エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

俳句を詠みたい

2021-01-09 | 文芸

いつも俳句を詠みたいと思っているが、詠めない。
本棚には一茶や芭蕉、蕪村、虚子、それに歳時記数冊も、いろいろ並んでいるが思うように活用できない。
今の時期は、よく猪苗代湖にハクチョウを訪ねるが、そんな感動を詠んでみたいと思う。

いくつか五七五に挑戦するが、キーワードは3つか4つ。
   川柳風に    " 3つ4つ言葉並べて俳句かな" 
             " 俳句もどき浮かべるままに語を並べ"
                       "キーワード静かさ白鳥碧い湖"

いつもブログ「千曲川歳時記」http://blog.livedoor.jp/abenaka/  を鑑賞している。
よくいくつも詠めることかと感心しながら、大事な何かを教わりたいと思っている。
最近、句は技術ではなくこころと気付き始め、だから詠めないのかと納得している。でもコツというものがあれば、身に着けてみたい。

昨日の感動を句にしてみたいと思い挑戦。俳句もどきを並べてみた。

厳寒に佇み眺む水鳥の湖
沈黙の蒼き波間にコハクチョウ
紺碧の静寂に流るるコハクチョウ
紺碧の湖水に流るる白鳥よ
白鳥の会津嶺はるかに流れゆく
輝きて浮かび流れるコハクチョウ
静かさに輝き浮かぶ白鳥よ
白鳥の魂揺する波間にて
厳寒にたたずむ我に白き鳥
厳寒に遥か会津嶺白き鳥
青い湖漂う白鳥寂しかり
打ち寄せる蒼き波間の白鳥よ
厳寒の波間に白鳥の輝きて
            
並べた俳句もどきを一つ一つ読み上げてみると、どれ一つ良くない。
見つめる対象だけを並べているに過ぎず、動かされた心が現れていない。
感じた心を自分だけの独りよがりではいけないのだろう。
また ハクチョウは季語になるのだろうか。白鳥でなければならないか。
これからも、及ばない俳句つくりに挑戦してみたい。

  

ご指導ご助言を!


            


啄木の悲しき生涯

2020-04-06 | 文芸

最近、ふとしたことで手にした「啄木の悲しき生涯」(杉森久英著 河出書房新社刊)を一気に読んだ。

そこには、薄々知るにはあまりある赤裸々な悲しい生涯があった。

彼自身の日記や作品、与謝野鉄幹、金田一京助や知人、友人への書簡等から明らかになる生々しい辛い日々が、

あった。天才啄木の生活苦に追われる生き様があった。

かつて「遠き落日」を読み、知りたくなかった若き日の野口英世の日々に落胆したことがあったが、

その比どころではない。

「石を持て追わるる如く・・・」 渋民でのいきさつ も知ることが出来た。

髙田雀林の法用寺に啄木の歌碑が2つある。

小樽日報の小林事務長とのけんかの事実を知った。(小林寅吉は高田雀林の出身)
  
敵として憎みし友と
 やや長く手をば握りき                                  
 わかれといふに           

 あらそひて
 いたく憎みて別れたる
 友をなつかしく思ふ日も来ぬ

法用寺境内の会津五桜の一つ、虎の尾桜もほどなく咲き始めるだろう。

鑑賞し、また啄木に触れたいと思っている。

啄木の、苦もなく水が湧くように詠む3行の詩の才能、

感嘆する天才啄木の悲しい生涯があまりに切ない。

26歳の短い人生、いずれの詩も涙なしでは読めない。

 

**** いくつかの詩を思い出す ****

そのかみの神童の名の かなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと

かにかくに渋民村は恋しかり おもでの山 おもいでの川

石をもて 追はるるごとくふるさとを 出でしかなしみ消ゆる時なし

ふるさとの山に向かいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな

しらしらと 氷かがやき千鳥なく 釧路の海も思出にあり

たはむれに 母を背負ひてそのあまり 軽(かろ)きに泣きて三歩あゆまず

東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる

はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし) 楽にならざりぢっと手を見る

ふるさとの 訛なつかし停車場の 人ごみの中にそを聴きにゆく

頬につたふ なみだのごはず一握の 砂を示しし人を忘れず

やはらかに 柳あをめる北上の 岸辺目に見ゆ泣けとごとくに

砂山の 砂に腹這ひ初恋の いたみを遠くおもひ出づる日

己が名を ほのかに呼びて涙せし 十四の春にかへる術なし

いのちなき 砂のかなしさよさらさらと 握れば指のあひだより落つ

友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ

ふるさとの なまりなつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きに行く       

不来方の  お城の草に寝ころびて  空に吸はれし十五の心       

石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし

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いつか、憧れて電車で旧渋民村の啄木の母校の小学校や

北上川沿いの「やわらかに柳あをめる北上の・・・」の歌碑を訪ねたことがあった。

また、盛岡の「啄木新婚の家」や不来方のお城も。

もう半世紀も前のこと、全てが遠い思い出となってしまった。

多分、いずれも石川啄木記念館の出来る前だったような気がする。

いつかもう一度訪ねたいと思っている。

  やわらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに

 


懐かしい 河井寛次郎 

2020-02-28 | 文芸

河井寛次郎 懐かしい名前を見つけた。

月刊誌「芸術新潮」1月号に新連載が始まった -御贔屓御馳走帖-だ。

選・文の森川浩之氏とある。氏は3代続く京都割烹料理店「浜作」の主で、祖父の代の話を書いておられた。

最新の3月号には、シリーズ3で、「早春の盛り合わせ」の写真に、さわやか京都の筍に合わせた料理が、

河井寛次郎の草花絵付け面鉢に盛られている。

アックナンバーを見てみた。

新連載のはじまった1月には、「明石鯛のお造り」 河井寛次郎の碧釉瓜型鉢の写真と、

文豪川端康成氏来店の際の著者の祖父との思い出が、

2月は「うづらの鍬焼き」 寬次郎の籐手付き辰砂鉢で、初代の祖父が、来店したチャップリンから称賛されたはなしが載っていた。
 
新連載をみながら、あらためて料理は盛られる器で楽しむものたと思った。

高級な和食に限らず、我が家の三食の食事にも食器を楽しみたいと思った。

今後、始まった御贔屓御馳走帖に、河井作品以外に幾多の和食を盛る器が取り上げあげられるのだろう。楽しみだ。

これまで京都に2度、河井寛次郎記念館を訪ねたことがあった。

本棚の、祈念館で求めた、記念館編「河井寛次郎の宇宙」を手に取った。

ときどき手に取る素晴らしい本だ。しばらく忘れていた心がよみがえった。

    

久々に河井の作品に触れ、彼の考えを振り返った。
 柳宗悦 河井寛次郎 浜田庄司 によって提唱された民芸運動を復習した。
わざわざ日本民芸館を訪ねたことがあったが、お目当ての一つだった河井の作品にまた触れたいと思った。  
  
  
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(参)拙ブログ 「手仕事の日本」 2012-12-13 | 文芸

 しばらく柳宗悦「手仕事の日本」を読んでいた。
 焼き物に興味を抱いたころから、民藝を知り、益子の浜田庄司参考館や京都の河井次郎記念館を、数年前には東京駒場の日本民藝館訪ねた。
 すっかり遠ざかっていたが、たびたび聞いていた柳宗悦著「手仕事の日本」は、今回初めて手にした。
  昭和15年前後の日本の手仕事の現状を著したものだが、発刊は昭和21年正月とあった。前書きの前の序として、戦争中の厳しい種々の検閲について触れ、幸か不幸かと控えめに訪れた終戦後の平和な時代を書いた。全国各地を旅して各地の伝統的な手仕事を鳥瞰して、その意義を述べている。
 そこには、「手仕事は最も人間的な仕事」と、手が機械と異なる点はそれがいつも直接にこころと繋がれているからとあった。
 会津の品物としては、会津塗り、絵蝋燭、刃物、本郷の焼き物を挙げている。奥会津の雪踏みや雪沓など、手彫りのくり鉢や曲物の手桶屋、葡萄皮でつくった蓑の網も見事な手仕事と述べている。他には、喜多方、熱塩日中の生漉き紙も紹介されているが、いままで知らなかった。
  さまざまな品物の基礎は、自然と歴史であり、人との交わりから生み出されていくと言う。また、後記には、よく知られていない日本の一面、手仕事の意義を知らせたいという著書の目標が、そして、 ①それらの品物をつくった人のこと。②それらの品物の持つ性質。実用的なものがなぜ美しいのか。③それら品物の持つ美しさについて。どうして尊ぶべき美しさなのか。を述べたかったと書く。
 本郷焼きについての考察に、「粗物と蔑まれているものが最も特色のある、また見事なもの」と評して、いわゆる民藝のこころ「用の美」を説いていた。

 (参)本棚の「河井寬次郎の宇宙」(於:河井寬次郎記念館で求める2000,10.25)を見た。
 鷺珠江氏の文「宇宙の中の河井寛次郎」に(鷺珠江さん:ネットで検索すると、河井寛次郎氏のお孫さん、と知った。)
 《 柳・河井・浜田によって提唱された「民藝運動」とは、名もない職人の手によって、その土地に根ざして、日などというものを意識せずに作られているものの中にこそ、実は健全な美が宿っており、従って、美とは決して遠い特別なものではなく身近なものである。日常のくらしの中に美はあふれて息づいているのだ》とあった。
  美とはほど遠いが、ときどき自作のいろいろな皿、箸置きやぐい飲みを使っている。
 特にお夕飯はゆっくり味わいたいと思っているが、一層料理やお酒がおいしく感じている。陶器は、つくづく食文化と切っても切れない関係にあることを再認識している。
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(参)いつか書いた拙エッセイ 陶芸を鑑賞する」 2007-03-09 | 文芸

     blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/4e8a1efe23e9c175ff03bfd9a07af756

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 加島祥造著 「ひとり」 

2020-02-27 | 文芸

アマゾンから加島祥造著「ひとり」を取り寄せた。

本の帯には 〈89歳の「いま」を生きる〉 とある。

年老いてゆく豊かな生活の様子を知った。

大自然の驚異や優しさに心を深めている晩年の幸せな境地だ。

一文を読みながら、文中に作者と変わらない自分の幸せを感じた。日常の一端を共有できた。

Alone,but not lonely
老子の英訳本で彼は ”一人でも寂しくない”と  訳す。 

〈   これからの時代は、後半の人生を一人で送る人が増えるだろう。
     何でもいい、自分の出来る楽しさを見つけることが大切    という。

  

妻と二人,いつまでも健康でいられるに越したことはないが、一方、一人で時を過ごす幸せを想像した。

そんなとき、寂しいが一人で、そうした時を過ごしたいものだ。

この伊那谷での生活の写真集の一片に。

      ”道(タオ)の自然につながる人は、
       いまの自分に満足する、そして
       それを本当の富とするんだ。”

 

本棚には、老子に興味を持ち求めた彼の著作が並んでいる。

「伊那谷の老子」  「タオ老子」  「求めない」 など。

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朝のうち、チラチラ降る雪の中、ほぼ日課となった短大図書館へ。

誰もいない静寂の空間、ゆったりした時が流れる。

わずか数百mの道端に、春を見つめた。

ヒメオドリコソウ  スイセン

ナズナ 花咲く  ノゲシ ロゼット

タンポポ ロゼット  短大の桜

サザンカ  サンシュウ

クリシマスローズ 


野菊の如き

2019-10-14 | 文芸

                                                      

この時期になると、なぜか政夫と民子の物語を思い浮かべる。

庭に、里山にユウガギクを見みるとき、政夫の握った菊は・・・、などと考えることがある。

どうでも良いことだが、この菊は、ユウガギクではなくノコンギクだろうか・・・、などとときどき考える。

また、本棚の定位置から「野菊の墓」を手にした。

「野菊の墓」については、何回かブログに書いた記憶があリ探してみた。
どうも、10年前に一度だけだったようだ。       https://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/m/200810/1 

傍線が引いてある。

『其時そのときの事ことを考えてると、全く当時の心持に立ち返って涙が留めなく湧くのである。』

『政夫、堪忍してくれ・・・・・民子は死んでしまった・・・・・私が殺した様なものだ・・・・・』

いつも読む度に、切ない思いに ・・・・・『涙が留めなく湧く』のである。

 

 


大皿 磐梯

2018-10-07 | 文芸

何年も前、陶芸に勤しんだ。

ろくろはモノにならず、専ら手びねりや陶板をいろいろ作った。

この大皿、たまにご馳走を載せる。

折りのスシを買ってきたので、思いついて並べてみた。

料理を食べ終わると、紺碧の猪苗代湖に浮かぶ、秀峰磐梯が現れる。

いい色合い、デザインで気に入った作品だ。

  

最近は、心から楽しむ気概がなくなった。

芸術の秋という。たまには絵筆を持って、凛々しい磐梯を描いてみたいものだ。


「徳一と勝常寺」出版祝賀会

2017-05-14 | 文芸

         白岩孝一著 歴史春秋社刊

 小生としては多少場違いな雰囲気もあったが、白岩孝一先生のライフワーク「徳一研究」の3冊目出版のお祝いに駆けつけた。

 先生はお礼の言葉で、深山幽谷のような徳一菩薩の姿が、霧の晴れ間からほんの少し見えたようだと語っていた。

 第1作が「徳一を訪ねて」、第2作は「徳一と法相唯物」、今回が第3部で、徳一顕彰の完結編という。

 なかなか難しい著作だが、小生もゆっくり読ませていただき、少しでも霧を払ってみたいと思っている。、
 
 著者の白岩孝一先生の歩んだ道が我が人生にも少し似ていると思っている。

 お互いに、初めは会社勤めから教職へ転じ、会工、喜多方工でご一緒した。

 当時、彼は機械科、小生は化学工学科、特に学校改革に一緒に取り組んだ思い出が強く残っている。 

 在職中は、彼が畑違いの歴史に興味を持って勉強していたことは知らなかった。幼いころから地域の歴史に関心を寄せていたようだ。

 小生は、昆虫少年だったころから、畑違いの自然への興味・関心は続いていた。

 また、小生は在職中に、先生は退職してからだったが、お互いに癌で危ない闘病生活を送った。

 歳は1つ、病歴もいくらか私が先輩だ。

 そして、退職後13年、彼は文化遺産、歴史考察で素晴らしい業績を残した。

 無論、小生は能力も努力も彼の足元にも及ばず、大した成果もない。

 でも現在、細々とチョウやトンボの保護活動に取り組み、自然遺産の重要性を訴えている。

 
 著書の〈あとがき〉には「無知の知」に触れ、《この世の森羅万象のうち、己の知り得るのは極力わずかな些細なことでしかないとの自覚が生まれた》とある。

 また、《今後は勝常寺周辺の発掘調査を楽しみにゆっくり生きていきたい》と。

 先生には、どうぞ健康に留意し、「会津は一つ」を合い言葉に、豊かな会津を築くため一層のご尽力を願っています。

 あらためて、「徳一と勝常寺」のご出版、誠におめでとうございます。


志を得ざれば再び此地を踏まず

2016-04-22 | 文芸

  野口博士に精神力学ぶ  
          
昨日、猪苗代の野口記念館の隣の至誠館で「いなわしろフォーラム」(福島民報社主催)があった。

「至誠館」が建てられたことは知らなかった。

第1部の記念講演会を聴いた。野口英世記念会の竹田美文副理事長が「ドクター野口に学ぶ精神力」と題して話した。彼もまた細菌学者だ。
第2部は往時の猪苗代町を扱ったニュース映画上映会があったが、途中退席した。
気になるヒメシロチョウの様子を見に行くためだった。

講演は、彼の床柱に彫り残した「志を得ざれば再び此の地を踏まず」で始まった。

 

 年代別に彼の足跡をたどった。

 1歳半の時、いろりに落ちて左手コブシに大火傷を負う。 15歳の歳に左手の手術を受ける(会津会陽医院の渡部鼎医師)。

 20歳で医術開業後期試験に合格。21歳のとき、北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務(英世と改名)。

 その後の研究活動を、同世代の医学者パスツール、コッホ、北里柴三郎や志賀潔などの業績とともに辿った。

 そして講演では、この強靱な精神力の源を3つ上げられたが、十分理解できなかった。
 ・14歳の時の手の手術 、・背が153cmと低かったことからの劣等感  ・大隈重信との親交 

  講演の中に、彼の不自由な手の写真を見た。手術中の不自由な親指が写っていた

 強烈だった。この写真に、彼の辛かった忍耐の生涯が思い出された。

 これまで見ていた彼の写る写真は、どれも左手を隠していた。写真を見つめながら、込み上げるものがあった。

 野口英世の少年時代、青年時代、その後の不屈の生涯は、どれだけ辛い人生であったことか。

 英世はいつも忍耐を心に秘めながら歩んだ生涯であったと思う。

 何年も前、渡辺淳一著の「遠き落日」を読み、その映画化もあった。その赤裸々な人間野口英世は、知りたくない一面だった記憶がある。

 そレらについても、彼のこの忍耐、精神力を思うと、何ら感じることはなかった。

 会場を出ると、2階廊下に「忍耐」の書が掲げられていた。

 野口英世は忍耐の人だ。

  
   【野口英世の生涯・年表      http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2013091900027/  】

  【野口英世 この母ありて この息子あり  http://www.cheers.com.au/entertainment/dancingman/901/ 】

   【人物写真紀行 野口英世  http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/noguchi/

野口清作の生家


吉野せいの 真実の輝き

2016-03-23 | 文芸

  いわき市の主宰する、新人作家の優れた文学作品を顕彰する「吉野せい賞」についてはよく聞いていたが、彼女については何も知らなかった。

早速、図書館で書庫から探してもらった作品集を借りて初めて読んだ。

70歳を過ぎて筆をとった彼女の代表作「洟(はな)をたらした神」は、彼女の人生そのものの土の匂いのする16編の随筆からなり、そのすべての作品に心打たれた。

串田孫一氏が感想に、吉野せいの文章のいたるところに人間の根源を照らす光があると述べている。

また、自分に対して偽りを許したことのない人間だけの持っている真実の輝きだと。

たしかに、これまで読んだことのない文章から、彼女の綴る辛い、苦しい人生にその光らしきものを強く感じた。

作品集の口絵写真には吉野せい自筆の色紙「怒を放し 恕を握ろう」とあり、彼女が自分に言い聞かせた思いと受け止めた。

彼女が生きていれば、この福島の怒りの状況をどう恕していこうとするのだろうか。

 

 ( ブログ「吉野せいと石牟礼道子」でいろいろ教えられた。
 http://d.hatena.ne.jp/michimasa1937/20160319
ふるさとに作家、吉野せい。名前だけ知っていた彼女を初めて読んだ。)


啄木生誕130年

2016-02-12 | 文芸


 
 数日前の朝日歌壇「うたをよむ」に、歌人三枝之氏が啄木について書いていた。
 今年は啄木の生誕130年という。そこで、谷村新司の名曲「昴」が啄木の歌を下敷きにしていることを知った。この名曲「昴」はいつも鑑賞してきた。

 啄木の死後発刊された「悲しき玩具」初めの2首は

  ”呼吸(いき)すれば 胸の中にて鳴る音あり
    凩(こがらし)よりも さびしきその音”

 ”眼閉づれど 心にうかぶ何もなし 
    さびしくもまた眼をあけるかな

 谷村新司作詩・作曲「昴」の歌詞は

  ”目を閉じて 何も見えず
    哀しくて目を開ければ
    荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
    ・・・・・ ・・・・・
    呼吸をすれば 胸の中 
    凩は吠(な)き続ける
    されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり
    ・・・・・ ・・・・・     ”
  また、啄木は文芸雑誌『スバル』の同人であったことを考えると、曲名『昴』も理解できる。

   彼がかなり啄木に影響を受けたことは想像できる。盗作などではない、彼もまた、青年のころ啄木に感化されたことを知り嬉しかった。

 啄木の送ったかなしい人生を、いつも思っていた。

 啄木は明治45年4月、極貧の内に亡くなった。
  親友の若山牧水の臨終記に、一層悲しみが湧いてきた。    
  

 (参)ネットから
   【 あの人の人生を知ろう~石川啄木 】
    http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/takuboku.html


加島祥造さん逝く

2016-01-08 | 文芸

      
丁度、詩集「求めない」がベストセラーになっていたころ、中野孝次の著書から加島祥造を知った。

詩集「求めない」の原点は、老子の「足ルヲ知ル」のようだと分かった。

詩集「求めない」は、ひとりの弱い人間の、ときどきの救いとなった。

そしていつも、優しい安寧を与えてくれた。

・ 求めない- すると 心が静かになる
・ 求めない- すると 心が澄んでくる
・ 求めない- すると 時はゆっくり流れはじめる
・ 求めない- すると 自然の流れに任すようになる
・ 求めない- すると 心が晴れてくるのを感じるよ
・ 求めない- すると 自分の声がきこえてくる
・ 求めない- すると  今じゅうぶんに持っていると気付く
・ 求めない- すると  今持っているものがいきいきとしてくる 
・ 求めない- すると  悲しみが消えていく
・ 求めない- すると  心に平和が広がる

その後、伊那谷の自然を礼賛する彼の「伊那谷の老子」を読んだ。。

都会育ちであったがゆえに、伊那谷の自然への思いは深かったと思う。

鉄齋の詩「居山豈為山 只愛此中閑」(山ニ居ルハアニ山ノタメナランヤ、タダ此ノ中ノ閑ヲ愛スレバナリ)を挙げ、

「閑」とは己の実在意識を静かに味わう心で、今生きているという意識だと書いていた。

以来、僕も小さな我が家の、小さな自然の中で、日々、「閑」を求めて満足しながら過ごしてきた。
 
加島さんのご冥福をお祈りします。
 
 


遠い日の拙い思い 変わらない青春を

2016-01-06 | 文芸

 

本棚の「岡潔 春宵十話」を手に取った。緑色に縁取られた箱入りの本を開くと、半世紀も前のアンダーラインやメモがあった。

当時、「人の情緒と教育」、「学を楽しむ」、「自然に従う」等など、数学者岡に共鳴した我が青春の思いを見つけた。

「あとがき」の余白全面に、

「大学生活が終わる。いつも浩然の気を養い、生命の、大自然の、宇宙の不思議を学ばん。

山道には緑と土と光のにおいがした。大自然の匂いが。

いつも大いなる自然と在った日々、対大自然なれば、崇高なる対話を享受できた喜び。

夢を見よ。夜空を見上げ聞け。人生の何か、幸せの何かを。格物致知! 」と、

若き日の、未熟だが純真な走り書きを見た。

長い間忘れていた一冊に、二度と戻らないなつかしい青春の心を見た。

あれからあまりに長い月日が経ってしまったが、今、遠い日の拙い思いに教えられる思いがしている。


祝 今井美術収蔵館 来春開館の運びに

2015-09-20 | 文芸

                                                                                        【初冬の鳥海  1998年  F20】  (今井繁三郎作品集より)

昨年、惜しまれながら休館していた、鶴岡の今井美術収蔵館が仮オープンの運びとなった。
館長さんからお手紙をいただいた。早速、返事をと思いつつ,気忙しさに何日かが過ぎてしまった。
 そうしている内に、昨日メールまでいただき、早速返信することが出来た。
*********************
今井収蔵館プレオープン、そして来春再開の報に,心からお慶び申し上げます。
おめでとうございます。
しばらくでした。お手紙をいただき、気にしながらもご返事遅れていました。
開館をめざした刻一刻の準備の様子を報じる庄内日報の記事を嬉しく拝見しました。
やはりあるべき方向に向かっていることを嬉しく存じます。
「このままにするのは惜しい」との沢山のこころが結集し、新しい時代の幕開けですね。
素晴らしいと思います。
 何気なく立ち寄ったのは14,5年も前になるでしょうか。あのときの裏庭から訪れた収蔵館の雰囲気を今も鮮明に思い出します。
 その後、山形で佐藤總右さんの奥様を訪ねし、霞城公園の詩碑を案内頂きました。その折りにたしか貴美術館を訪問し、あの藍染めの布をしっかり見てきた覚えがあります。
 良かったですね。いつかまた貴美術収蔵館に寄せて下さい。
 お身体に気をつけて,新しい春をお迎えください。
 小生、気忙しくしていますが、出来るだけいろいろ求めずに,こころだけでも穏やかに過ごしたいと思っています。
 まづはメールまで
********************
(*)8/30付 庄内日報の記事
「プレオープン控え草刈り作業に汗流す 今井繁三郎美術収蔵館 」
http://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2015:08:30:6798

かつて拙ブログで書いた今井美術館について,あらためて思い起こしてみた。
  以下は、かつての関連する拙ブログだが、それ以降は,「ヒマラヤシーダ」に関わるお付き合いが続いている。例えば 「ヒマラヤシーダの謎2011-11-18」
        http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/db45f23f2f644523218608450a601216
 懐かしい限りだ。
  ○「そこは新しい風の通り道」 2010-04-05
    http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/0ee25fa0252cc1aeca79763aaaa5f478
  ○「今井繁三郎美術収蔵館」 2006-02-14
     http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/bc72399fa2b3ef0d95cc9ec3419350c2
  ○「▽色彩の画家・今井繁三郎▽」 2006-02-19
     http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/98b3f2a2fc597da6929e1bd332fe787b
  ○「今井繁三郎作品集」 2006-10-18
     http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/f99511b659750a19a85fcaae10b4abce
  ○「3年遅れの礼状」  2008-10-30
    http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/4c10f5f0ec1b870831477f7bb910091d
 ○「詩画集・風の道」  2008-11-10
     http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/0f76e4e63e1eeee82b1063996f20e532

   いつかまた、今井先生の作品を鑑賞しに鶴岡を訪ねたいと思っている。


残したい 美しい会津弁

2015-03-18 | 文芸

   
 
 今日は彼岸の入り、親戚筋にお彼岸のお供えを贈りに市内の菓子店へ行った。
いつもの和菓子詰め合わせを見繕って頼んだ。3件、宅急便で依頼した。

待ち時間にふと手に取った小冊子、「「残したい美しい会津弁」に目を通した。
表紙には「地域資源再発掘 会津遺産」とあった。

ページをめくると、磐梯山、猪苗代湖にサクラの写真に発刊の趣旨がすっきり書かれていた。

市内のあちこちの店に置いてある小冊子「会津嶺」はときどきいただいてくるが、この冊子、表紙にはマジックインクで店の名が記載されていたので、お持ち帰りではない。

用を足して、帰りに発行者の会津若松商工会議所へ立ち寄った。
 受付で、氏名、住所を聞かれ2冊いただいてきた。
    
 発行は昨年11月とあった。ネットで検索すると、発刊時のことが民友新聞にあった。
 「“美しい会津弁”冊子に 若松商議所作成、おもてなし活用」の記事。
   http://www.minyu-net.com/tourist/aidu/1118/odekake1.html
 

『会津遺産事業』の一環として刊行とあった。
『会津遺産事業』とは、会津の誇るべき「宝=遺産」を改めて見直し、広く発信することを目的として、会津弁の他、会津の食、教学、自然・文化などを選定し、会津の宝として後世に残す取り組みらしい。この小冊子はその第1弾という。
きっかけはNHK大河ドラマ「八重の桜」だ。

 冊子には《身近な会津弁の使用例》が載っていた。今若者はほとんど使わなくなったが、
両親が使っていた言葉が網羅されていた。
いくらか拾ってみると。
・やんだおら → いやですよ         ・さすけねえがらっし  →  かまいません  ・おあいな(は)んしょ → いらっしゃいませ。
・なじょすんべ  → どうしましょう    ・おじんつあま  →  おじいさま        ・おんつあま  →  おじさま           ・あいばんしょ → 行きましょう
・くっちゃべ → あげたでしょう     ・たまげたべし → 驚いたでしょう      ・やっちゃぐね →やりたくない       ・やってみらんしょ→ やられたらどうですか
・こでらんに→こたえることのできないほど   ・いがんに →行けない       ・おぢる → 降りる                   ・がなる   →     怒鳴る
・むづる → 曲がる                  ・よっぱら   →   飽きるほど  

会津弁はその対象となる相手に応じて二通りの使われ方がある。

① 「~だべし」「~だなし」・・・・・目上の人やお世話になった人などへの思いやりや尊敬の念を持って丁寧な語尾となる敬語的表現

② 「~だべ」「~だな」・・・・・・・・主に年長者が年少者へ、自負心、かたくなさ、誇りと言ったプライドを持って言い渡すような言い切り型の表現

 失われてならない文化遺産は数々あるが、有形の文化遺産はそれなりの残されていくのかも知れないが、

この方言など無形の遺産はまさにこころして守られなければならない。 

あとがきには.気になる記述があった。

戊辰戦争で会津は「逆賊」とされ、東北地方一帯は新政府から一段低く見られていた。戦後も中央への人材やエネルギーの供給地に留まり、

この構造は基本的に今も変わっていない。》

これは決してひがみではないと思うが、これからのふるさと会津にはこれらの思いを打破する気概を持っていかなければならないと思う。

 時代の流れに左右され、どんどんなくなっていく”美しい会津弁”をあらためて考えた。 

さらに、現在興味を持って細々取り組んでいる会津の自然、自然遺産に思いを巡らせざるを得ない。

とりわけ絶滅が危惧されているチョウやトンボの保護もさらに重要な課題だとあらためて認識している。(2015.3.18)

 【参考 拙ブログ】

○絶滅が心配されるトンボ   2012-10-11 | 昆虫
          http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/b79492b4480e6731855df330e5e2f3cb

○絶滅が危惧される虫たちを守りたい  その2  2009-09-11 | 昆虫
         http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/1cd5adec5b60ae4791819210c28d7598

○絶滅が危惧される虫たちを守りたい   2009-09-02 | 昆虫                                                        http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/fc4004af5d78c8b83d3a7d9edac363ad


荒れる十日市

2015-01-10 | 文芸

 

   荒れる十日市と言われるが、朝から良い陽が当たっている。でも、強い風が吹きまくって寒かった。
 久々に磐梯山が見えるかと何度も雨戸を開けたが、残念ながら終日雲の中。

 麓から上は白い雲に覆われ、磐梯の雄姿を見ることは出来なかった。極寒の冬の間、北側の雨戸は閉めっぱなしだ。

 
 お昼のニュースで十日市の様子を伝えていた。午前中からすごい人出だ。

   

  昨年は腰を痛めて行けなかった十日市、どうしようか迷っていたが、伝統の風物詩を眺めてこようと思った。

 いつも夜出かける十日市だが、3時過ぎ、ドッジボールの練習を終えた萌えちゃんと友達を送る車に便乗することにした。

 僕は駅前で降りて別行動、賑やかな十日市の巷へと繰り出した。

 昼までの穏やかな天候は一転、瞬く間にすごい雪降りとなった。

 神明神社へお参りして、賑やかに混雑する人波に流された。

 椿餅の伊勢屋前 

   縁起物の店が並ぶ

 神明神社 

市役所通りから元の長崎屋や裏通りから蒲生氏郷の墓へ参った。十日市には必ず詣でていた。

墓は空風火水地の五文字を刻した五輪塔で、遺髪が納められている。初市の喧噪をよそに、豊かな静寂の空間だ。

 辞世の碑に「限りあらば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風」 

  

 ここまでは、いつも辿る道だった。 途中目に入った赤提灯に誘われた。氏郷候の墓所の裏にある虚空蔵尊にお参りしたあと、赤提灯の暖簾をくぐった。

天満虚空蔵菩薩 

 久しぶりの居酒屋、もつ煮込み、奨められたこんにゃくを頼んで、美味しいお酒を3つおかわりした。

  

  マスター

  お隣さんは常連のNemoさん、すっかり意気投合してしまった。

  家で心配しているだろう、店から携帯を借りた。ほどなく娘の運転で、妻が飛んできた。

  たまたま立ち寄った居酒屋で、愉快な十日市の思い出となった。