都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
【稲荷信仰について】
稲荷は最も普及している身近な現世利益神のひとつです。信仰の源流は京都の稲荷大社で、御祭神の倉稲魂神(うがのみたまのかみ)と、密教の稲荷ダ枳尼天(だきにてん)が習合して、神道系と仏教系の稲荷信仰が成立したのです。
《ダ枳尼天(だきにてん)》
仏教の鬼神で、密教では、胎蔵界曼陀羅(まんだら)外院にあって、大黒天に所属する夜叉(やしゃ)神。自在の通力をもって6か月前に人の死を知り、その心臓を食うといわれる。日本では狐の精とされ、稲荷(いなり)信仰と混同されている。
稲荷神は奈良時代の、和銅四年(西暦711年)二月九日の初午(立春後の最初の午の日)に渡来の有力氏族で、山城国(京都)深草を拠点のひとつとしていた、奏氏の遠祖・伊侶具公がこの地に神を祀ったのに始まると伝えられています。
元来は現在の稲荷山の三つの峰を神として祀った奏氏(はたし)の氏神であったらしいのです。
平安時代初頭に空海(弘法大師)が山頂に有った上社、中社、下社を山麓に遷し東寺(教王護国寺)の鎮守神としたそうです。
この頃、稲荷神社では、近接地にあった田の神を祀る田中社としてとり入れましたが、その影響で祭神自体が、稲の穀霊に起源をもつ食物神・倉稲魂神とされるようになったのです。
稲荷の名は稲が生えるイナナニの訛りとも言われています。稲生りは、保食神(うけもちのかみ)が月読命(つきよみのみこと)に殺されたとき、その腹に稲が生えたという神話が日本書紀などにあることから、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)(保食神)である稲荷の神名となったとしています。
稲荷は空海が朝廷から東寺を与えられたとき、稲を担いだ老人に稲出会い、これが荷神であったという伝説に由来するという。稲荷神社は平安時代を通じて、真言宗との結びつきを強めて繁栄し、その別当寺として愛染寺が設けられました。
天長四年(827年)空海が教王護国寺の搭の用材に稲荷神社の神木を伐ったところ、稲荷神社のタタリがあり、それを鎮めるために従五位下の神階が授けられた。稲荷神にはこの後幾度も神階が授けられ、天慶五年(942年)最高位の正一位に昇けられたのです。
稲荷神社は平安時代を通じて朝廷の奉幣を受け二十二社のひとつとされました。延久四年(1072年)後三条天皇が始めて稲荷神社に行幸されて以後、鎌倉時代まで祇園社と共に両社が行幸の例となりました。
稲荷神社では真言密教(東密)の行法が盛んに行われ、密教系の稲荷業者によって稲荷信仰は遠近の諸国に広がったのです。真言密教では、稲荷神をダ枳尼天(だきにてん)と同一としました。
ダ枳尼天の法を修めると、自在の力が得られるとされることから、修験道でも盛んにこの法を修めた。平安時代後期にはダ枳尼天(だきにてん)の本体は霊狐とされるようになり、後の白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)という別名も生じた。これはダ枳尼天がキツネに乗った姿で描かれていることから出た説のようである。
貴族の間ではキツネを炎魔天の使いとし、これに福徳を求める信仰が流行したのである。
《炎魔天(えんまてん):閻魔王(えんまおう)》
十二天の南の担当です。古代インドではヤマといわれヤミーと言いう妹がいます。漢字では夜魔または夜摩と書きます。
ヤマは世界で初めて死んだ人とされていて、死者のための道を発見したので、ヤマ王=閻摩羅社と崇められるようになりました。羅社=ラージャはサンスクリット語で王様のことです。
中国に伝わってからは衣装が中国風に変化し、閻魔王に変わります。焔魔、焔摩、などとも書かれ、平等に罪を治す職務から平等王とも訳されます。
源平盛衰記によれば平清盛はキツネを妙音天(弁財天)の化身、貴狐天王とよんで尊崇し世上では、その通力で栄達をとげたと信じられていたという。この時期には伊勢神宮にも専女とよばれる霊狐(巫女ともいう)がおり、狐の信仰が盛んであったがその背景にはキツネを田の神の神使とする、農民の伝統的な信仰があった。農民は身近に棲んで神秘的な性癖を示す狐を霊獣とし神使と信じていた。狐の活動によって神が人間とくに女性にのりうつり、神の言葉を語ると広く信じられた稲荷信仰の普及と共に狐は稲荷神の使いとされ、やがて、稲荷を狐の神とし、更には稲荷神自体を狐とするにさえ至った。
稲荷神の別名の御鐉津神を「三狐」大宜津姫神を「大狐神」と書くことも行われた。
こうして稲荷信仰は中世には田の神の信仰、狐の信仰と結びついて普及し、各地の農村では盛んに稲荷が勧請された。修験道ではダ枳尼天(だきにてん)が使う動物を狐とした。中世には修験の霊場・信州飯縄(飯綱)山の飯縄権現もダ枳尼天とされ、飯縄使いが使う呪術をもち歩いた。江戸時代には稲荷神を使う呪術者の稲荷下げ、狐下げが民間で活動した。
室町時代に商業がめざましく発展すると、稲荷は福徳をもたらす現世利益神として都市で広く信仰されるようになった。稲荷の神の神使である狐は尾の形が竜王の脳の中から出た珠で、これを持つとあらゆる思いが叶うという如意宝珠に似ている事から、承認の間では特に縁起がよいとされた。
江戸時代には稲荷信仰は全国に及び、東日本では同族神、屋敷神として稲荷を祀ることが一般化した。江戸中期の都市では、稲荷は現世利益神として最も人気があり、町々に赤い鳥居に石の狐を配し、赤い社殿に「正一位稲荷大明神」の幟を立てた稲荷者が乱立するに至った。
寺院でもダ枳尼天を盛んに祀り、愛知県の豊川稲荷(曹洞宗妙厳寺)のように、稲荷信仰で全国に知られる寺院も現われた。
江戸時代中期に田辺意次(たなべおきつぐ)小身の紀州藩士から老中に出世すると、居宅に稲荷を祀っていた霊験であると評判になり、武士の間で屋敷に稲荷を祀る者が続出し、やがてこの流行は町衆にも及んだ。
初午の日に稲荷に狐の好物の油揚げを供える習慣も稲荷信仰の普及と共に広まった。
稲荷の狐が口にくわえたり、尾に巻かれたりしている宝珠は火炤の玉である。稲荷の鳥居は赤く塗られているが、これも火炤を表現しているのであり、これから稲荷神は竈にも通じ、竜神とも考えられる。
《火炤の玉(かえんのたま)》
球状の火のかたまり。特に、夜、墓地などで空中を飛ぶという火のかたまり。鬼火。
火炤玉:火炎に包まれた宝珠をかたどった細工物。御輿(みこし)の頂などにつける。
五穀豊穣を祈願して農耕の神を奉ったのが起源とされている稲荷大社。その総本山である伏見稲荷大社では、初夏に恒例の田植祭が行われます。本殿での神事後、境内の神田にて平安朝装束の巫女が優雅に御田舞を舞います。菅傘・茜襷(あかねだすき)の早乙女30名が田植えをしていき、今年の五穀豊穣を祈ります。
お稲荷さんは朱い鳥居と狛犬のように鎮座する一対の狐が特徴で、この国の人で知らない人はいない神社でしょう。 全国の神社が13万社といわれます。その内約4万社がお稲荷さんです。他に、工場、ビル、商店街の片隅などをいれますと、その10倍は鎮座しているでしょう。
《狛犬》
狛犬の起源はインドや中央アジアに棲息していたライオンであるといわれ、それが朝鮮の高麗(こま)を経て日本に伝えられたことから、「狛犬(こまいぬ/高麗犬)」と呼ばれるようになったといわれています。
日本に伝えられた当時は、「左に獅子、右に狛犬」を一対としていたようですが、現在では獅子と狛犬の違いはなくなり、両方とも「狛犬」と呼ばれるようになりました。
《狐と油揚と稲荷寿司》
古くから、狐の好物は鼠の油揚とされていた。狐を捕らえるときには鼠の油揚が使用されていた。後に稲荷神社の狐に豆腐の油揚が供えられるようになります。
稲荷寿司と海苔巻きを組み合わせた折り詰めは助六寿司といわれる。歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」の主人公、助六の愛人の名が揚巻であることから、 油揚げとのり巻きの洒落から名付けられているのです。
《米に関する言葉》
新米の社員・年貢の納め時・青田買い・同じ釜の飯を食べた仲・米寿・腹持ちが良い・おくて(晩生)・稲<wbr></wbr>光:稲魂・稲交接<wbr></wbr>
早乙女・五月・桜などの「さ」は「耕作」を意味する古語で、神を指す接頭語となった。
米は日本人にとって大切な食べ物ですから、それだけ言葉にも深い思いが込められています。米がとれる植物は稲、その実が籾(もみ)、精米すると米、それを炊くと飯(めし、ごはん)とそれぞれの段階に言葉を与えて大切にしてきました。日常で使うごはんと米にかかわる言葉の意味をみてみましょう。
「めし」と言うと今では少し粗野な響を持ちますが、もともとは「召す」の尊敬の動詞で、「召し上がる」「召し給う」という敬語から来ています。「神様の召し上がりもの」「神が召し給う」の意味で、わが国では古くから、お米は神様が食べるもので、人は神の「おさがり」をいただき、神様と同じものを食べることによって御加護を受けたいという思いが込められていました。「いただきます」と普段私たちが食事の前に手を合わせるのも自然の恵みや作ってくれた人への感謝の気持ちを表したものですね。このように、「めし」の語源をたどると最大級の敬語でした。
さらに、「御飯」と御の字を付け音読みにしたていねい語は、ごはんがありがたいものという思いからきています。また、おすし屋さんなどで使われる「しゃり(舎利)」という言い方も、釈迦の骨のことで、どちらも尊いものとの意味からきています。
私たちの生活はお米抜きには考えられないほど、お米に頼って生きてきたかが分かります。お祭だって五穀豊穣、その他の年中行事がほとんど稲作・米に関係があるのです。「米食わぬ者日本人にあらず。」と言ってもいいくらいです。日本人の腸の長さは米を食べる長さになっているのです。肉を食べる欧米人より長いのです。お米を食べて長生きしましょう、米寿まで。