このところ、三寒四温を実感している。
今朝は関東甲信越で積雪、若松でも春の雪が10cmほど積もった。
それでも降り積もった雪はシャーベット状に溶けていった。
数日の庭の花を撮った。
豊後も白加賀も未だつぼみだが、一足早く小田原小梅が」咲き始めていた。
キクザキイチゲ
エゾエンゴサク ウスバサイシン
下向きに咲く桜に似た花、何という花だろう。 よく見ると、花びらは4枚だ、
クリスマスローズ
温かい春をこころ待ちにして過ごしている。
このところ、三寒四温を実感している。
今朝は関東甲信越で積雪、若松でも春の雪が10cmほど積もった。
それでも降り積もった雪はシャーベット状に溶けていった。
数日の庭の花を撮った。
豊後も白加賀も未だつぼみだが、一足早く小田原小梅が」咲き始めていた。
キクザキイチゲ
エゾエンゴサク ウスバサイシン
下向きに咲く桜に似た花、何という花だろう。 よく見ると、花びらは4枚だ、
クリスマスローズ
温かい春をこころ待ちにして過ごしている。
昨日は寒かった。今朝も最低気温は-2℃だったが、日中は暖かく16度まで上がった。
予報では、明日は下り坂、午後から雨模様のようだ。
]朝から庭の落ち葉をかき集め、あちこちはびこったツルニチニチソウを整理した。
風も凪、暖かくなって来たので里山へ。そろそろショウジョウバカマも咲き出しただろう。
いつの年だったか、ヒメシロチョウが4/1に目撃したことがあった。ひょっとしたらとの淡い期待もあった。
B小学校の土手には立派なオクウスギタンポポが何株も咲いていた..
ヒメシロチョウの食草のツルフジバカマの芽吹きを探したが、数本、日当たりのいい出手に見つけたが、まだまだのようだ。
これはクサフジ ツルフジバカマのようだ。
今シーズンの初の新生チョウはルリシジミだった。
越冬したテングチョウ、キタテハ、シータテハ、ルリタテハに再会できた。
シータテハ
今日の目的のショウジョウバカマは見事に咲き始めていた。
ほとんどは薄い紫色だが、清らかな流れに白花や濃いピンクの株も可憐に咲いていた。
ヒュウガミズキトサミズキ咲く
八田野 磐梯 逆さ磐梯
オドリコソウ水辺のツクシ
飯豊連峰
11時ころの出発で、帰りは3時前、約4時間の自然観察で、ほとんどシーズン中と変わらず少し疲れた。
いよいよ、小さな自然の仲間との再会が始まる。
庭の小田原小梅咲く
ときどき、YouTubeで懐メロを聴いている。
PCの「お気に入り」には,伊藤久夫、田端義夫、春日八郎などが挙げてある。
これらを静かに聞きながら、郷愁を誘われている。
「山のけむり」「高原の旅愁」「ふるさとの灯台」「別れの一本杉」などが好きで、よく聞いている。
家人も不思議に思っているが・・・ 年の割に愛好する自分は何なのだろうか。
ともかく、懐メロは何とも言えず心に響く。
「山のけむり」 https://www.youtube.com/watch?v=S1v_v5mH-wY
1 山の煙のほのぼのと
たゆとう森よ あの道よ
幾年(いくとせ)消えて流れゆく
想い出の ああ 夢のひとすじ
遠くしずかにゆれている
2 谷の真清水(ましみず)汲み合(お)うて
ほほえみ交し摘んだ花
山鳩の声聴きながら
行きずりの ああ 君とともに
下りた峠のはろけさよ
3 山の煙のたそがれに
別れた人のうしろ影
あとふりかえり 手を振れば
うすれゆく ああ 淡い夕日が
染めた茜のなつかしく
「高原の旅愁」 https://www.youtube.com/watch?v=lIBQxdm-ZvY
1 むかしの夢の 懐かしく
訪ね来たりし 信濃路の
山よ小川よ また森よ
姿昔の ままなれど
なぜにかの君 影もなし
2 乙女の胸に 忍び寄る
啼いて淋しき 閑古鳥
君の声かと 立ち寄れば
消えて冷たく 岩蔭に
清水ほろほろ 湧くばかり
3 過ぎにし夢と 思いつつ
山路下れば さやさやと
峠吹き来る 山の風
胸にやさしく 懐かしく
明日の希望を 囁やくよ
伊藤久夫は本宮市、春日八郎は会津坂下町出身だ。
NHKの朝ドラ放送の「エール」は、日本を代表する作曲家古関裕而は福島市出身。
藤山一郎の歌う「長崎の鐘」も古関の作曲だ。 https://www.youtube.com/watch?v=L04KqrSCPzk
朝ドラはあまり見ていないが、今回は楽しみにしている。
昨日また熱を出した。遅い昼食後、急に震えが来た。一昨年の夏の悪寒を思い出した。
いつもと違う震えだった。38.3℃、いつもの炎症は37.3℃くらいだ。
一昨年になる、結局救急車のお世話になったが、あのときの震えは忘れられない。
42℃まで上がり、ICUで2週間、また命拾いをした。
取りあえず、常備のF錠、R錠を服用し、炬燵に横になっていた。
3時間ほどは下がらず心配したが、震えも止まり何とか夕食を摂った。軽く、おじやとヨーグルトで済ます。
F錠、R錠、もう一つのR錠を服用し、スポーツドリンクと体温計を持参し寝床へ。
何もしたくなかった。不安を抱きながら、入院中の辛さを思い浮かべた。
夜中、何度か体温を測るが、36℃台に落ち着いていて朝を迎えた。
昨日の突然の発熱は何だったんだろうか。血筋から、たぶん・・・・。
元気で起床。良い天気だ。体調も戻り、昨日の続き庭の整理に励んだ。
ミスミソウ
キクザキイチゲ
午後、墓参りを予定していたら、.直前に息子からお墓を掃除したと連絡が。
広い墓の落ち葉がひどいので、例年は秋、雪の降る前に妻と清掃していたが、このところ体調悪くしばらくサボっていた。
大きなビニール袋に13個、息子一人で掻き集めてくれた。ありがたかった。
手分けして袋詰めした落ち葉を我が家へ運んだ。
ゴミに出さず、庭の隅に敷き詰めた。父、母、ご先祖様の思いが運ばれたような気がした。
これからも見守って下さい。
トンボ池のヒマラヤシーダ、未だ落ちない球果がいくつもあった。
木の下はほとんど球果の鱗片で敷き詰められ、小さなシーダローズも落ちていた。
低い枝の球果を取った。手を伸ばせば約20cmほど、何度かジャンプを試みるも枝がつかめない。
ジャンプ力が極端にないことにがっかりした。
球果は元の方が少し開いていたが、先の方は未だ灰色でしっかりしているようだった。
家に戻り板の上に載せた。隣はアカマツのマツボックリだ。
1日経ってから球果を見ると、自重により崩れ、先の方まで鱗片がはがれていた。
不通11月ころから球果は散り始めるが、この時期まで残っていることが分かった。
ヒマラヤシーダについては大きな疑問があった。
図鑑には雌雄同株、雌雄異花とあるが、これまで見た木は、どの木も雌花(球果)だけか、雄花だけの木だった。
下は前に撮ったもの。
雄花 雌花
両方が実っている木を見たいと思っている。
( 参考 拙ブログ)
ヒマラヤシーダは雌雄異株では?
https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/d8c5435adeb049b4864cdc7a04373140
ヒマラヤシーダの球果
https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/9b3c12b5b4baba11d67f95abbc7aa833
「暑さ寒さも彼岸まで」「三寒四温」とはよく言ったものだ。
一昨日、雪の舞う中、八田野へ。
サンシュウ
トサミズキ
「暑さ寒さも彼岸まで」「三寒四温」とはよく言ったものだ。
雪降りのあとは、温かい陽気にいよいよ春だ。と思いきや、今日は春の嵐だ。
昨日雪囲いを取った。
1日がかり、普段使わない運動量に、脚が、肩が痛い。
久しぶりの筋肉痛に、少しは筋肉があったのかと苦笑い。
雪囲い足元のエフェメルラル
数日前に花芽を愛でたミスミソウが開いた。
見渡すと、キクザキイチゲも3つ見つけた。目を挙げると、小田原小梅がほころびていた。
いよいよ春到来だ。
彼岸の入り、Aka先生、Syoちゃん宅へ線香を上げに寄る。
帰路立ち寄った蚕養町のサクラ、暮れから咲いていたが、満開だ。
春の嵐の中、山笑う季節の里山を楽しみにしている。
未明にトイレに起きたときは雨だった。
今朝、カーテンを開けると一面真っ白。 解けた雪に春の雪が激しく降っていた。
雨宿り
最近の「AERA」(2020年3月16日号)で哲学者の内田樹氏の巻頭エッセイ「eyes」を読んだ。
昔ケータイを持ったサル ―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書) という本があったことを思い出した。
「今の自分さえよい思いができれば、未来の自分が飢えても気にならない」
ふと、地球温暖化を想った。
これは、いつも思う人間の本性のような気がする。 いろいろ考えさせられた。
以下はエッセイ全文
****************:
『サル化する世界』という本を出した。自著の宣伝をこういう「公器」で行うことは控えているのだけれど、今回は反応が興味深かったので、取り上げる。
発売されて5日目に重版が決まり、アマゾンのいくつかのチャートで1位になった。私の本は普通そんなに売れないから、たぶん「サル化」というタイトルにインパクトがあったのだろうと思う。
ずいぶん前になるが、朝刊を開いて養老孟司先生の『バカの壁』の新刊広告を見て、本屋に駆けつけたことがあった。昼前だったが、平積みされた新刊の中でそこだけ凹んでいた。私と同じ反応をした人がそれだけいたということである。
「バカの壁」というのが「来た」のである。よく意味はわからないが、そういうものがこの世にはあり、それを手がかりにすると、いろいろなことが腑に落ちるのではないか。そういう期待を抱かせるタイトルだった。
「サル化する世界」もちょっとだけそれに近いのかと思う(ちょっとだけだが)。
「朝三暮四」という「変な話」がどうして久しく語り伝えられているのか考えたのである。このサルたちの「今の自分さえよい思いができれば、未来の自分が飢えても気にならない」という自己同一性保持力の弱さを荘子は矯正すべき欠点だと考えた。それは「サルみたいな人間」が実際に彼の周りにいたからだと思う。というのは、「守株待兎(しゅしゅたいと)」も「矛盾」も「刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん)」もみな春秋戦国時代の話だからである。「今、ここ」にしかリアリティーを感じられない「サルみたいな人」に過去と未来を教えることが開明化の急務だと荘子も韓非も考えたのである。
過去と未来に広がる時間の流れの中に自分を位置づけ、今ここにおける行動の適否を判断できる能力がない人には後悔も不安もないが、その代わりに反省も予測もできない。確率や蓋然性という概念がない。矛盾律も因果関係も理解できない。そういう「サルみたいな人」が戦国時代から2千年以上経った令和の聖代に大量発生してきた。そんな気がして、そのことを書いたのであるが、タイトルを見ただけで「なるほど、あのことか」と膝を打った人が少なくなかったのだろう。
************
この時期、笹山浜へはご無沙汰だった。
数年前に鳥インフルエンザ問題あった。水鳥たちへのエサやりが禁止された。
水鳥達もよく分かっていて、それまで沢山集まっていた崎川浜はめっきり減ってしまった。
ここ笹山浜も、いつしか冬の使者を見ることはなくなった。
先日、浜の近くのフクジュソウを見に行くと、コハクチョウが静かに羽を休めていた。
笹山浜からの光景はいつも素晴らしいが、水鳥たちが一層引き立ててくれる。
遠く対岸に低い山並みが連なり、手前に張り出す数本の松がいつも美しい。
浅瀬をさぐる
今年の北帰行は早かった。未だ残るコハクチョウ30~40頭が明日の旅立ちを前に静かな浮かんでいた。
愛おしさが込み上げた。
数日前の福寿草、ときどき晴れ間が温かいが、昨夕の雪でうっすら雪化粧、気温も上がらない。
日だまりに花びらを開いた群生を撮った。
失われた写真、オツネントンボもわずかに顔を見せてくれた。
帰路、トンボ池、八田野の早春の木々を撮ってきた。
ボケ
蒲生氏郷
長原の土手にたんぽぽが数輪花を付けていた。
エゾ セイヨウ
夜半に微熱、悪寒がするので敷き毛布を暖かくしてR錠服用。
ときどきの炎症からのものだ。
悪寒も消え、軽く朝食が摂れた。
今日は、コハクチョウとの別れに行く計画だった。
迷ったが、庭に朝日が燦然と差し込み、腰を上げ崎川浜へ。
例年より早い北帰行でカモはほとんどいない。コハクチョウ20羽ほどの一団が穏やかに浮かんでいた。
《~ 別れ切ないプラットホーム ~》 は春日八郎の歌。
純粋無垢な白鳥が愛おしい。元気で帰れよと声をかけた。
この時期の切ない別れは恒例だ。
ブログを振り返ると、昨年も 《感動の別れ》 がまとめられていた。
「コハクチョウの北帰行」 2019-03-06だ。
https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/3c37c85df8c9d0f10c96564632f7169a
しばらくぶりに,湖畔沿いに中田浜~笹山浜から磐梯を望んだ。
途中、福寿草の群生と、オツネントンボを沢山撮ってきたが、
PCにコピー中に撮影したカードデータを誤って消してしまった。
がっかりしたが、近々、天気の良い日に撮りに行きたいと思う。
午前中は検診日、A1Cが下がらない。
ときおり春の嵐だが、青い空も見えた。
居間から一段と黄色くなったサンシュウ、いよいよ弾けたようだ。
弾けた丸いつぼみは未だ開かないが、いよいよ咲き始めた。
小雨落ちる庭を巡った。
少し持ち上げられた落ち葉の下に、ミスミソウがもう花芽をのぞかせていた。
エゾエンゴサクも小さなつぼみが見える。
ついでに庭を巡った。クリスマスローズも大きな花芽を擡げていた。
スノードロップ、スノーフレーク、秋植えたチューリップも芽を出しはじめた。紫色の細い葉はツユクサだ。
ユキヤナギ
春が急ぎ足で進んでいる。
3/11
短大図書館へ。半旗が翻っていた。
あの日の寒さはない。あれから9年,いろいろ思い巡らせた。
天声人語「おもいの木」に涙した。
《孫の瑞姫さんは新地高校を卒業した直後、津波にのまれてなくなった。
震災前週の3/3、一家は瑞姫さんの誕生日会を開いた。就職が決まり、卒業式がすみ、運転の仮免許の取得を祝った。
瑞姫さんの遺体は、被災の翌日、自動車学校の送迎バスの車内で見つかった。・・・ 》
我が家でも、今、中学卒業、高校進学、誕生日を祝う孫を思うと、瑞姫さん一家の平穏な幸せな家庭が目に浮かんだ。
また、昨日は、津波で母を亡くした姉妹の心の成長のあとを視聴した。
人生のはかなさに涙が止まらなかった。
何年過ぎても、3/11は、被災された方々に思いを馳せ冥福を祈る日だ。
涙もろくなったが、1日1日を無駄にしてはいけないと、青年らしい願いが浮かんできた。
珍しく投稿した文芸欄に俳句が載った。
群青の湖水遥かに蜃気楼
最近、有り余る本を整理していたが、なかなか捨てられずにいる。
そんなとき、新聞のコラム欄で「啓蟄」についての一文に出会った。(3/7福島民友)
****************
劇作家の井上ひさしさんはある時、会津に関する資料を探そうと東京・神田神保町の古書店街を訪ねた。しかし、どの店にも適当な本がない。司馬遼太郎さんが会津の本をあらかた集めた直後だったという。▼井上さんの回想を裏付けるかのように、司馬さんの旧宅には今でも蔵書6万冊が残る。一方の井上さんは自身の蔵書を20万冊と見積もっていた。2人は読み切れないほどの著作を残しているが、それを支えたのが膨大な数の本だったことを教えてくれるエピソードだ▼啓蟄(けいちつ)の候に入り、土の中で春を待っていた虫たちが暖かさを感じ、むくむくと動きだす頃となった。興味のある本とじっくり、あるいはたくさん向き合って、本の虫を気取ってみるのもいい。
****************
半世紀も前の学生時代の専門書籍はもう利用しないだろうと決断したが、
より分けた趣味、教養本のたぐいも、いざとなると無理に捨てないでも・・・との思いがチラチラ。
慌てず時間をかけてもと思い直すと、少し心が落ち着いた。
どの部屋にもある本棚だけでない、2つの物置の半分は本だ。
本だけではない、食器類、衣類、靴、数々のバザーに出したら良いものなど、要らないのではというものがいっぱいだ。
また、使わなくなったプリンターが3台、古いが懐かしいPC2台などなど、あらためて捨てることは難しい。
そうそう、凝っていたフィルムカメラも何台も捨てられないでいる。
その後のデジタル1眼も次々買って、今のが5台目になる。
しばし時間をかけて処分することにしよう。
そんなことを考えながら,本棚から持ち出したのは、
「持たない暮らし」下重暁子著 「風来好日」久保田昭三著だ。 この前買った加島祥造著「ひとり」も。
いずれも,根本は「足を知る」という良寛の生き方に行き着くようだ。
残りわずかな日々、そんな生き方をしたいものだ。
気温は低いが久々の春日和を満喫した。
途中いつもの土手で、きれいに開いたフクジュソウを撮る。
家から庭に出てきたおじさんと立ち話。
土手のフクジュソウについて、そしていつも早春の庭に咲いている黄色い花について。
葉や花はジンチョウゲにそっくり、ただ、花が鮮やかな黄色で、我が家の白やピンクのチンチョウゲはまだつぼみは小さい。
これなんですか?珍しいですねと話した。ネットで検索すると、やはりキバナジチンチヨウゲ と分かった。
《別名 ナツボウズ(夏坊主)、ナニワズ、オニシバリ 原産 北海道、本州の一部の落葉樹林、 開花期 3~4月
雌雄異株で、メス株には開花後6月頃に赤い実をつける。
落葉樹の多い雑木林に自生、7月には落葉するから夏坊主と呼ばれる。10月頃から新芽を出す。》
キバナチンチョウゲ ビワ キリ
今日は,まだ、一ヶ月早いがショウジョウバカマの様子を見に行った。
少し膨らんだのもあるが、まだまだだった。
B地点に寄った。
気温が上がり,日当たりの良い土手に、オオイヌノフグリ,ナズナ、ハコベが可憐に咲き始めていた。
初チョウはキタテハだった。
ホウノキの冬芽に毛虫が固まっていた。
マンサクを見てきた。
花弁の基部が黄色いのと紅い木がある。
紅い方は ニシキマンサク(錦満作)らしく。どちらかと言えば、寒冷地に生える日本在来のマルバマンサクの変種らしい。
日本海側の山地に自生するとある。
ニシキ?
次はサンシュウが弾けそう,トサミズキも新芽が黄色くなってきた。
トサミズキ
2020.3.7
3/2の天声人語に、春が書かれていた。
でも、ネットでは記事の全文は見られない。有料なのだ。
いつも、世知辛いと思いつつ、図書館で閲覧の一文をメモした。
《 花に動と静があれば、散り際の鮮やかな桜が「動」で、寒中にほころぶ梅の花は「静」だろうと。
そして”紅梅や枝々は空奪い合い”(鷹羽狩行)には、躍動感を見ると。・・・・・・・・
寂寥とした風景に,花や新しい芽が色を添えていく。そしてだんだんと長くなる日の光がある。 》
”寂寥”の文字を見た瞬間、 ”春寂寥の~ ” 懐かしい歌が口をついて出た。
一瞬、何の歌だっただろうか?、思い出せずに最後まで口ずさんだ。
ようやく、自分のこれまでの半生に影響された歌を思い出した。
旧制松本高校の寮歌だと思い至った。
学生時代に歌った歌、これほど影響されたであろう歌が、忘却の彼方に行ってしまうには切ない思いがした。
https://www.youtube.com/watch?v=2Tki3CD0sZA https://www.youtube.com/watch?v=FhhoW13Qj9w
”寂寥”という言葉が好きだ。 日々、これからの人生に求めていく、豊かな”静けさを思った。
毎日が、矢のように過ぎて行く。
いろいろ思い悩み、多少のイライラを反省することもある。
そんなとき、” 求めない ── すると 心が静かになる ” 加島祥造の詩集{求めない}の一節が聞こえてくる。
あらためて、静かな空間で過ごす豊かさを思った。
孫の高校受験、昨日は学力試験、今日は面接試験だった。
辛い受験、もうすっかり忘却の彼方だ。
我が過ぎ去ったこと、親の思いなど、いろいろ考えさせられる。
兄は来年大学受験に挑む。
妹は、部活が一段落した秋口からは勉強時間も目立って増え、毎日頑張ってきた。
皆が通う塾へは行かず、分からないことは兄に聞いていた。小生できることは新聞に載る練習問題を切り抜いて届けるくらいだった。
健気に励む孫たちを見つめながら、ふと、孫たちの進学にかかる経済的な心配をしている。
老夫婦には何の援助もできず、我が半生を悔いるばかりだ。
あらためて知った大学の高額な受験料や授業料に驚き、受験生を抱える家族はそれぞれに大変だと思う。
来年度から高等教育無償化の制度が実施されるが、さらなる拡大を熱望せざるを得ない。
格差のない世の中を願っているが、家庭の経済的格差が精一杯努力する孫たち若者の希望を摘んではならない。
そんな社会を願いつつ、我が親の苦労を今頃になって考え有り難みを感じている。
取り込んだ梅満開に。