう一度美術館を訪ね、作品をじっくり鑑賞し亡き今井先生とお話がしてみたいと思っている。

-番組を視聴して-
○今井の心を静かに伝えていた。後半生ふるさと風土を切り取った画家の、雪国からのメッセージが伝わるすばらしい放送だった。
○「風見鶏」「稲田」「メリタの女」「北国」:色鮮やかな作品
 「茜雲」「農村の子ども」:長崎という、異郷に身を置いて見えてくるふるさとを表現。
 「慟哭」「飢餓」:人間が引き起こしたものに心を痛め、「この世に生を受けた者は幸せに生きる権利がある」と言った。
 「涅槃」「埋葬」:妻の死後の、生と死をテーマにした
○90歳から「聖少女」という作品を沢山書いた。最後の作品のタイトルは「夢を見るものに終わりはない」だった。
 「子どもの心に帰りたい」が彼の晩年の口癖だった。
○彼の心の底にあったものは ・ふるさと ・戦争 ・生と死など
○いろはかるたをつくる。て→「天地自然を描くのではなく、天地自然から学ぶのです」
○竹久夢二:「芸術はもういい。本当の人間にして、本当の人間の悲しみを知る
芸術家がいてもいい」に共感。
○長崎に通い続け、長崎で40回の個展。
 インタビュ-に答えて、「人々のプラスになる絵を描きたい」
○毎年、個展3回開いた(東京2回、長崎1回)。個展は自分が自由に表現が
 できる。バラティーに富んだ作品を皆見て欲しかったのでは。


番組紹介欄から
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 ◇生涯、自分の世界を守り、純粋に美を追い求め続けた画家・今井繁三郎(1910~2002)を取り上げる。今井は20代の時、「人間の悲しみを知る画家が出てもいい」という竹久夢二の言葉に深く共感した。その後、交流の続いた画家・山口薫の影響、40年間、通い続けた長崎の色彩と文化、そして40代で初めて経験したヨーロッパの芸術から、今井は強烈な印象を受けた。こうしたさまざまな体験が今井の絵画世界をより豊かなものにしていった。老境に入った今井は心の赴くまま筆を執り続け、84歳の時に「埋葬」、88歳で「聖少女」、89歳の「殉教者」、90歳の「大衆ではない」など、次々に傑作を生み出す。画商との付き合いを拒み、個展を発表の場としていた今井は、広く知られぬまま一生を終えた。だが、最期までいい意味でのアマチュアリズムを持ち続け、夢を追う画家であった。東北の生んだ鬼才・今井の全容に迫る。後8時から再放送。 (NHK)
司会/はな 山根基世  その他/今井繁三郎
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『みちくさ新聞』は心の癒し

2006-02-18 | 日々の生活

 「土手に咲くスミレやタンポポのようでありたい」との添え書きと共に、突然、初めて見る「みちくさ新聞」が送られてきた。あれから2年が過ぎる。月初めに発行・編集人の斉藤吉孝さんから、数行の身近な自然への思いが添えられ届く新聞は、以来、こころの安らぎとなっている。
 今月号ではスモールライフという言葉を見つけた。あらためてつつましさの中に豊かさを見いだす心の尊さを思った。また毎月紹介される「無名者の歌」には、いつもこころを揺さぶられている。
 「みちくさ新聞」には沢山の豊かさが詰まっている。そのキーワードは、自然への畏敬、癒し、感動、涙、生きる心、豊かな人生、健康、病から学ぶ、戦争と平和、等々だ。
 そのときどきに、周囲の自然の移ろいと共に音もなく流れていく時間にふと立ち止まる、珠玉の文章に触れ感動する、そしてまた、さわやかな気持ちを抱くこと。
これが、「みちくさ」と考えている。

今井繁三郎美術収蔵館(鶴岡市)

2006-02-14 | 文芸

12日のNHKの「新日曜美術館」で、来週2/19に今井先生が放映される予告があり楽しみにしていた。今日、娘さんからそのご案内のはがきを頂いた。忘れないように見なければと思っている。
今井美術館へは、出羽三山への観光の帰りたまたまお寄りした。8年前のことだ。 そのユニークな美術館に感銘した思いを新聞に投稿した。美術館訪問の折りには先生はお留守で、以来、先生からは折に触れてお便りを頂いていたが、3年前に訃報に接した。一度お会いしていろいろお話をと思っていたので、とても残念だった。
テレビ放送を見て先生の偉業に触れ、威徳を偲びたいと思っている。

今井繁三郎美術収蔵館 HP 【http://www.imaimuseum.net/】


《山麓の石佛》 今井繁三郎
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一芸術家知り思わぬ「収穫」


 出羽国の羽黒山に参拝した帰り道、今井繁三郎美術館に立ち寄った。田や畑の間を縫いながらたどりついた柿畑の中に、鶴岡から移築されたという三百年も前の土蔵が見えた。背丈ほどの壺がいくつも並ぶ庭はヤマゴボウの黒紫の実が印象的な不思議な空間であった。
 監視人などいない館内には大きな絵画が並び、壁には民族衣装やお面が架けられ、屋根瓦やドライフラワーが床に置かれていた。美術館の主は個展開催に上京していたが、これら世界各地の民芸品の数々は、彼の心動かされた宝なのであろう。
 特に早春の月山の風景画に魅せられたが、小さなタンスに何気なくかけらた古ぼけた藍染の布の文字が心に残った。
 「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で ふるさとの雪はめざめる」
 通りすがりに尊敬できる一芸術家を知り思わぬ収穫であった。そしてここに本当の美術館のあり様を見た思いがした。          (1998.9)  

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北越潜行の詩

2006-02-13 | 街中散歩
秋月悌次郎詩碑(三の丸)

胸を打つ北越潜行の詩
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行くに輿なく帰るに家なし
  国破れて孤城雀鴉乱る
  治功を奏せず戦いに略なし
  微臣罪ありまた何をか嗟かん
  聞くならく天皇元より聖明
  我が公の貫日至誠より発す
  恩賜の赦書はまさに遠きに非ざるべし
  幾度か手に額をして京城を望む
  之を思い之を思えば夕晨に達す
  愁いは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
  風は淅瀝として雲は惨憺たり
  何れの地に君を置き又親を置かん
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 最近、中野孝次の「生き方の美学」を読んでいて、幕末の会津人、秋月悌次郎の一端を知った。彼がその生き方に惹かれ、心に残った人間を紹介しているが、熊本五高で同僚だったラフカディオ・ハーンが、悌次郎のことを「神様のような」人と呼んで尊敬したこと、熱意ある教育者として、学生に慕われたとが書かれていた。
鶴ケ城三ノ丸の博物館入り口に秋月悌次郎の北越潜行の詩碑が建っている。憂い悩む詩文に、いつも切なく胸を打たれる。
 「落花は枝に返らずとも」により、秋月悌次郎の誠実な人物像と、その波乱の生涯を知ることができた。
 
 また、映画「バルトの楽園」が話題になっている。第一次大戦中、ドイツ人捕虜を思いやった鳴門の捕虜収容所の松江豊寿所長も会津の先人だ。山川健次郎、新島八重子、柴五郎と、会津の先人は枚挙に暇はないが、あらためて郷土会津人の誇りを子や孫に伝えていかなければならないと思っている。


中野孝次先生の死を悼む
 早朝、愛犬との散歩から戻り朝刊を広げると中野孝次先生の訃報が目に飛び込んだ。ショックだった。どうして、なぜと驚き、何か心の支えがなくなってしまうような心細さに襲われた。
 私の傍らにはいつも先生の著作があった。その中で教えられた多くの偉人、賢人から私自身どれだけ勇気を与えられてきたことか。
最近は「風の良寛」を繰り返し読んでいた。そこにある良寛の豊かな生き方を胸に、今、良寛ゆかりの土地を訪ね歩いている。
 先生は日本人の日本人らしさが失われていくことを嘆き、警鐘を鳴らし続けていた。毎日私の身近にいて、心の豊かさを求める人生を教えてくれた先生が逝ってしまった。残念でならない。
 尊敬してやまない先生に教えられ、再び兼行や西行を学び始めた。これからも心や魂を充実させるため、残された先生の著書から多くを学びたいと思っている。
(2004.8)


幽玄の時の流れを見つめる

2006-02-11 | 日々の生活
 会津絵ろうそくまつりに行った。

日暮れを待ってお城へ向かった。風もなく静かに春の雪が落ちていた。
 お祭りと言うと何かにぎやかなイメージがあるが、春を待つひとときの、冬の寒さにほのかに揺らぐろうそくの炎を見つめる、心温まる静かなまつりだ。
ろうそくの灯は幻想的で、まさに幽玄の、メルヘンの世界だった。
 お城の本丸に連なるろうそくの炎の道を、静かに自分の心を見つめながら辿った。
 
会津伝統工芸品である会津絵ろうそくは500年の伝統を持つと言われる。
菊や梅、立葵などの草花が色鮮やかに描かれ、花のない冬の間は、仏様に供える花の代わりとなった。



ろうそくの炎が雪のほこらをほんのりと照らす。みつめる炎は暖かく、心が温まった。
気づけば雪は本格的となり、一層炎が幻想的にまたたいた。
 このまつりの運営をされた多くの市民に感謝しながら、また来年を楽しみに、去りがたい気持ちでお城を跡にした。



入院中の幻覚 

2006-02-10 | 健康
 -ある不思議な絵-

あれからもう2年半になる。手術の後、自発呼吸が不能となり、心臓マッサージを受ける状態でICUで十日間を過ごした。その後のICUから個室への移動は、まさに夢から現実へ、死の淵からの生還であった。
そのころ不思議な体験をした。
すっかり当たり前に生活している今も、ときどき、生死をさまよう中で見た幻覚、夢の数々が、かすかに脳裏に去来する。カーテンの揺らぎや天井に不思議の世界が広がった。真夏なのにふるさと会津の吹雪の光景を妻に知らせたりしたと言う。
 そのころ病室にかけられた一枚の絵画に不思議な思いを抱いた。
 高原の湖を描いた風景画で、作者はサインからロバートブッド?と読みとれた。十数本の落葉松の林間に湖が見え、対岸には高い山がそびえ夏の雲がたなびいている。
 その落葉松林の空間に、ふと藤村が座している姿が見えた。その傍らには奥さんもひざまづいていた。確かにそう見えたのだ。でも、今、カメラに納めたこの絵をながめてもそのとき見えたものが見えない。
 あの夢の中の不思議な情景を思い出す時、限りある人生を、日一日大切に生きていかなければと思いを新たにしている。

無言館の戦没画学生を思う

2006-02-09 | 文芸
 最近、夜中に目ざめるとラジオ深夜便を聞いている。勤めていたころは仕事が心配で、眠れないことも悩みとなったが、今はいつでも日曜日、ついつい聞いてしまう。

 数日前、午前4時からの「心の時代」で、洋画家の野見山暁治氏が、友人の戦没画学生の思い出を語っていた。いつかも、夜半に目覚めラジオのスイッチを入れると、無言館窪島誠一郎氏が父、水上勉を語っていた。その後、このお二人の出会いがきっかけで無言館が建設されたと知った。
 長野県上田市郊外に、戦場に散った画学生の絵を展示する無言館を訪ねたのは4,5年前だったか、長い時間をかけてそれらの絵や手紙を見て歩いた。その思いを手帳に綴り、志半ばで失われた彼らの無念を心に留めた。その時、いつも忘れてはいけない戦争の悲劇に込み上げた涙を、今も忘れない。
 無言館での心の整理はまだついていない。8月に戦争のことを考えるが、いつもこれまで平和に生きてきた自分の幸せを申し訳なく思っていた。
 ラジオを聞いていて、もう一度、覚悟して無言館を訪ね、無言の意味を問い直してみたいと思っている。
 今私は還暦を迎え、もっと学びたかったと叫ぶ亡き若者の気持ちを胸に、私自身、これからの老いを精一杯生きなければと考えている。