エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

無くなる「はぜかけ」

2006-09-29 | 日々の生活
会津若松市内は稲刈りが始まった。
 コンバインでの刈り取り作業を見ていたら、籾は次々に袋に収穫し、残りの藁は切り刻まれて田の地面に蒔かれていた。肥やしになるのか。あとは食べるときに籾を摺るだけのようだ。
 先日、信州のブログ仲間の記事に、家族中で稲刈り、「はぜかけ」作業の、豊かな田園風景の一コマが紹介されていた。
 そういえば、刈り取った稲は束ねて稲架(はざ)に掛けて2週間程度、天日と風にで乾燥させるのが普通であったが、最近、市内ではこの光景をあまり見かけなくなった。
 確かに「はざかけ」作業は重労働かもしれないが、この「はざかけ」で自然乾燥させたお米は美味しいにちがいない。それが証拠に、ネットで調べたら「はざかけ」したお米を特別に販売していることが分かった。
 また、稲の乾燥には、一本の杭に稲束を積んで干す方法があるが、穂鳰(ほにお)と言うそうだ。昔どこかで見かけたことがあったが、地方によって乾燥方法に違いがあるのだろう。
 5,6年前に宮城の唐桑半島へ旅行したとき、変わった「ほにお」を見たことを思い出し、写真を探した。芸術的な「ほにお」が写っていた。
懐かしい光景がまた一つずつ無くなっていくようだ。稲刈りを見ていてそんなことを考えた。
「ほにお」
幾何学模様の「ほにお」

湖畔に秋を拾う

2006-09-27 | エッセイ

やすらぎを求め秋の湖畔に立つ。
繰り返し打ち寄せる波間に緑の水草が漂い、さざなみがやわらかに輝いている。湖岸の松並木に秋風わたり、過ぎ去りし夏の賑わいがかすかに聞こえてくる。流木に腰掛け対岸を望み、深呼吸する。
今を忘れ、自分を忘れる。このひとときが我が至福の豊かさなり。
幾重にも続くさざなみ、遥かに対岸の青き美しい山並、湖面の青緑色すべてが永久に爽やかなり。
 遠き雪の季節の忘れ物か、白い羽毛が砂に埋もれている。何をか語らん。何億もの砂粒が営々とこの浜をつくった。
折しも水際に一匹のミドリヒョウモンが舞い降りた。その痛々しい羽根が、夏の終わりを語るように寂しく揺れていた。いとおしく切ない思がした。
 静かな、穏やかな湖畔から、白い雲に見え隠れする磐梯山頂が、今秋の色に染まろうとしている。

「身近な生き物調査隊」

2006-09-26 | 自然観察
 7月に市の環境生活課より、「身近な生き物調査隊」への協力依頼を受けた。
以前に、市の情報になかった昆虫、主に蝶、トンボについて情報を提供したことがあり、お誘いを受けた。調査者は応募した市民が、8,9月の2ヶ月間、ほ乳類から鳥、魚類、昆虫類に至る市内の身近な生き物を見つけ、場所、日時を報告するものだ。
 この間、昆虫、主に少しは詳しい蝶やトンボを中心に数か所で観察してきたが、いろいろ新しい発見があった。成果の1つは、絶滅危惧種第Ⅰ類の昆虫を発見したこと。そして、会津で初めてモンキアゲハを目撃したことなど。
以下は、調査で確認し報告した昆虫類である。
【●クロアゲハ、ヒメジャノメ、ヒメウラナミジャノメ、クロヒカゲ、ベニシジミ、イチモンジチョウ、コミスジ、ホシミスジ、ルリシジミ、キタテハ、オオチャバネセセリ、イチモンジセセリ、ヒメアカタテハ、ジャコウアゲハ、モンキチョウ、キアゲハ、モンキアゲハ、ツバメシジミ、ジャノメチョウ、オオウラギンヒョウモン、オオウラギンスジヒョウモン、ミドリヒョウモン   ●イカリモンガ
 ●キイトトンボ、アオイトトンボ、チョウトンボ、ショウジョウトンボ、ナツアカネ、アキアカネ、オニヤンマ 、ノシメトンボ、ギンヤンマ、 チョウトンボ、ミヤマアカネ、オニヤンマ、オオルリボシヤンマ、マダラナニワトンボ  
●ホシウスバカゲロウ  ●ヒゲナガゴマフカミキリ、キボシアカミキリ、ハギツルクビナガオトシブミ、キバラヘリカメムシ、マダラアシゾウムシ、ヨツボシカメムシ、アシグロツユムシ、クサキリ、コカマキリ、ハラビロカマキリ、オオカマキリ、ツユムシ、セスジツユムシ、エゾツユムシ  ●アシブトハナアブ、 シマハナアブ、ホソヒラタアブ、ミドリバエ、キイロスズメバチ、オオモンクロベッコウ、キアシナガバチ、ホソアシナガバチ、オオフタオビドロバチ、クロマルハナバチetc 】

 この調査を通して、いろいろ考えさせられた。いくつかの意見を添えて、先日、市の方へ報告書を提出した。
○年間を等しての調査を実施、旧市内のみでなく、近隣についても調査を広げるといい。
○過去のデータとの比較検討 ○里山でのビオトープの必要性についてなど
  私見を述べさせてもらった。
 これらのデータが今後のよりよい環境保全に供されることを願っている。

秋晴れの1日

2006-09-25 | 日々の生活
 昨日、秋晴れの1日、秋を楽しんだ。娘の車で、猪苗代へ秋の撮影ツアーに出かける。
 朝方、磐梯山頂にわずかに雲がかかっていたが、昼前からは雲一つ無い快晴となった。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、暑くもなく、寒くもなく、いい季節だ。
 黄金の稲穂に、山頂少し色付きはじめ、磐梯が青空に凛々しく聳えていた。
 昼前に、いつものトンボ観察のフィールドを覗いた。すっかりトンボの数が減った。
何となく寂しい気がする。途中の蕎麦畑では、この秋初めてのキチョウを見た。これからしばらく撮影の対象にしたい。また、イチモンジセセリの数がめっきり増えたが、そろそろ南への旅に出るのだろう。
 蟹沢浜の猪苗代湖畔に立ち寄った。遙かに、対岸の山々が湖水に浮かぶ景色はいつもすばらしい。季節は秋、柔らかな陽にキラキラと輝く湖水を、遊覧船の亀号、ハクチョウ号がゆっくり浮かんでいた。最後の夏を楽しむ若者の水上ボートの水煙が見えた。
 足下に一頭のミドリヒョウモン舞い下りた。移ろう自然の今、一時の安らぎを覚えながら、やがて来る次の季節を思った。木々が色づき、散り、寒さの季節を迎えるのか・・・。

 何年ぶりかで、観光客になり、野口記念館の前にある「猪苗代地ビール館」、「世界のガラス館」を訪ねた。折角なので、昼食にビールをご馳走になった。実は、出発前からの楽しみだった。ラオホという黒ビールジョッキを楽しんだ。改めて、美味しく飲めるまでに取り戻した健康を有難く思った。
 妻と娘がゆっくりガラス館で買い物をしている間に、ガラス館裏に、黄金の実りと磐梯山の雄姿を写真に収め、巡り来た季節を堪能した。

早朝の散歩で草花との対話  

2006-09-24 | エッセイ
          《金色に輝く キンエノコロ》

 早朝の散歩道に、地味で目立たないが、個性的な秋の草々との対話を楽しんでいる。
 田の畦に繁茂するキンエノコロの穂が金色に輝き風に揺れ、ツユクサが次々と鮮やかな青い花を咲かせていた。その青色と、小さな紅花を多数付けたイヌタデのコントラストが何とも言えず美しかった。そして夜露に濡れたメシヒバの穂に、ヤマトシジミがじっと朝日を待っていた。
 私の秋の七草を挙れば、イヌタデ、エノコログサ、アキノキリンソウ、ヨメナ、ミズヒキ、ミソソバ、チジミザサなどだろうか。ひっそりと生きずき秋を感じさせるこれらは、いずれも山上憶良の秋の七草に劣らぬ私の好きな道端の草々だ。
 庭には急につぼみを膨らませたキンモクセイが香り、ムラサキシキブの紫の実が宝石のように美しい。長い首を伸ばしたツワブキの黄色い頭花が一枚ずつ開き始めた。
 ようやく巡った秋、それぞれの緑の個性を楽しんでいる。

にんげん我慾のかたまり

2006-09-23 | 日々の生活
書斎の本棚に、洗濯ばさみで短冊が止めてある。
「静かにいつも笑っている そういう者にわたしはなりたい」と、筆書きで自分の署名入りだ。 これは、今年の七夕に、孫たちと一緒に書いて笹に吊したわたしの願いだ。
 捨てたはずの短冊だが、この願いとはほど遠いわたしに、そうあって欲しいと、妻が当てつけに拾ってきたのだろう。 この賢治の詩「雨にも負けず」にある別の一節「欲はなく決して怒らず」も書けば良かったと、苦笑いしている。
 ときどき考えるが、自分自身は優しいと思うが、どうも自分にも優しい、勝手が過ぎるのかもしれない。欲については方向が問題なのだと思う。これからは、自分に向けてきた欲を反省し、もっと家族に、社会に、周囲に向けるように努力したいと思う。
 トイレの壁に相田みつをカレンダーがかかっている。
 21日の「にんげん我慾のかたまりにんげんのわたし みつを」が一つの戒めだ。
 

3つの奇形植物

2006-09-21 | 自然観察
四つ葉のクローバーは奇形の一種で、踏みつけなどにより成長点が傷つけられたため奇形になったと言われてきたようだが、東京学芸大学の多田多恵子先生は「四つ葉の出やすさは、遺伝的に決まっている。」と書いている。
植物には、何らかの原因で、本来の形とは異なる奇形が生じることがあるようだが、とても興味がある。
 関心を持って観察していると、身近なところにもけっこう見つかるものだ。昨年から見つけた3つの植物の奇形に関心をもっている。

1.オオバコ
昨年、散歩中に初めて見る珍しいオオバコに出会った。突然変異だろうか、普通のオオバコは花茎は一本だが、下の方から半分ほどは枝状に多くの花茎が付いていた。発見場所は、市内の他が点在する住宅地、道路際の田の土手にいろいろな草と一緒に生えていた。
 多年草なのでまた芽を出すと思いながらも、念のためにと、種を取って庭に蒔いたが、それらしい個体はまだ見つかっていない。
 今年も注意してみていたが、今日、同じ所で昨年と同じ奇形のオオバコを見つけた。
 昨年の記録では、7月には2本しかなかった花茎が、その後、たくさん花茎を伸ばした。 今日も、昨年のように何本も花茎を伸ばしているオオバコを見つけて嬉しくなった。しばらく観察を続けていきたい。


2.ノアザミ
今年6/23に、強清水の先の、戸の口原の草原で奇形のノアザミを見つけた。
 梅雨の晴れ間に、ギンイチモンジセセリの撮影に出かけた。いつものように草原に風に揺れて咲くノアザミにはヒョウモンチョウが蜜を吸いに来ていた。このとき、ちょうどケイトウの花のように、帯状の花序になって咲くノアザミのつぼみを見つけた。その成長を楽しみに何度か訪ね写真に撮った。しかし、ある日行ってみるとその一帯の草がきれいに刈られいた。チョウ観察のフィールドだったのに、残念でならなかった。(参:拙ブログ 6/30 「草原でアザミの歌を口ずさむ))


3.ユキノシタ
我が家のユキノシタが、珍しい花を付けた。普通ユキノシタの花は、5つの花弁あり、上の3枚は小さくて先のほうが桃色を帯び紅色の模様がある。下の2枚は白色で、大きく垂れ下がり左右の長さは等しくない。しかし、この珍しいユキノシタは下の白い花びらがなく、同じ大きさのピンクの花びらが10数枚付いていた。また、同じ株には、普通白い花びらが2枚なのに5枚あるものもあった。昨年は気づかなかったが、撮った写真で確認したら同じ株に同じ奇形が見られた。新しい品種となるのではないだろうか。
来年も珍しい花を見てみたい。(参:拙ブログ 6/21(珍しいユキノシタ))


キンモクセイの香り

2006-09-20 | 日々の生活
 今日、庭にほのかな秋の香りが匂った。急に膨らんだキンモクセイの薄黄色の1番花が咲き始めた。
 この初秋の香りには込み上げる思いがある。大病で長期に入院中の今頃、娘、息子が庭のキンモクセイを手折って見舞ってくれたことを思い出す。3年前の今頃は病状の回復思わしくなく、諦めかけていたころだった。
 今生かされて、今年もこの香りを一杯嗅ぐことができた。感謝、感謝、この上ない。キンモクセイを眺めながら、何より健康を思う。庭の小さな自然を愛でながら、慎ましく生かされたいと念じている。
やがて、本格的な2番花が咲くと、庭から、家中一杯に甘い香りが広がる。

 エッセイ「闘病を乗り越え 生きる喜び実感」 (2003.10)

 遠路、ほとんど毎週私を見舞ってくれた息子、娘が、庭のキンモクセイを手折ってきてくれた。涙が止まらなかった。今年の秋は例年以上に咲き、庭いっぱいに香ったとのこと。話に聞く庭の秋ももう終わってしまう。
 病魔に冒されついに入院3ヶ月を過ぎる長い闘病生活となった。手術後いろいろな後遺症に苦しみながらもまさに九死に一生を得、なんとか退院も近い今を得た。愛犬や庭の木々との再会を思い涙ぐむ日々、無言で枕に伏せやせ細った腕や点滴をながめながら、家に戻りたい一心で頑張った。
 思えば日本中の病院でこうして入院生活を送る病人がいる。カーテンで区切られた空間にそれぞれの苦しく辛い、不自由な闘病生活がある。健康の大切さを今更のように思う。
 何気なくながめる窓の空にルリタテハが勢いよく舞って行くのが見えた。もう寒くなる、精いっぱいの秋の陽を浴びよと声をかけた。

敬老の日

2006-09-18 | 日々の生活

 今朝の新聞の全面広告に目が向いた。タケダのアリナミンの宣伝広告だ。
孫を膝に乗せて、ジーンズ姿で、多少白髪の見えるハンサムな若々しいおじいちゃんの大きな写真をバックに、コメント書かれてあった。
おじいちゃんである。
しかし、じいさんではない。 と。
なるほどと思った。
続いてその下には、
「敬老の日」は、ある日突然にやってきた。
初孫のミルクの香りとともにやってきた。
認めよう。私は立派なおじいちゃんだ。
いつまでも元気でありたいと、今、こころから願う。     とあった。

 顧みて自分もこうありたいと思った。そして、そうあることはできるような気がした。
 毎日妻に言われること。「ひげをそりなさい!」。
妻に聞いたら、身だしなみが大事という。髪の毛、ひげを剃る、着るものもおしゃれにと。
そして、ときどきは美味しいものを食べに行ったり、映画をみたり、小旅行にでたり、自然に触れたりで若さが保たれると。
 考えてみると、確かに身だしなみは無頓着だが、他は今やっていることだ。
ひげは、面倒でそらないことが多いが、これからは毎日ひげを剃り、少しは身だしなよく、妻の言うことを聞いてみようと思った。

商品紹介の薬の写真の脇には、
 疲れている場合じゃない、あなたへ。と 添えられてあった。
本当だと思った。身体の健康に自信はないが、やることは沢山ある。疲れている場合じゃないと思った。少しでも若々しく、じいさんにならず、良いおじいちゃんでいられるようにしたい。


いつしか季節は秋

2006-09-16 | 日々の生活
 久々に沈む夕日を見た。
穂がほどよく開き花が咲き始め、夕日を受けてきれいに輝いていた。ススキは今が一番美しいと思う。
どこまでも高い空に絹雲が美しい。日中の日差しはまだ夏だが、吹く風はすっかり秋風だ。気づかないうちにそこここに秋の到来だ。山椒の実が真っ赤に色づき、ナナカマドも黄色くなってきた。小さかったツユムシ類の幼虫はもうおとな、鳴き始めている。急に秋を感じてしまった。
ところで、 今年の中秋の名月を調べてみたら10/06だ。
しばらくしていなかった秋の風物詩「お月見」をしようと思う。ススキを生け、お団子を供えて、十五夜の風習を孫たちにも教えてあげたいと思っている。
万葉集に「人皆は萩を秋と言うよし吾は乎花(をばな)が末(うれ)を秋というなむ」という歌がある。ススキは秋の代表の花だ。


田舎のくらしの豊かさ

2006-09-15 | 日々の生活
 近所のお宅で、3年前に奥さんが、つい最近はご主人が亡くなられた。お子さんは3人で、娘さんは外国へ嫁ぎ、息子さん2人は東京で所帯を持っているので、空き家になっている。今、子どもたちが遠くに離れて生活し、実家に老夫婦が二人で暮らしている家をいくつも知っている。我が家は、独立した子どもたち3人が会津を離れず、毎日顔を見ることもできるので幸せだと思う。
 誰しも故郷への愛着がないはずはないと思うが、都会で仕事に就き、戻れない現実があるのだろう。子どもたちが定年を迎えて、戻れる頃には親は老いすぎてしまう。また、お墓へ行くと荒れた墓が沢山ある。多分親が亡くなり、いろいろな事情で故郷を引き払ってしまった家も多いのだろう。日本中の田舎がそうなのではないだろうか。何か寂しいものを感じ、家とは、家族とは何なのだろうかと考えてしまう。
都会と地方の格差が言われるが、私は、豊かな四季の自然の中で、時がゆったりと流れる田舎暮らしの豊かさをいつも有難く思っている。


コラム「田舎のくらし」を読んだ。豊かさとは何か。もう一度立ち止まって考えてみたい。
 *********************
 「田舎のくらし
 田んぼの広がる風景から門口を入ると両側に野菜畑、それから右に鶏小屋、左には鼻息の荒い牛が1頭、さらに2階建ての大きな蔵と平屋の味噌蔵、向かいには農機具の倉庫を兼ねた作業小屋が並び、やっと庭に出て茅葺き屋根の家にたどり着く。
 土間があって、黒光りする床の間と奥座敷に囲炉裏が1つずつ、部屋の襖を順番に開けていくと大きな1間になった。台所にかまど、庭先に井戸があって、風呂は薪でたいて、外にトイレがあった。裏の竹藪を上がって行くと小川江筋が流れ、橋を渡ってさらに上ると「上の畑」に出て、沢村神社がある。
 周りは同じ姓の家が並び、ほとんどが親戚。がらっと開け放された玄関や外廊下、お勝手から「いたげ」と隣近所の人たちが自由に入ってきて、お茶のみが始まる。お茶うけは漬け物やサツマイモ、タケノコの煮物など旬のもので、イナゴが登場することもある。
 子どものころの祖父の家の風景。農家のくらし=田舎のくらしの方程式は成り立たないけれど、わたしの田舎、田舎のくらしの原風景でもある。家中に響く掛け時計の振り子の音がくらしのリズムで、時間がゆっくりゆったり流れ、春夏秋冬をしっかり肌で感じたくらしだった。
 茅葺き屋根の家は建て直されて囲炉裏や土間はなくなり、鶏も牛もいなくなり、井戸も蓋がされたままになって久しいが、辺りを歩き回る鶏、その鶏が産んだ卵の温もり、井戸に冷やしたすいか、土間の感触、囲炉裏のパチッパチッという音、畑でかじった野菜の味、すすけた柱、土間でのもちつき、あぜ道のにおい…は五感に記憶されている。
日々の新聞」第84号(8/31発行)より
 *********************
日々の新聞社
〒970-8036 福島県いわき市平谷川瀬字明治町83
TEL・FAX 0246(21)4881  
 **********************

癒しの便り

2006-09-14 | 日々の生活
月初めに、また癒しの便りが届いた。
みちくさ新聞と無名者の歌を一部ずつ封筒に入れ、宛名を書き、切手を貼る。そんな斉藤さんの気持ちを思うと涙が出る。
有難う!と、封を切って、隅々まで読んでいる。月に1度の静かな心豊かな時間が流れる。
今日も多くの方々の重い言葉に胸を打たれる。
世の中には苦しみ、悲しみに打ちひしがれた沢山の人生がある。
いつも、自分のちっぽけな体験が恥ずかしいと思い知らされる。
そして、生きている自分に気づき、勇気が湧いてくる。

【 みちくさ新聞第115号 みちくさ通信より】
何も知らないのです。
 耳に降り注ぐ蝉時雨。その賑やかな声と裏腹に、寿命はたった1週間程度。
うららかな春があったことも、涼しい秋が来ることも。何も知らないのです。
 そう思うと、哀愁を帯びて聞こえてきます。(山形県川西町 情野光子)

一房の葡萄

2006-09-13 | 日々の生活
《一房の葡萄》
 
 本場、山梨の親類から、秋の味覚「巨峰」が届いた。早速、孫たちといただいた。
あまりに立派なので、まずは鑑賞した。それはそれは見事なブドウ、お腹の中に入る前にと、早速写真を撮る。重さを量ったら一房が600gあった。妻は絵手紙に描くという。
一粒一粒はち切れるような大きな粒が、黒紫色に輝いていた。(心にはそう見えた)
 大きい房が垂れ下がる、山梨のブドウ棚が目に浮かんできた。そして、忘れていた物語「一房の葡萄」を思った。どんな話だったろうか、はっきり思い出せない。確か、教科書にも載っていた記憶があったが、と思いながら、有島武郎の薄っぺらい岩波文庫「一房の葡萄」を本棚に探した。
 一気に読んだ。「僕は小さい時に絵を描くことが好きでした。・・・」で始まる名作だ。
 友達の絵の具を盗んだ罪悪感と、好きな先生により助けられたこころの動き、そして葡萄の思い出だ。そこには、こんな表現でブドウが美しく描かれていた。

・・・・・ そういって、先生は真白なリンネルの着物につつまれた体を窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、真白い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏で真中からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い手の平に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。・・・・ 
最後の文は、「秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。

すっかり忘れていた物語を静かに読み終え、改めて名作だと思った。
 ここでのブドウは、時代からして巨峰ではなかっただろうが、巨峰を思い浮かべながらとても美しい話だと思った。
大きな葡萄の1粒を手のひらに載せての心を思いながら美味しくいただいた。

これから、梨、リンゴ、栗 と、秋の味覚が次々と出番を待っている。

「総合的な学習の時間」は教師の創造性から

2006-09-11 | 教育を考える


 文科省は次期学習指導要領で「総合的な学習の時間」のあり方について、根本的に見直す方針を固めたという。当時、ゆとりの中で生きた力を養うことを目標に新設された科目である。これからの教育は、心豊かに、皆が仲良く生きて行くために必要な感性や倫理観などの文化をより重視すべきであり、また、あらゆるものに主体的に取り組み、常に自己を啓発する姿勢、創造性が必要である。
従来の科目にとらわれない横断的内容で、生きる力をを生き生き学ぶことができる「総合的な学習の時間」は、教員にとっても自らの創造性が発揮できる意義ある科目となるはずだった。
 しかし、現在、中学校教員の6割がなくした方が良いと考えている。また、一部の学校で教科の補習や行事の準備に使われたり、学校間の取り組みに差がありすぎるらしい。そこで、今後は学習により身につける力を明確にして、評価も考えるという。
これら一連の経緯を見ると、その起因するところは、教師の科目に関する理念の認識が不足していたこと、そして授業を展開する創造的な能力の欠如と言わざるを得ない。残念でならない。
 もうペーパーで知識を問う時代は終わって欲しい。教師の仕事は、旧態依然、教科書を教えることではない。生徒の実態に適した、真の生きる力を身につける実践が欲しい。それは明確な目標の設定であり、教材の工夫であり、指導法である。と同時に、教師の情熱、意欲が不可欠なことは言うまでもない。
これからは、いっそう広い視野からの教師の創造的教育活動が求められる。
教師のさらなる研鑽を求めたい。

秋を迎える小さないのち

2006-09-11 | 日々の生活
             《産卵中のキアゲハ》

残暑にサルスベリが映える青空は、どこまでも高い。
 夏の終わりの庭に、ホシミスジが静かに舞っている。誰にも干渉されず、何の悩みもなく、囲まれる緑の中、ささやかな幸せを謳歌しながらひらひらと舞っている。 
 犬との散歩道では、頭を垂れ始めた稲穂の畦に、キンエノコロが朝日に輝き風に揺れていた。草むらには秋の虫が静かに鳴いている。
今の季節、ニンジンの葉に産卵するキアゲハ、ウマノスズクサに産卵し終えてボロボロの羽を休めるジャコウアゲハ、無心に蜜を吸っているベニシジミ等々、精一杯に、純真に生きるチョウの姿が愛おしい。
 こうした、秋を迎える小さないのちをファインダーに見つめながら、時の流れを、穏やかに過ごしている。