都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
早乙女(さおとめ)
若い女、とくに田植え働きの女をいう。植女(うえめ)と並ぶ古い用語で、ソウトメ、サツキ女、ハナムスメ、シヨトメなどとも呼ぶ。
田植(苗の移植)は稲作の要(かなめ)で、多人数の働きで一挙に仕上げる必要があり、古くから生命を産み出す女性の仕事であった。
また田植には田の神を迎えての予祝の祭りが古くは随伴したようで、花田植・大田植の行事や神田の田植神事にいまもその名残(なごり)をとどめる。早乙女はそこでも主役をつとめ、また田植踊りの芸能でも同じ役割を演ずる。早乙女の「サ」はサオリ(田植初(はじ)め)、サナブリ(田植終(じま)い)、サナエ、サツキの「サ」と同じく「田の神」にかかわる語で、それに奉仕する「聖なる乙女」が早乙女の原義ともみられる。以前4月3日に桜の項で書いたサ座(さくら)も神の宿る木と云う意味の「サ」と同じである。
田植の際「田主(たあるじ)」の若い妻女をウチサオトメと称してヒルマモチ(田植の食事運び)の役をつとめたという伝承はとくに注目され、こうした奉仕役のヒルマモチ、オナリ(養い女)が早乙女の古い形で、やがて田植働きの女の呼び名にそれが広がったのであろう。
少なくとも早乙女の「サ」は単なる接頭語ではない。田植女は紺絣(こんがすり)の着物、赤襷(あかだすき)、白手拭(しろてぬぐい)に菅笠(すげがさ)という晴れ姿で、田植唄(うた)もにぎやかに集団作業にあたり、ユイ、テツダイで仲間をつくり、家々の田植を順次済ませる形が以前は通例であった。
一方、集団的な田植女の出稼ぎも古くからあって、旅早乙女(たびそうとめ)などとよばれ、田植時期の異なる地方の間に多く行われた。そしてその周旋にあたるソウトメ宿、ソウトメ廻(まわ)しなどの仲介業者も各地に生じていた。
田楽(でんがく)
田楽(でんがく)と聞いて豆腐や蒟蒻、味噌を連想する人がほとんどで、舞をイメージする人はまず居ないのではないかと思う。食物の田楽が実は舞の田楽から名付けられたものであることを知る人も少ないだろう。
田楽の演目の一つに「高足(こうそく)」というものがあり、田楽専門職である田楽法師が高足(一本足の竹馬のようなもの)に乗り曲技を披露する姿が、豆腐を串に刺した田楽の姿に似ることから名が付いたとされる。
田楽の起源は、古く平安時代(794~1185年)に遡るといわれ、豊作祈願の農耕儀礼であった「田遊び」「御田(おんだ)」などから派生したと一般的にいわれている。田遊びとは、一つは年始に一年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し、田作りから刈入れまでの稲作課程を模擬的に演じる豊作予祝の神事芸能、もう一つは実際の農作業の過程で行われる儀式・祭礼の2種類あり、各地の寺社などに継承され現在でも数多く見ることができる。
中でも田植えは、大人数で、短期間で、集中して一気に行わなければならない作業のため、士気を高め、効率を上げるため、作業者を鼓舞するためのノリの良い歌・囃子が必要だった。これが田楽の原型といわれ、農作業の一部であった歌や囃子は独立し、芸能として確立した。華美を競い、豪華な扇子や鮮やかな花笠に、金銀ギラギラの豪奢な衣裳で、笛・腰鼓(ようこ)・ビン簓(ささら)・銅拍子(どびょうし)などを囃子に群舞が舞われ、刀剣・玉・高足・一足などと呼ばれる曲芸的な芸が演じられ、儀礼と併せて派手な見せ物として広まり、日本中で大人気となった。
院政期(平安末期1086~1185年)には田楽の座(職業芸能者集団)が数多く結成され、町衆から貴族(公卿・殿上人)・儒者までが田楽踊に熱狂した。
永長元年(1096年)の熱狂は「永長の大田楽」として、たくさんの田楽座が平安京の都大路を踊りながら練り歩き、その見物の桟敷が崩れる程の大騒ぎであったと「洛陽田楽記」に記録が残っている。
更に鎌倉時代に入ると、執権・北条高時が田楽に耽溺したことなどが「太平記」の記録に残り、また室町幕府4代将軍・足利義持は、田楽新座の増阿弥の芸を特に好んだというので、本座(近江)・新座(白河)など核となる座が形成され、田楽の能に変容し、伝統芸能として幕府の庇護を受けながら興隆していった。
増阿弥は田楽新座の名手・喜阿弥(亀阿)の弟子で、謡(音曲)に優れていたという。京周辺の寺社などで大規模な勧進田楽(寺・橋の修復のため資金調達手段としての公演)を度々催し、桟敷には将軍を始め、大名が数多く見物に出かけたようだ。観阿弥(能楽の始祖)がその芸風を称え、観阿弥の子・世阿弥も彼をライバル視している。また彼が今日に残る能面「増(女)」を考案したといわれるなど、田楽の能と猿楽の能が融合いていった。観阿弥の子・世阿弥は有名な著書「風姿花伝」の中で、一忠・清次(観阿弥)・犬王(道阿弥)・亀阿(喜阿弥)を能楽の祖としているが、そのうち二人が田楽の名手であり、田楽の妙技も吸収されて能が成立した。
鎌倉時代末期には大流行していた田楽衆を猿楽衆が凌駕し、田楽は大和猿楽座の興隆と共に衰退し、表舞台から消えていった。
表舞台から消えたとはいえ、消滅した訳ではない。獅子舞や神楽と融合するなど形を変え、様々な形態で奉納田楽として各地の寺社に伝え継がれている。