都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
蜃気楼の時計
都月満夫
今朝は雲ひとつない青空です。桜の花びらが、舗装の道を転がっています。舗装の十字路の角に、花びらが集まっています。この花びらの道の上を僕は車で走っています。この青空の下を、僕はこれから、彼女に逢いに行きます。
僕は帯広で生まれ、帯広で育ちました。帯広の空気は青く突き抜けています。十勝の春は、緑が一面に広がっています。札内川の清流は、ガラスのように輝いています。雲雀は青空の中に、囀りと共に、吸い込まれていきます。街はタータンチェックの様に整然としています。
釧路の空は重く垂れ下がっています。空気は不透明に澱んでいます。海は灰色に盛り上がっています。カモメはいつも風に流されています。モザイクに刻まれた街は、雑然として迷路のようです。霧に沈む街並みは幻想のようで、晴れ間に現れる現実と交錯します。僕は、未だに迷路の中で迷子になります。
彼女は釧路で生まれ、釧路で育ちました。霧の町釧路で生まれた女の子だから霧子。あまりにも単純な命名だと彼女は怒っていました。でも、誰でもすぐに憶えてくれると、笑ってもいました。
そんな霧子に、僕は帯広の青い空を見せてあげたいと思います。十勝平野の緑の大地に立ってほしいと思います。札内川の清流の輝きを感じてもらいたいと思います。天空に響く雲雀の囀りを聞いて欲しいと思います。四角い街並みを二人で歩きたいと思います。
僕たちの出逢いは偶然でした。僕がたまに行く喫茶店『FOG』で、霧子はアルバイトをしていました。その店は、クラッシック音楽が、いつも流れていました。霧が流れるように、静かに流れていました。僕は音楽に特別興味があった訳ではありません。でも、僕はただ、その店の静けさの中に、身をおくことが、とても気に入っていたのです。
マスターは、五十歳代の無愛想な人です。いつも、パイプ煙草の煙を棚引かせ、本を読んでいます。LPレコードを丁寧に拭いています。客が大声で話をすると「出て行ってくれ…。」とボソッと言うような人です。昼間でも仄暗い店内が、静かで落ち着けたのです。だから、気に入っていたのです。
そして、コーヒーを運んでくる女性の、チョッとだけの笑顔が、気になっていたことは言うまでもありません。
ある日、彼女がコーヒーを運んで来たときに、僕がトイレに行こうとして立ち上がりました。僕の肩が、彼女が持っていたトレイに触れて、コーヒーを溢してしまったのです。
「ごめんなさい…。」
彼女が小さい声で言いました。
「大丈夫…です。」
僕も小さい声で言いました。二人はマスターの方を、ソーッと見て、顔を見合わせました。彼は気が付いていないようでした。
こうして、僕たちは話をするようになりました。そのとき初めて、同じ大学に通う学生だと分かりました。それだけで二人は近親感と安心感を抱き、付き合いが始まりました。
僕は大学で、小学校の教師を目指していました。霧子も同じ大学の二年後輩でした。
霧子がウエイトレスのアルバイトをしていなかったら、僕たちは出会わなかったかもしれないのです。僕があの時、尿意をもよおさなかったら、僕たちは付き合わなかったかもしれないのです。
釧路の町は、漁業と石炭で活気に溢れています。霧子の父親も炭鉱に関連した会社の役員をしていました。彼女の父親は、「東京の短大に入学して、卒業したら、すぐにお嫁に行くように…」と言ったそうです。
父との話し合いは平行線のままでした。霧子はどうしても教師になりたくて、家を出ました。霧子は、父親が嫌いだった訳ではありません。釧路も嫌いではありませんでした。だから、釧路の大学に進学しました。父親との決定的な断絶は避けたかったのです。
こうして、霧子は釧路に留まり、アルバイトを始めました。僕は教師になりたくて、帯広から釧路にやって来ました。そして、小さな喫茶店で二人は出会ったのです。
僕は憧れの教師になりました。帯広の小学校で、もう二年目になりました。
僕は卒業して、帯広に戻ってからも、何度も釧路に行きました。そのために、中古の軽自動車を買いました。三六〇CCの軽自動車です。先生たちの中で、自家用車を持っている人は数人しかいません。殆どの先生は、バイクか自転車で通勤しています。徒歩で通う先生もいます。新米の教師が、自家用車を買ったというので、とやかく言う先生も何人かいました。しかし、僕にとっては、自家用車は必需品だったのです。霧子に会いに行くために、必要だったのです。
僕は霧子に電話をしました。必ず話ができるように、電話をかける時刻は決まっています。夜の九時、僕たちはそれを「ナインコール」と名づけました。電話を掛けるときのダイヤルが戻るスピードが、とても遅く感じられました。こうして、僕は霧子に、教師生活の素晴らしさを、毎晩話しました。
その日にあった出来事を、僕は夢中になって話しました。一人ひとりの児童の名前を挙げて、話しました。
霧子は目を輝かして僕の話を聞いてくれました。勿論、電話ですから、目の輝きなんか見えません。見えなくたって、僕には判ります。霧子は僕と同じくらい、僕の児童のことを知っています。もし彼女が、僕の児童の前に立ったら、一人ひとりの名前が言えると思います。「私も早く、子供たちの前に立ちたい。」と、胸を躍らせています。
黒い受話器の重さなど、気にすることもなく、僕たちは、毎晩話しました。
明日からゴールデンウイークです。帯広ではもう桜が咲きました。釧路は、まだ咲いていないと思います。でも、霧子の笑顔は桜以上に素敵です。これが霧子の笑顔ですと、みんなに見せてあげたいくらい素敵です。その笑顔に、僕は今から逢いに行くのです。
「兄貴、父さんがいなくなったって本当か。」
「ああ、うちのおかあさんが仕事から帰ったらいなかったんだけど、七時を過ぎても帰らないんで、お前に電話したんだ。」
「車を運転して行ったんだって?」
「最近、変だったから心配なんだよ。」
「何かあったの。」
「うん、お袋が亡くなって、そろそろ三年だ
けど、未だに受け入れられないみたいで…。」
「それは、ズーッとそうじゃないか。」
「そうなんだけど…。最近、お袋に逢いに行くとか、迎えにいくとか、ポツリと言ったことがあってな…。」
「そんなこと、よく言うんじゃないの…、年寄りは…。」
「それが、よく言うって、そういう表情じゃないんだよ。何か視点が定まらないっていうか、ぼんやりしてることがあったりして…。」
「それはそうなんじゃないの。父さん、母さんのことが大好きだったし…。」
「そういうんじゃないんだ。時々、大丈夫かなって…。時々なんだけど…な。」
「それって…、認知症?ってこと…。」
「かもなって…、感じ…。普段は全然なんともないんだけどな…。親父、どこかに出かける時も、遅くなるときも、必ず連絡して行くじゃない。几帳面だから…。」
「義姉さんにも連絡なしってこと…。」
「そう、こんなこと今まで一度もなかった。お義母さんが生きているときも、亡くなってからも、一度もなかった。」
「そうだよ。一度もなかったよ。記憶にないもの。」
「だったら、兄貴、警察に届けたほうがいいんじゃないかな。」
「だけど、なんかあったら、警察のほうから連絡があるんじゃないか?」
「もう少し待つか…。」
「じゃあ、コーヒーでも落とすか…。」
「いいね。兄貴は何飲んでるの?」
「モカ…。」
「相変わらずだな。」
「そう。相変わらずさ。」
「おとうさん、そんな呑気なことしていて、いいの?」
「いいさ、待つしかないだろう。」
「ところで、兄貴…。父さん、最近そんなに落ち込んでたの?」
「そうだな。お袋の三回忌が去年終わって、仕事をしているうちは、元気だったけど、今年退職してから、元気なかったかも…な。」
「別に趣味があるわけじゃないし…。母さんが趣味みたいなもので、母さんといれば、ご機嫌だったからな。」
「ほんとに、お義父さん、お義母さんのことが大好きだったもの。」
「そうだよ。兄貴の名前が『航』で、オレが『洋』そして義姉さんの名前が『渚』って分った時は、大喜びだったからな。」
「そういえば、私もお嫁に来てから言われたことがあった。いい名前だって…。」
「そして、親父の名前が、水平線から日が昇るで『昇平』。だけどお袋の名前があんな名前でなかったら、俺たちこんな名前付けられてなかったと思うよ。おまけに苗字が『海野』だもの。」
(笑い)
「兄弟で、そんなに笑っていてもいいの?」
「いいさ、どうしようもないんだから…」
「おとうさん、お湯が沸いたわよ。」
僕は今、霧子を迎えに行きます。彼女のアパートまで、迎えに行きます。僕たちは来月、結婚します。だから今日は引越しなんです。郊外の団地の市営住宅に引越しするのです。
僕の父親が勤務先の会社から、トラックを借りてくれました。後で、母さんと二人で来てくれます。弟も手伝いに来てくれます。霧子のご両親も手伝いに来ると言ってくれましたが、遠いので、お断りしました。
僕は先に行って、霧子と荷造りをします。夕べ二人で細かいものは片付けたので、もうそんなには残っていません。女性の一人暮らしなので、大きいものはありません。ベビーダンスと、化粧台、布団ぐらいです。
二人の両親はとても喜んでくれています。互いの両親の笑顔に包まれて結婚する僕たちは、本当に幸せです。親たちは心配して、いろいろ買ってくれると言いました。でも、小さな団地なので大げさなタンスとかは、かえって邪魔になるので断りました。それでも、彼らはどうしても何か買ってくれるというのです。
霧子の両親には食器棚を買ってもらいました。すると、食器のセットまで買ってくれました。僕の両親には、ちょっと大き目の冷蔵庫を買ってもらいました。今、流行りのツードア冷蔵庫です。上下に分かれていて、上が冷凍室になっています。共稼ぎの僕たちには大き目がいいと思ったからです。食器棚と冷蔵庫は、団地のほうに直接届けてもらうことになっています。
結婚式は会費制で行います。一般的には、会場を借りて、仕出し屋さんから料理を取って行います。会場の設営は勿論、余興のバンドの手配から、司会まで発起人の仕事です。
でも、それでは発起人になってくれた先生方が大変なので、結婚式場で行うことにしました。種々の段取りは式場がやってくれる、新しいやり方です。余興の生バンドや司会の人も、式場で手配してくれます。
霧が出てきました。急がないと、濃霧になるかも知れません。
「美味いね。兄貴の落としたコーヒー、久しぶりだよ。」
「コーヒーを飲むと、気持ちが落ち着くな。」
「ホント、ほっとするよ。」
「二人とも、コーヒーなんか飲んでる場合じゃないわよ。霧が出てきたみたい…。」
「本当だ。霧だよ。兄貴、警察に電話してみようよ。」
「そうだな、電話するか…。」
「そうしたほうがいいわよ。」
「もしもし、…」
僕は彼女を迎えに行くんです。何処に住んでいるのかって?
そんなことを何故あなた方に話さなければいけないんですか?
ぼくの年齢ですか?
そんなことあなた方に何の関係があるんですか。霧が出てきたじゃないですか。早く行かなければ…。彼女が待っているんですよ。
何しに行くのかって?
引越しですよ。だから彼女のアパートまで迎えに行くって、言ってるじゃないですか。僕たちは結婚するんですよ。
もう夜ですよ…って?
分かっていますよ。あなた達が僕を引き止めているから、夜になってしまったんじゃないですか。どうして、僕がここに引き止められなければならないんですか。
失礼じゃないか、君たち。僕は大人で、これから結婚するって、さっきから言ってるじゃないか!
霧子だ。霧子だよ!
誰だって?僕の婚約者だよ。僕がこれから迎えに行く、彼女だよ。
何を笑っているんだ、君たちは。僕が結婚するのが可笑しいのか?僕が結婚しちゃいけないのか?
「私の父親なんですが、六十一歳です。家にいないんです。こんなことは今までなかったもので、何か事故にでもあったのではないかと心配で…。そうですか、今のところ事故の連絡は入っていないですか。はい、特徴ですか。身長は一六八センチメートル、小太り、頭は七、三分けで多少白髪があります。服装は多分、濃紺のブレザーに紺のズボン、青いシャツを着ていると思います。携帯電話は持っていません。はい、お願いします。」
「兄貴、何だって?」
「うん、今のところは、事故もないし、該当するような男性は保護されていないそうだ。」
「それはそれで安心だけど…、それじゃ何処にいるんだ?」
「何か分かったら連絡をくれるそうだから、待つしかないだろう。」
「おとうさん、教員時代の先生方に訊いてみたら。何か分からないの。」
「そうするか。だけど、親父の住所録、何処にあるんだ。まず、それを探さないと…」
「…。」
「電話が来たわよ。警察かも…」
「はい、そうです。それらしい人が交番に保護されている…。名前も、住所も、年齢も分からない…。免許証を持っていない。ウチの父親はそんなことはないと思いますが…。えっ、結婚ですか?結婚するって言ってるんですか。母親は三年前に亡くなりましたが、結婚の話は聞いておりません。そんな予定はありません。彼女を迎えに行くって言ってるんですか?お付き合いをしている女性はいません、違いますね。ウチの父親ではありませんね。えっ、もう一度お願いします。霧子ですか?霧子って言ってるんですか、迎えにいく彼女の名前。青い服を着てるんですか?それ…、ウチの親父です。…多分。」